15.潰すつもりじゃなかった(4)

瑞景宮ずいけいぐうが女官、夏蓮より申し上げます。こちらの山極州産の上等な火酒は、祥嬪しょうひん様からのご厚情でございます。特に、昨日のご発言が誤解されたことで、夜を外で過ごさざるをえなかった珠珠様と、顔色の悪かった恭貴人様には、必ず飲んで、体を温めていただくようにと言付かっております」


 白泉宮の門をくぐり、東屋から降りてきた貴人たちの姿を認めるや、淡々と告げる夏蓮に、珠麗は大いに戸惑った。


(夏蓮……?)


 内容もそうだが、彼女が夜闇にも負けぬほどに陰鬱な空気を背負っているのが気に掛かる。

 月明りと篝火かがりびで照らされた顔に表情はなく、冷え冷えとしていた。


「さようでございますか。祥嬪様のご厚情には御礼申し上げますわ。大切に頂くので、あなたはお帰りになって。祥嬪様にどうぞよろしくお伝えくださいませ」


 ほかの貴人たちが、夏蓮の放つ静かな迫力に威圧される中、年長の純貴人・静雅せいがが庇うようにしてそう告げる。

 丁寧な言葉遣いから察するに、楼蘭付きの女官というのは、後宮ではそこそこ高位にあたるのだろう。

 下級妃きじんの地位を、上回るほどに。


 だが、夏蓮は無感動な視線を静雅に向けると、きっぱりと言い渡した。


「祥嬪様は、珠珠様と恭貴人様に必ずお飲みになっていただくよう、と仰いました。この場で、私の目の前で、です」

「そんな……」


 恭貴人・嘉玉かぎょくが、恐怖を滲ませた声で呟く。

 それもそのはず、夏蓮が太監に運ばせた酒は、瓶ではなく、大樽いっぱいあった。

 それも、一口含めば全身に酔いが回り、ひと瓶飲めば大の男すら昏倒すると言われるほどの、山極州産の火酒である。

 無理に飲ませられれば命も危ぶまれるという点で、毒とほとんど変わらなかった。


「わ、わたくし、お酒は……」

「この火酒は大変上等なものです。このひと樽を用意するのに、あなた様のまとう衣の何倍もの銀子を要する。にもかかわらず、それほどの厚意を無下になさると? あるいは、毒でも仕込んでいると邪推なさっているのでしょうか。いわれなき理由で祥嬪様を侮蔑するとのことなら、太監を呼び、厳正に尋問していただきますが」

「そ、そんなことでは!」

「でしたら、せめて一口なり、口を付けるのが礼儀ではございませんか」


 気弱な嘉玉は、この時点で目を潤ませ、震えはじめている。

 あどけなさの残る小さな顔は、真っ青になっていた。


「さては、妨害ね。明日の科目はきっと舞なのよ。だから舞が得意な嘉玉を狙うのだわ。なんて卑怯な」

「いけません、紅香様。証拠もなしに非難しては、そこを付け込まれます」


 喧嘩っ早い紅香こうかが身を乗り出すのを、静雅が潜めた声で制する。


「太監たちはほとんど、祥嬪様の息がかかっている。ここは、わたくしたちだけで切り抜けなくては」


 だが、その顔にも、強い葛藤と苦悩が浮かんでいた。


「僭越ながら、女官様。酒とは、し、注されるもの。珠珠さんや嘉玉様が召し上がるとなるなら、当然あなた様も、そのぶん火酒を召し上がるのでしょうね」


 蓉蓉もまた厳しい顔をして、一歩前に踏み出す。

 牽制で難を逃れようとしたようだが、


「当然そのように心得ております」


 夏蓮に表情もなく受け止められて、続く言葉を飲み下した。


 これが祥嬪・楼蘭による妨害工作であること、そして彼女は女官を捨て駒にするつもりであることを、聡明な蓉蓉は、そのやり取りだけで察してしまったのだ。


「そんな……」

「あなた様も一緒に召し上がりますか? 私はそのぶんもお付き合いいたします。二人であろうと、三人であろうと、なんら変わらない。どうせ私は、韋族イぞくの娘ですから」


 それは、しょせん切り捨てられる存在ということなのか、はたまた、底なしに酒が強い一族という意味なのか。

 吐き捨てるように告げた夏蓮の意図を掴みかねて、蓉蓉は押し黙った。


「よ、蓉蓉さん。おやめください。これは、わたくしに向けられた『ご厚情』ですので、ほかの方にお飲みいただくわけにはまいりません」


 嘉玉は責任を感じたらしく、震える声でそう切り出す。

 引き留めるように口を開きかけた蓉蓉に、彼女は弱々しく首を振った。


「元より、舞うしか能のない妓女の娘が、この場に残っていることが間違いだったのです。わたくしとて、この境遇に引け目は感じておりました。これも、天のご意志なのでしょう」


