16.潰すつもりじゃなかった(5)
(おかしいわ)
珠麗が違和感を抱いたのは、六杯目の酒を注ぎ交わした頃だった。
どんなに酒が強い人間とはいえ、これだけの火酒を、
しかし、目の前の女官は、頬を赤らめるどころか、むしろ顔色が悪くなっているように見える。
呂律は回っているが、言葉が出てくるまでに、妙な間があった。
(まさか)
そのとき珠麗の脳裏によぎったのは、花街時代の記憶だった。
歓待に使われることも多かった朱櫻楼では、しばしば、度を越した酔客も見かけられた。
その多くは、酒が弱いにもかかわらず、上官から強制されて断れず、あるいは上官に注がれた酒を無理に肩代わりさせられ、酔い潰れてしまった若者であった。
序列意識の強い官吏間でこそ、その手の事件はしばしば起こるのである。
珠麗のように肌がすぐ赤くなる者は、心配されやすいぶん、まだいい。
だが、顔に出ない者や、日頃酒を飲み慣れていない者は、己の限界を超え、ときに命すら落としてしまう。
珠麗の知る限り、青ざめたり、震えたり、冷や汗を滲ませている人間は要注意だった。
そして、不審に思って手を取った夏蓮には、そのすべてが当てはまっていたのである。
「あなた――なにしてるのよ!」
珠麗は驚いた。
これは中毒を起こした人間の症状だ。
反応も鈍い。酒など、これ以上とても飲めないはずである。
それだというのに、夏蓮はのろのろとした動きで、酒杯を掴もうとする。
珠麗は咄嗟に、それを振り払った。
「なにしてるの! とても飲める状態じゃないでしょう!?」
床に叩き付けられた陶器が、澄んだ音を立てて砕ける。
夏蓮はそれをどこかぼんやりした様子で聞き、やがて口を開いた。
「……お構い、なく。あなたが、飲めぬなら、恭貴人を……」
「馬鹿言ってんじゃないわよ!」
いつからだ。
いつからこんなに、酔っていた。
一杯目のときから、夏蓮の表情はまるで変わらない。
それで逆に、一杯目の時点で彼女は相当苦しかったのではないかと、珠麗は思い至った。
「あなた、下戸なのね?」
「…………」
「答えなさい! 本当は、一滴も酒を飲めないんじゃないの!?」
黙り込んだ相手に業を煮やす。
珠麗は夏蓮の両脇に腕を差し込むと、卓からその身をずるずると引きずり出した。
「な、にを……」
「吐きなさい!」
弱々しくもがく女官に、鋭い口調で命じる。
「今すぐ、全部吐き出しなさい! さもなくば、死ぬわよ!」
その叫びを聞いて、ようやく嘉玉たちも事態を悟ったようである。
おろおろと東屋に集まってきて、太監を、いや医官を呼ぼうかと問いかけてくる。
「悠長に太監なんて呼んでも仕方ないわ! 医官だって、女官相手じゃ翌朝にしかやってこない。今すぐここで吐かせるのよ!」
一喝すると、女たちはびくりと肩を震わせ、蓉蓉だけがはっとしたように口を開いた。
「な、ならば、わたくしは盥をお持ちしましょうか? あとは、
「この期に及んで、粗相を隠すことに専念してどうするの!? そんなものより、大量の水と、できれば塩と砂糖とお湯を持ってきて! あと毛布!」
「は、はい!」
いい子の返事を寄越した蓉蓉たちを宮へと急がせ、珠麗は横たえた夏蓮へと向き直った。
