17.潰すつもりじゃなかった(6)
湯を飲み下し、吐き、を繰り返した夏蓮は、その後気を失うようにして眠り込んでしまった。
が、次に目を開けたとき、自分が寝台に横たえられていることに気付き、跳ねるようにして起き上がった。
「う……」
途端に、ぐらりと眩暈、そして吐き気が襲う。
頭痛もひどい。
だが、耐えられないほどではなかった。
少なくとも、覚悟していたのとは異なり、死んでいない。
口元を強く両手で押さえながら、夏蓮は恐々と周囲を見やった。
瑞景宮では、ない。
窓から差し込む青い月光から察するに、おそらくは、子の刻かそのくらい。
寝台や窓枠の質素さを見るに、ここは白泉宮の一室であるようだ。
貴人たちの誰かに運び込まれたのだろう。
衣服も、ほかの女官のと思しき新しいものに着替えさせられていた。
「なぁに……、起きたの? 水、飲む……?」
ふと、すぐ近くから声がかかる。
ぎょっとして振り返ってみれば、枕辺に置いた座椅子に、腰かける者がいた。
眠そうに目を擦っているのは、珠珠と呼ばれる女であった。
「それとも、もう一回、吐いとく?
「あの……」
夏蓮が口を開くよりも早く、相手はうとうととした様子で告げる。
「……気持ち悪かったら、呼んで……。この時間帯が一番、危ないから……吐くときは、必ず、他人に……」
付き添ってもらうように、と最後まで言い切る前に、彼女の目がすうっと閉じられてゆく。
こくり、と船をこぎ出した相手を見て、これまでの時間、ずっと彼女が水を差し出したり、背中をさすったりしてくれていたことを、夏蓮は切れ切れに思い出した。
彼女も火酒を飲んでいたのだ。相当眠いのだろう。
「……お人好しな、方ですね」
呟く声が、薄青い闇に溶けてゆく。
眠る相手をしばらく無言で見つめ、やがて夏蓮は、そっと寝台を下りた。
あちこちで付け焼刃の楽の音が響く、広い後宮内を、がくがくと震える足で、ゆっくりと歩く。
遊牧民であった彼女には、松明などなくとも、月明かりさえあれば、位置を知ることなどたやすい。
身を切るような冷たい夜気に、白い息を溶かし、黙々と歩みを進めた。
たどり着いた瑞景宮の、その最奥の一室には、いまだ明りが灯されていた。
「――おかえりなさい」
楼蘭は、燭台の細い明りを頼りに、鏡台の前で髪を梳かしていた。
女官の手も借りず、丁寧な手つきで、香油を髪へと塗り込んでいる。
いつものことだ。
この女性は、寵愛深き嬪だというのに、入浴や髪結いすら、女官の手を借りようとしない。
じっと鏡を覗き込む姿は、美をうっとりと追求する
そしてそれが、この女の本質なのだと、夏蓮は思う。
彼女は誰も信じない。そして、いつも爪を研ぎ澄まし、なにかと戦っている。
「遅かったのね。お酒はきちんと、召し上がっていただけたのかしら?」
やがて
「珠珠様には、だいぶ。ただし恭貴人様には、お召し上がりいただけませんでした。……私が途中で、倒れてしまったためです」
「まあ。なのに、帰ってきてしまったの?」
案の定、昏倒した女官を案じる気配は、楼蘭にはない。
「妹君も、さぞ残念に思われることでしょうね」
それが、夏蓮の働きに対してもたらされるものの、すべてだった。
叩頭する夏蓮の前で、楼蘭は棚を探り、今度は髪紐を取り出した。
細い指先でゆっくりと髪を編み、まとめる。
「あなたの帰りが遅いから、もしやお酒が無事届かなかったのではないかと思って、ほかの太監にも、『届け物』をしてもらうように伝えたわ。なので、あなたはもう、下がってよろしくてよ」
きゅっ、と紐先を結びながら、付け足した。
「永遠に」
「…………」
夏蓮は、しばし黙り込んだ。
これまでのように縋り、許しを請うことはしなかった。
代わりに、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……これまで、大変お世話になりました。私はただいまをもって、御身の前を、去りたく存じます」
「ふうん、そう。妹君の弔いは、済ませずともよいと割り切ったのですね。薄情な人」
楼蘭という女は、相手を一番傷付ける言葉を、熟知している。
夏蓮は咄嗟に体を強張らせたが、意識的に息を吐き、力を抜いた。
いや、抜ききることなど到底できない。
次の言葉を紡ぐのに、心臓は、早鐘のように脈打っていた。
「いいえ。私は、ほかの宮に移り、弔いを続けたいと存じます」
「……ほかの宮?」
「白泉宮に」
告げてから、顔を上げ、言い直す。
「いえ、珠珠様のもとに」
その瞬間、楼蘭の顔が険しくなるのがわかった。
「一時的に宮に身を寄せているだけの、奴婢の女性が、女官の面倒を見られるとでも思ったのかしら。それも、韋族の娘で、あの白豚妃の腹心であった、あなたのことを」
「珠珠様は、必ず妃嬪になられます。そして、女官を必ず大切になさいます」
