14.潰すつもりじゃなかった(3)
こんなはずじゃなかった。
その言葉を、昨日から今日にかけて、いったい何度胸の内で叫んだことだろうか。
珠麗は重苦しい溜息を落とすと、夜空に昇りはじめた月を恨めしげに見上げた。
(全っ然、一人になれない……)
白泉宮敷地内、門前の
今朝がたまで、珠麗が寛いだり、犬笛を作ったりして気ままに過ごしていた東屋には、今は女たちが押しかけ、和やかに談笑している。
「珠珠さん、お茶が入りましたわよ。どうぞこちらにいらして」
「ああ、いい香り。お茶を淹れるのがお上手ね、蓉蓉さん」
「でも東屋じゃ、やっぱり寒いわ。珠珠ったら、いつまでも意地を張って遠慮せずに、宮に上がりなさいよ。もうあなたを追い出したりなんかしないって言ったじゃない」
順に、
「本当にそうです……珠珠様は、もはやわたくしどもより、尊い身分なのですから」
遠慮がちながら、恭貴人・
(なんで、こんなに懐かれてんのかしら、私)
そう、競画の一件があってからというもの、紅香がすっかり珠麗を気に入り、詫びのつもりもあるのか、しきりと「室内に入れ」と勧めてくるのだ。
「べつに妃嬪の地位が確定したわけでもないのでこのまま東屋に残りたい」と言い訳すれば、「ならば我々も東屋に出る」と主張する始末。
白泉宮の貴人たちと、蓉蓉を巻き込んで、茶道具とともに東屋に突入してきたのである。
おかげで、珠麗はこの場を脱走することはおろか、厨に忍び込んで胡麻を手に入れることすらもできず、閉門の刻を迎えてしまった。
夕刻を過ぎれば各宮の門は閉じられ、後宮内を自由に出歩くことは許されない。
(どうするの、どうするの!?
もはや脱走自体に困難は感じない。
礼央ならなんとかしてくれるという、妙な確信があった。
だが代わりに、彼に借金漬けにされる恐怖が心を満たす。
このままおめおめと、彼の助けを待っていてよいのか。
もっと自助努力の様子を見せるべきではないか。
万が一、後宮の妃嬪たちと和気あいあいお茶をしている光景など見られたら、見捨てられる予感しかしない。
いつ小黒が飛んできて、頭上に糞を落とされるものか。
「開門をお願い申し上げます。付け届けの品をお持ちいたしました」
「あ、私が行くわ!」
とそのとき、門の外から張りのある男の声がかかり、珠麗は咄嗟にそちらへと駆け寄った。
少しでも外部に逃げ出す機会を掴みたかったのだ。
「ご苦労様、付け届け? よかったら私、運ぶわよ。そうだわ、この台車、私が内務府に戻して来ましょうか?」
「いいえ。まさか、今や後宮中が注目する妃嬪候補様に、そのようなことをしていただくわけには――いかねえなあ」
こそこそと小声で交渉を持ちかけたら、思いもよらぬ乱暴な口調で返され、珠麗は驚いて相手を見つめた。
「えっ?」
今さらながら、相手の顔に目を凝らす。
夜闇に紛れてわかりにくいが、通った鼻筋に、切れ上がった目尻。
皮肉気な笑みがよく似合う、その精悍な男は――
「
「おっと、こんなところに羽虫が」
礼央、と叫ぶ前に、片手で両頬を押し挟まれ、珠麗は「ぶふっ!?」と唇を突き出した。
「いや、これはタコだな。おいタコ、堂々と叫ぶな」
あんまりな扱いである。
だが、たしかに騒ぎ立てるわけにはいかないと理解した珠麗は、慌てて頷き、解放してもらった。
柱や樹の陰に隠れて、周囲からは見られないようにしているあたりが、さすがは礼央である。
珠麗は声を潜め、念のため、荷物について尋ねるようなそぶりをしながら告げた。
「よくここがわかったわね。笛を鳴らした翌日には太監の姿で現れるなんて、さすがだわ」