「さあ。水を飲む前に、とにかく体の中の酒を吐き出しなさい。全部よ」
「……お、構い、なく」
虚ろな目をした女官は切れ切れに答えた。
「そのよう、な、粗相を、働くわけに、は……」
「あんたまで粗相とかなんとか言ってんじゃないわよ!」
珠麗はカッとなって叫んだ。
「ゲロ吐くくらいがなに!? 品位なんて
この四年ですっかり荒くなった口調が出てしまう。
だが、それだけ焦っていたのだ。
夏蓮がこんなにも酒杯を重ねたのは、自分が竹筒いっぱいに火酒が溜まるまで、酒席を引き伸ばそうとしたから。
さっさとこちらが酔っ払ってしまえば、彼女もここまでにはならなかったかもしれないのに。
珠麗は夏蓮の首根を掴むと、強引に顔を床に向けた。
「仰向け禁止! とにかく、吐きなさい!」
「ぐ……」
それでも夏蓮は、肘をつき、眉を寄せたまま体をよじった。
「許され、ません……」
「なにがよ! 誰がなにをどう許さないって言うの!」
「私は、韋族の、娘……。ひとつでも、粗相を、犯せ、ば、一族全体に、汚名が……」
韋族が高尚な民族だと言っているのではない。
むしろその逆で、侮られ、野蛮だと蔑まれている民族だからこそ、ほんのわずかな隙も見せられないのである。
それを解した珠麗は、剣呑に目を細めると「わかったわ」と、床に膝立ちになった。
「自分じゃ吐かないって言うなら、私が吐かせるまで」
「え……?」
「私を誰だと思ってるの。指の曲げ方ひとつで、直前の酒どころか、前日食した
「は……?」
ぼうっと様子で聞き返した夏蓮を抱き起す。
その胸下に肩を入れると、珠麗は問答無用で、喉に手を突っ込んだ――!
「吐けええええ!」
花街で珠麗は、肥桶番だった。
汚物処理を専らとしていたわけで、そのくくりで、酔客の撒き散らす汚物の始末や、介抱までも任されていたのだ。
なんといっても、目の前で人に死なれることほど後味の悪いものはない。
当時はまだ、「あのとき私が楼蘭様をきちんと吐かせていれば、助けられたのかも」といった思いもあったため、必然、他人を吐かせる技術の習得にも気合いが入った。
気付けば、伝説の肥桶番、黄金指、とまで呼ばれていたのである。
「ぐ……ぅっ」
喉奥まで指を差し込まれた夏蓮が、堪らず胃の腑の酒を戻す。
「よーし、頑張った! いい波来てるわよ、まだいける! まだまだ吐ける!」
「や、め……」
「全部吐くのよ。そのあと大量に水を飲むの。いいこと? あんたが吐かないって言うなら、その喉に豚の腸管を突っ込んでやるんですからね。水をいっぱい詰めた状態で胃の腑に差して、その水を抜くとね、水圧で胃の中身が吸い出されていくのよ。それが嫌なら、自分で吐きなさい!」
「でき、な……粗相は……」
夏蓮は呟き、頑なに顔を背ける。
いよいよ苛立ちを募らせた珠麗は、衝動に任せて、相手の頬をはたいた。
「あんたね、命と体裁と、どっちが大事なのよ! 私のせいで死ぬなんて許さない。私の前で死のうものなら、ぶっ殺すわよ!」
どちらにしても殺すことになってしまっている
――よくって、この子に指一本でも触れようとする不埒者がいたら、指一本すら触れさせないんですからね!