 嘉玉の母は、貴族に身請けされた妓女である。

 優れた舞を受け継ぎ、それによって後宮に召し上げられたと言われるが、実際には、正室が愛人の子を追い出したという側面が大きく、実家の援助も得られぬ彼女は、後宮でいつも小さくなって過ごしていた。

 寵愛や名誉栄達というものにも、彼女は未練がないのだろう。

 けれど、戻るべき当てもないからこそ、こうして揺籃の儀を経てでも、後宮に残ろうとしたのだろうに。


 そんな、と眉を寄せる一同をよそに、夏蓮は冷ややかに頷いた。


「そうですね。祥嬪様は、恭貴人を特にもてなしたいと仰った。ほかの方も召し上がるとなるなら、嘉玉様にはその二倍、召し上がっていただかないことには、私はとんだ不敬を犯したことになってしまいます」


 蓉蓉たちが助太刀しようものなら、嘉玉にそのぶん飲ませるということだ。

 意図を理解した蓉蓉は、唇を噛んだ。


 庇えるものなら、庇いたい。

 けれど、下手を打てば、巻き込まれるだけでなく、事態を悪化させてしまう――そんな思いが、彼女たちに行動を躊躇わせた。


「あの! それなら私から!」


 だが緊迫した空気を、やたらと元気な声が壊した。


「私からそのお酒、頂いてもいいですか!?」


 珠麗である。

 はいっと勢いよく挙手した彼女を見て、嘉玉たちは困惑に目を瞬かせた。


「……珠珠様は、お酒が強くていらっしゃるのですか?」

「え? えーっと、どうでしょうね。強いような、弱いような」


 てんで曖昧な言葉を返しながら、珠麗はにんまりとした笑みを必死にこらえていた。


(機会、到来!)


 どうにか唇を引き結ぶ。

 なんということだ、逃亡策を取りあぐねていたら、楼蘭が鴨に葱を背負わせて送り込んでくれた。


 おそらくこれは、紅香の言う通り、楼蘭による妨害――嘉玉や珠麗を明日の選抜に進ませまいとする工作なのだろう。

 だが、願ったりだ。


 へべれけに酔っぱらえば、選抜をさぼる大義名分ができるし、第一後宮内では、粗相をする女を徹底的に蔑む傾向がある。

 大勢の前でげっぷを漏らしただけで杖刑に処された妃嬪がいるくらいだ。

 酔いついでに盛大に吐きでもすれば、明日を待つまでもなく、今夜の時点で後宮を追放されることすら期待できよう。


(しかも、山極州産の火酒って、礼央の大好物じゃないの!)


 さらに言えば、山極州とは、玄岸州の隣。

 寒さ厳しい山極州で作られる火酒は、近隣の州でも冬を越すために愛飲される品で、礼央のお気に入りでもあった。

 すでに今年の製造分は買い切ってしまったとこぼしていたから、もしかしたら、いや確実に、ここで彼に火酒を献上できれば、機嫌を取れるだろう。


(ふっふっふっ、まさかここで、花街直伝、『袖筒術しゅうとうじゅつ』が活きるとは)


 そして珠麗には、こうした状況下で酒をこっそりくすねる、とある技術があったのである。


 袂をさりげなく押さえながら、素早く策を巡らせる。

 適当に飲んで、以降は火酒を袖下に溜め込み、相手が音を上げたところであいことすればいいだろう。

 夏蓮がどのくらい強いのかは知らないが、袖筒術を使えばいくらでも付き合うことができるし、長時間になるほど貯酒量は増え、その後の自分の粗相にも説得力が増す。


(たぶん、明日には私のあだ名は『嘔吐げろ妃』ね。やだ、うける)