「まあな。成り済ますのにふさわしい太監を見極めるのに、少し時間が掛かったが。女官狩りに遭ったこと自体はすぐにわかったし、後宮についてしまえば、おまえはすでに噂になっていたから、わからないもなにもない」
「う、噂に?」
「そう。彗星のごとく現れて、妃嬪に昇りつめようとしている女がいる、と。人気者だな?」
からかうような口調に反し、目が笑っていない。
蛇に睨まれた蛙の気分を味わいながら、珠麗は尋ねた。
「り、礼央は、助けに来て、くれたのよね……っ?」
「そうだなあ?」
冷や汗を滲ませたのが面白いのか、礼央がそっと前髪を払ってくる。
いよいよ追い詰められた心地のした珠麗は、耐えきれず、自ら切り出してしまった。
「ち、ちなみに、ここであなたを頼った場合、守料ってどうなるのかしら……っ?」
「は?」
珍しく礼央が目を見開く。
すぐに、投げ文のことを言っているのだと思い至り、彼は笑いそうになってしまった。
(俺が書いたとわかって、かつ他人に読まれても支障のない、短文を選んだだけなのに)
要は、意地の悪い冗談である。
礼央は彼女を見ると、ついからかいたくなってしまうのだ。
そして、それを真に受けてしまうところが、この珠麗の珠麗たるゆえんであった。
礼央は悪戯っぽく口の端を引き上げ、そっと耳元で囁いた。
「べつに、体で払ってもらっても一向に構わないが――」
「それはなしで!」
「ああ?」
が、勢いよく遮られ、鼻白む。
「それだけは、絶対に、なしの方向で!」
自身の腕を庇うように抱いた珠麗が、真っ青な顔で訴え出たのを聞いて、礼央は思わず仏頂面になった。
「――五倍」
「はい?」
「俺の手を借りるというなら、明日から守料は五倍だ。払えないようなら、利息はトイチ」
「ひ……っ」
上ずった悲鳴を上げる珠麗を見下ろし、少しだけ留飲を下げる。
わざわざ都まで助けに来てやったというのに、感謝どころか拒絶されるなど、まったく割りに合わない。
「心が決まったら、子の刻にこの門を叩け。抜け道はすでに確保した。傷ひとつ付けず、安全に逃がしてやろう。ただし、守料の取り立てからは逃げられないがな」
「う、うぅ……っ」
珠麗が涙目になる。
この女は、そうした表情が一番愛らしい。
「それなら、いい。じ、自分で、できるところまでは、自分で頑張る……っ」
だが、意外にもあっさり決意を固められてしまい、礼央は身勝手にも憎たらしさを覚えた。
ここにきて、自分を頼らないとは。
ちらりと視線を巡らせれば、礼央に先導を任せていた夏蓮の姿が門に近付いてきている。
礼央は、いかにも太監らしく、恭しい様子で膝をつき、一度会話を打ち切ることにした。
「以上が、この名酒の謂れでございます。祥嬪様より言付かりました。以降のご説明は、瑞景宮の女官殿より賜りますよう」
「え、あ……」
唐突に雰囲気を変えた礼央に、珠麗が戸惑ったように目を瞬かせる。
やってきた女官に視線を向け、「夏蓮……」と呟いた彼女をよそに、礼央は頭を下げたまま、さりげなくその場を立ち去った。
珠麗の返事がどうであれ、子の刻には門前に待機しようとは決めている。
だが、せっかく都までやってきたのだから、手土産のいくつかは欲しいところだ。
王都貴族の情報収集に、後宮内見取り図の作成、それから、麗しい調度品の拝借。
やりたいことは多い。
夜空を大きく旋回し、ばさりと肩に降りてきた小黒を軽く撫で、礼央はそのまま、闇に紛れた。
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