なぜだかそのとき、彼女の胸の内に蘇ったのは、どこか緊迫感に欠けた女の声だった。
「…………」
虚空を見つめていた夏蓮の瞳に、涙が滲む。
彼女は震える声で、同じ言葉を繰り返した。
「お構い、なく……」
「はあ!?」
「結構で、ございます。私は、もう……生きたく、など……ない」
ずっと、苦しかった。
裏切られ、拠り所を失い、ただ妹の弔いだけを
だがいったい、あと何回苦しみを味わえば、自分は解放されるのか。
もう――うんざりだった。
「私は、もう何年も……死に場所を、探してい――、ぐっ!?」
「ぶってんじゃないわよ」
だが、言葉の途中で、強い力で胃を圧迫され、夏蓮は再びえづいた。
そして、気付く。
珠珠と呼ばれる女は、これまでないほどに厳しい表情で、こちらを見つめていた。
「死に場所なんて探さなくても、ある日いきなり死はやって来るわよ。騙されたら、処刑される。寒い夜に路上で寝ていたら、凍え死ぬ。傷に糞尿が触れれば、菌に侵されて死ぬ。飢えても、性病をもらっても、火に巻かれても、あっさりと人は死ぬ。生きるのが嫌なら、舌を噛むなり、首を吊るなりすればいいじゃない。びっくりするくらい、簡単に死ねるわよ」
手だけは胃を圧し、吐かせ続けながらも、彼女は低い声で告げた。
「悠長に死に場所を探してる時点で、あんたは、まだ生きたがってるんだと、私は思うわ。どうしても自死したいなら止めないけど、それならこんな受け身な方法じゃなくて、意志を持ってやって。あと、私の前でしないでよ」
先ほどまでと異なり、言葉は淡々としている。
しかしだからこそ、今の彼女には、言いようのない凄みがあった。
(この人は……)
朦朧とする意識の中で、夏蓮はふと思った。
(どういう人生を、歩んできた人なの)
ちょっとした仕草は上品だし、誰からも称賛されそうな美しい顔立ちをしているのに、荒々しい口調がやけに堂に入っている。
気さくで、間抜けさまで感じさせる言動も取るのに、今、こんなにも凛としている。
もう一度胃を圧され、今度こそすべての酒を吐き出した時点で、彼女は一度、労うように夏蓮を抱き締め、ぽんぽんと肩を叩いた。
「よし。全部吐いたわね。あとは、がんがん水を飲むわよ。まだ意識はしっかりあるわね?」
「…………! 衣、が」
そのときになってようやく、自分がずっと相手の衣装に向かって嘔吐していたのだと気付き、夏蓮は、よろよろと腕を突っ張った。
「申し訳、ございません……っ」
「洗えばいいのよ、こんなもの。ほら、無理に起き上がろうとしない!」
「どうか、お放しを。私は、臭います……っ」
「はあ!?」
眉を跳ね上げながら彼女が続けた言葉に、夏蓮は今度こそ、呼吸を止めた。
「なに変な心配してんのよ。今この場には、上等な火酒の匂いしかしないわよ!」
――そうかしら? 今この場には、食欲をくすぐる肉の匂いしかしなくってよ。
言葉を脳裏でなぞった瞬間、ぼろりと涙が零れ落ちた。
「…………、……様……っ」
咄嗟に唇がかたどったのは、禁忌となったかの人の名前。
この四年間、けっして呼ぶことのなかった名前だった。
(姿も、声も、違うのに……)
白豚妃は――
こんな掠れた、婀娜な声で話す人ではなかった。
なのに、目の前の彼女の言葉が、眼差しが、どうしようもなく、かつての主人と重なる。
何日も湯浴みをしていなかったあの時の自分が、臭わなかったはずはない。
胃の腑の中身を吐き出した今の自分が、臭わないはずなんてない。
それなのに。
「水を持ってきたわ!」
「毛布と湯もお持ちしました!」
「塩と砂糖もこちらに!」
とそのとき、盥や毛布を手にした貴人たちが、次々と宮から飛び出してくる。
「ありがとう。まずは水を飲ませるわ。貴人様方、小甕いっぱいの湯に、塩と砂糖をひと匙ずつ混ぜたあと、水を加えてぬるめの白湯を作ってください。夏蓮、吐きながらでもいいから、とにかく飲むのよ。蓉蓉、体を毛布でくるんで」
「わかりました」
てきぱきとした指示に、女たちが滑らかに作業を始める。
「ほら」
自分のことを抱き起こし、口先に湯のみを突きつけてくる相手のことを、夏蓮はぼうっと見上げた。
唇に触れた白湯が、温かい。
ちょうど、今、頬を伝う涙のように。
「飲みなさい」
震える唇をそっと開き、夏蓮は、一口目を含みはじめた。
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