 まったく、白豚妃といい、ろくなあだ名がない。

 だが、それにおかしみを感じて、珠麗は慌てて顔に力を込めた。


「と、とにかく、私も指名されているのだから、私から飲みはじめても、なんら問題ないはずです」


 完全には抑えきれず、声が震えてしまったが、よしとしよう。


「そんな、珠珠様……!」

「珠珠さん!」


 嘉玉が、そして蓉蓉たちが、血相を変えて身を乗り出してきたが、珠麗はそれを躱し、一度東屋へと足を向けた。


「お茶を一口頂いておくわね」


 酔いすぎ防止には、事前の水分補給が肝要だ。

 かつ、彼女の目当ては、もうひとつあった。


(おっ、手ごろな大きさ)


 茶匙を立てていた、竹製の筒である。

 珠麗は素早く匙を抜き取ると、空の筒を、慣れた手つきで袂へと押し込んだ。

 あとは、両手、特に手首のあたりを布巾でしっかりと清める。

 準備はこれだけだ。


「どうぞ、夏蓮殿も、東屋へ」


 茶道具一式を卓の端に避けると、珠麗はにっこりと夏蓮を招いた。

 宮内に上がらないのかと訝しげな夏蓮には、「冷えた夜風に当たりながらのほうが、火酒もよりおいしく感じられるはずです」と適当なことを告げてごまかす。

 袖筒術を行使するため、妓楼のねやと同じ程度には、暗がりである必要があった。


「さあ、それでは、祥嬪様からのご厚意とやらを、頂戴しましょう。ああ、楽しみだこと」


 こちらの手管に乗ってもらうため、さっさと会話を進めてしまう。


 やけに上機嫌な珠麗に、夏蓮は不審の眼差しを寄越していたが、特に反論する材料もないと思ったのか、やがて東屋へと上がってきた。

 樽から柄杓ひしゃくで瓶に移した酒を、卓の中央に置く。

 壺と見まごうほどの太さがあり、火酒をこれで一本分も飲めば、二人とも無事ではいられないことは、明らかだった。


「じゅ、珠珠様だけに飲ませるわけにはまいりません。わたくしも……」

「いいえ、嘉玉様。飲むのは止めませんが、私が先です。私のほうが年長なのだから、後回しにするなんて不敬・・はしませんよね、夏蓮殿?」


 嘉玉も東屋にやってこようとするが、きっぱりと制する。

 先ほどの発言を盾に念押しすれば、夏蓮は眉を顰めたまま頷いた。

 どのみち、酒に弱い女なら、一杯を干しただけでふらつくような酒なのだ。

 どちらを先に潰しても変わらないと踏んだのだろう。


(そういえば、夏蓮と杯を交わすのは、初めてね)


 酒席、と言うには張り詰めた空気のもと、互いの盃に酒を注ぎながら、珠麗はそんなことを思った。

 当時は甘党で、お茶ばかり飲んでいたから、こんな事態にならなければ、彼女と飲み交わすことなど一生なかったかもしれない。

 それがいいことなのかは、わからないが。


「乾杯」

「乾杯」


 一騎打ちをする敵同士さながらに見つめ合い、酒杯に浮かぶ月光ごと掬うように、ぐいと飲み干す。


「んううううう!」


 カッと喉の焼ける心地に、珠麗は大きく声を上げた。


(効くう!)


 五臓六腑が燃えるようだ。

 貧民窟でも、あまりに寒さが厳しいときは、こうして酒で夜を凌いだ。

 花街もまた、酒が欠かせない場所であったため、この四年で、珠麗はずいぶん酒に強くなったものである。


 夏蓮はといえば、無言のまま、表情も変えずに酒を飲み下している。

 彼女が卓の上でひらりと酒杯を返し、雫の一滴も零れないのを見せると、珠麗もまた同じことをして、杯を乾かしたことを証明した。


 息を呑んだ周囲をよそに、二人は黙々と、互いの盃に酒を注ぐ。


「乾杯」

「乾杯」


 再び、杯をぐいと煽いだ。


「うええええい!」


 珠麗はまたしても声を上げた。

 酔っぱらいだからではない。大声を出すことで、酒が竹筒に流れていく音をごまかしているからである。


(悪いけど、実際に飲むのは最初の一杯だけにさせてもらうわよ。袖筒術、始動!)