夏蓮はまっすぐに楼蘭を見つめた。
「そう信じられる方に、私は出会ったのです」
「…………」
天女のような美貌の嬪は、しばし黙って夏蓮を見返した。
信じる、と言葉をなぞるように呟き、それから唐突に笑いだした。
おかしくてたまらないとでも言うように。
「そう! 信じられる主人に出会ったの。自分を守ってくれると。よかったですわねえ!」
「……祥嬪様?」
「ふふ。いいわ、送りだして差し上げる。けれど、二度とそのお顔を見せないでね」
捨てられた後の離反とはいえ、不興を買えば殺されても逆らえない身分だ。
夏蓮は楼蘭の言葉を、厚意として受け取ることにした。
「承知いたしました。またこの四年、前の主人に代わり、病身の妹へ俸禄を払ってくださったご恩は、けっして――」
「ああ、いいのよ。礼には及ばないわ。だって、白豚妃様の金子ですもの」
「……は?」
言葉の意味を、掴みそこねた。
眉を寄せて顔を上げる夏蓮の前で、楼蘭は香油を棚に戻しはじめる。
揺れる炎に照らされた美しい笑みが、ひどく酷薄に見えた。
「ねえ、知っていて? 彼女……あのお人好しな白豚妃様の隠された趣味はね、週に一度、こっそりと髪の手入れをすることだったの。自分のではなく、女官のよ。異民族の奴婢の、汚らわしく縮れた黒髪と髪紐に、せっせと香油を擦り込んでいたわ。変色しないようにね」
「え……?」
細い指先が、最上段の棚を探り、その天板の裏からあるものを取り出す。
それは、明らかに上等のものとわかる、
楼蘭はひらりとそれを摘むと、夏蓮に向かって掲げてみせた。
「見覚えがあって? 五年前だったかしら。陛下の誕辰で、妃嬪に返礼品として下賜された正紙よ。植物の葉が透かしてあって、金彩で蓮の模様が描かれているの。彼女はそれは嬉しそうに、『大切な相手にこれで手紙を書くの』と笑っていましたわ」
夏蓮は動揺したまま、突き出された紙を目で追った。
たしかに、見覚えがある。
だが、模様に目を凝らすよりも先に、書かれた文字が目に飛び込んできて、夏蓮ははっと息を呑んだ。
『夏蓮へ。これまでの間、お勤めをご苦労様でした。年季明けはまだ先だけど、とてもよい紙を頂いたので、先に書いています。墨が薄くなっていたらどうしましょうね』
手紙は、そんな文章から始まっていた。
『でも、髪のほうは変色しないように、私がちゃんと手入れしておきました。この国では、花嫁は長髪を下ろすのよ。焼いてとは言われたけれど、私の判断で残していました。怪しまれないようにと、私の髪と一緒に紐を焼いてしまったので、組み紐の色は違うのだけど。ごめんなさい。嫁入りのときには、これを
四年前、楼蘭が棚から取り出した髪の束を思い出す。
以前に夏蓮が捧げたものとそっくり同じの、けれど、切りたてのような、紐色の違う髪。
妹のものだと思っていたそれは、なんということはない、自分のものだったのだ。
がたがたと震え出した夏蓮の前で、楼蘭は紙を手放した。
白い紙はまるで羽のように揺れながら、床に落ちる。
くしゃり、と、華奢な
『俸禄は、初年にまとめて、集落に送りました。それとはべつに、餞別の銀子を用意したので、どうか役立ててください。以上が、私からの花嫁支度です。いろいろと未熟な主人だったと思うけど、夏蓮、こんな私に仕えてくれてありがとう。どうか、お幸せにね』
「…………っ」
涙が、勢いよく零れ落ちた。
女官の嫁入り先を見つけるのは、主人である妃嬪の仕事だ。
当時はまだだいぶ先であった年季明け――夏蓮の嫁入りを夢見て、いそいそと手紙を書く彼女の姿が、容易に想像できた。
楽しみを抑えきれず、こんなにも前から。
夏蓮本人にも隠れて、こっそりと。
(裏切られてなど……いなかった)
夏蓮は、雷に打たれたかのような衝撃に、身を震わせた。
裏切られてなど、いなかった。
むしろ――裏切ったのは、自分だ。
「かわいそうな白豚妃様」
踏み付けた手紙を憐れむように、楼蘭は眉を寄せながら、それを拾い上げた。
「こんなにも心を砕いた女官にも、あっさり見放されて。焼き印を押され、罪人として花街へ。それ以降の足取りは掴めないけれど――死んでしまったのでしょうね。たった一人で」
「……ぅ、あ……っ」
「目を掛けた女官は、妹は悼むのに、自分のことは名すら唱えない。無念だったでしょうねえ。
しゃくりあげる夏蓮の手を取り、そっと手紙を握らせる。
楼蘭は、天女のように柔らかく微笑んでいた。
「
ただし、と、可憐な唇が続ける。
「主人を信じきれなかった、薄汚いあなたのことを、相手が信じるかはわからないけれど」
ぼろ、と涙をこぼした夏蓮を残し、楼蘭は燭台の火を吹き消すと、室を去っていった。
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