 袖筒の術とはつまり、飲む振りをして、手首を伝わせた酒を、袂に仕込んだ竹筒に貯める技術である。

 単純ではあるが、手首や杯の角度を少しでも間違えると、すぐに露見してしまうため、意外に難しい。

 さらに、あまりに静かだと、酒が筒底を叩く音が聞こえてしまうという難点があった。

 それを隠すために、妓女たちは楽の音を響かせ、ときに嬌声を上げるのである。


 珠麗は、酒を筒に注ぐこと自体は上手いものの、「ごまかす声に艶がないわ。むしろ豚」と、楼主からは落第を食らっていた。

 が、とにもかくにも、今役立ってよかった。


 二杯目を飲み干すや、夏蓮は少しだけ、眉を寄せる。

 だが、ふらついた様子は見えなかった。

 一方の珠麗は、あまりに平然としていても怪しまれると思い、「あー、酔いが回ってきたわぁ。星が見えるわぁ」などとうそぶいてみせる。

 ただし、それを聞いた嘉玉が、再び悲壮な顔で東屋に近付いてきたので、慌てて神妙な顔を取り繕った。


「珠珠様……っ。お願いです、わたくしなんかのために、これ以上無理を重ねないでくださいませ」

「いいえ、嘉玉様。あくまで、私がしたいことをしているだけなので、気になさらず」

「ですが、星が見えると。そんなにも酔って……」

「すみません、ちょっと盛りました。実は私、全然酔ってませんから」


 あまりに信憑性のない言い分だ。

 なんなら、酔っていないと主張する酔っぱらい特有の現象にさえ見える気がする。それは認める。


「珠珠様……」

「さあ、嘉玉様。ここにいては、酒に弱い者なら匂いだけで参ってしまいます。もう少し離れて」


 疑われたのだろう、じっとこちらを見つめてくる嘉玉の視線に堪えかねて、珠麗は強引に会話を打ち切った。

 袖筒術が見破られても困るので、東屋から追い払う。


 そうして再び、夏蓮へと向き直った。


「乾杯」

「乾杯」


 三杯目。


「うひゃああああ!」


 四杯目。


 杯を返す夏蓮の仕草が、わずかにぎこちなくなった。

 指先が、震えているようにも見える。

 珠麗は、少し心配になって尋ねた。


「夏蓮殿は、お酒が強いのね。でも、さすがに、酔いが回ってきたのではないの?」

「……いいえ」


 返す言葉に、乱れはない。

 夏蓮は、ふと顔を上げると、睨むようにして珠麗を見つめた。


「お構いなく。そちらこそ、豚のように耳障りな声を上げて、相当酔われているのでは? もう、恭貴人に代わっていただてもよいのですよ」

「それが、なかなか体が温まらないの。ご厚情が全身に染みわたるまで、もう少し私に火酒を頂戴できる?」

「……先ほど、酔いが回った、と」

「気のせいだったみたい」


 しれっと肩を竦めると、夏蓮は酒瓶を奪うようにして、酒を注いできた。

 珠麗もまた、夏蓮の盃に注ぎ返す。


「……乾杯」

「乾杯」


 睨み合うようにして、五杯目の酒を飲み干す。

 飲む速度が、上がった。


 徐々に鬼気迫ってきた夏蓮たちを見て、東屋を取り囲んだ嘉玉たちは、恐々と囁き合った。


「あの女官は、なんてお酒に強いのかしら……」

「実は、中身は水なんではないの?」

「いいえ、紅香様。樽のほうを嗅いでみましたが、これは間違いなく火酒です」

「顔色の変わらぬ女官はともかく、珠珠さんは、月明かりでもそれとわかるほど、白い肌が赤らんでいますわ。このままでは、珠珠さんのお体が……!」


 最後に蓉蓉が真っ青になって呟くと、一同は緊張を走らせた。

 このままでは、二日酔いどころか、命すら危ぶまれる。

 もはや、言いがかりを付けられるのを承知で、太監か武官を呼ぶしかないのでは――。


 だがそのとき、


「待って」


 不意に、珠麗が椅子を蹴るようにして立ち上がった。


「夏蓮殿。手を握らせてもらうわよ」


 卓に身を乗り出して、相手の手から杯を奪う。

 そしてその手を握ると、珠麗ははっと肩を揺らした。


「あなた――なにしてるのよ!」


 悲鳴のような声に、嘉玉たちは怪訝そうに顔を見合わせた。

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