13.潰すつもりじゃなかった(2)
「――もし。祥嬪様は、ご在室ですかな?」
とそのとき、室の入口付近から声が掛かった。
落ち着きのある優しげな声の主の正体は、すぐにわかる。
太監長・
叩頭で額を赤くした女官には目もくれず、「女官たちの父」であるところの袁氏は、太った腹を揺らしながら、ゆっくりと室に踏み入る。
そうして、勧められるのも待たずに、座椅子に腰を下ろした。
「やれやれ、次代の花園を整えるための大事な儀とはいえ、疲れましたねえ」
「太監長様の肩に、この広大な後宮全体、ひいては未来の天子様の趨勢が懸かっているのですもの。重責のすさまじさ、お察しいたします」
「その通りですよ。美しい玉を選ぶだけならまだしも、石ころに粉を塗りたくり、玉に見せかけるには、なんとも多大な労力が伴うものでねえ」
皮肉気な一瞥を寄越した袁氏に、楼蘭は微笑みを揺らがせもせず、
「ささやかですが、鏡の代わりに。翡翠は小ぶりですが、金細工が繊細で美しいかと」
「おお、これは見事。重責の疲れが解れるようです」
袁氏は躊躇いもせずにそれを受け取り、舐めるような目つきでそれを見つめると、懐に収めた。
ついで、立ったままの楼蘭のことを、厭味ったらしく見上げた。
「もう少しあなた様が、頭抜けた成績を披露してくださるなら、こちらも苦労しないのですがねえ」
「恐れながら、問答でも画でも、甲の評価に見合ったものは披露できたかと存じますが」
「だが、一番ではない」
やんわりと反論した楼蘭を、袁氏はきっぱりと断じた。
「最上の地位を目指すならば、最上の才覚を示さねば。あなたは美貌、才覚ともに優れていますが、教養では純貴人に、画では明貴人に、今一歩及ばない。そうでしょう?」
それから少し考えて、付け足す。
「厳密に言えば、教養も画も、奴婢の珠珠とやらが一番だった。つまりあなたは、どの分野でも三番手です。そうだ、珠珠といえば、あの娘、どこかの嬪の嫌がらせを受けて、哀れにも野宿しているそうですね。見かねた女官や太監たちが、密かに彼女に肩入れしはじめているとか。新参者のくせに、人気者ですね。粗野なところもあるが、彼女には魅力がある」
「…………」
楼蘭は微笑を絶やさずにいたが、その目がほんのわずか、細められた。
それを見て取った袁氏は、にんまりと意地悪く口の端を吊り上げた。
「誤解なきよう。私があなたを後宮の頂点に据えたいのは、本心ですよ。あなたは聡明で、芯が強く、なにより分を弁えている。あなたが後宮で最も高貴な存在となった暁には、ぜひこのまま
「……わたくしを買ってくださっているというのなら、
「はっはっは! あなたが皇后になっても、私のことを処分しないと確信が持てたなら、そうしますけれどね」
太監長の権限は、強い。
太監――妃嬪の世話役という本分をはるかに超え、皇后に迫るほどに。
女官はもちろん、貴人、いや、嬪ですら、その権力には歯が立たなかった。
「どうしても
「いいえ」
あからさまに、楼蘭の顔が強張った。
「陛下より賜った大切な命を守れなかった女に、そのような褒賞は不要ですわ」
「謙虚な方だ」
袁氏は上機嫌に笑う。
「なにしろ女は謙虚なのが一番。そんな奥ゆかしい姿を見ると、今宵も、陛下に示す花札の中には、ぜひあなたのものを入れたくなってしまいますが――」
花札とは
本来なら、誰もが太監長の
袁氏は、青褪めた楼蘭の顔を満足そうに眺めると、先を続けた。
「残念ながら、もう揺籃の儀は始まってしまった。今のあなたは、今代陛下の嬪ではなく、次代陛下の妃嬪候補。人倫に悖る行為はできませんからね。札は載せずにおきましょう」
「……恐縮に存じます」
楼蘭は低い声で礼を取った。
「いえいえ、べつにあなたを恐縮させるために伺ったのではありませんよ。手を差し伸べに来たのです。いつものようにね」
気位の高い女を従順にさせたことが楽しいのか、袁氏は鷹揚に告げる。
「朗報を携えてきました。明日の競技科目は、あなたもお得意な舞のようです。陛下の文机に、皇太子殿下が裁可済みの書類が残っていましてね。間違いないでしょう」
「陛下の文机を勝手に検めたと……?」
恐るべき不敬を悪びれもなく告げる袁氏に、楼蘭は眉を寄せた。
「さすがに、大胆が過ぎるのではございませんか?」
「とんでもない、私は常に細心の注意を払っていますよ。どうせ陛下は錬丹術に夢中で、些細な物の移動には気付かない。本宮の官吏どもの差し金で、私を探る動きもあったようですが、怪しげな動きのある太監は、すべて粛清しましたしね」
何百人と存在する太監の顔と名前を、すべて把握するのは難しい。
だからこそ、太監長を狙う政敵は、手下を太監として後宮に潜入させるのが常だった。
だが、それゆえに袁氏は、妃嬪や武官をも差し置いて、太監たちの顔を記憶することを心掛けていたのだ。
「この後宮に、私の目の届かぬ場所などありえません」
楼蘭はちらりと袁氏を見やったが、賢明にも沈黙を守った。
実際、今はそれどころではない。
明日の科目が知れた以上、確実に妃嬪の最高位を狙うなら、舞を得意とする敵を潰しにかからねばならないのだ。
楼蘭が狙うのは、嬪の座の維持や、上級妃への昇格ですらなく、皇后の座なのだから。
去り際にも欲深な眼差しを寄越した袁氏に、もう一度金子を握らせ、退室を見守ると、彼女は唇を叩き、素早く策を巡らせた。
有力な敵に、毒を盛るなどということはしない。
あからさまな攻撃は、かえって疑惑を引き寄せるからだ。
攻撃は常に、言い訳の余地を残すべきだし、あくまで相手の意思によって、敵が儀を辞退するのが望ましい。
「夏蓮」
やがて楼蘭は、先ほど追い払った女官を呼び寄せた。
すっかり死んだ魚のような目をした、異教の女。
従順で、陰鬱な、お気に入りの駒。
「白泉宮に、差入れをしてくださる? どうも、昨日のわたくしの忠言が誤解されて、珠珠さんという方を外に追い払っているとのことだから、お詫びがしたいの。彼女と、白泉宮の貴人たち……特に、神経をすり減らしている様子の恭貴人に、上等なお酒を振舞いたいわ」
「お酒を、ですか」
「ええ、たっぷりとね。全身によく回るように。差し入れただけでは、先方も手を付けづらいでしょう。あなた自ら酒杯に注いで、必ず飲んでいただくのですよ」
今回狙うのは、舞の名手と言われる恭貴人・
そしてこの数日、楼蘭の心を掻きまわして止まない、あの女――珠珠。
(なぜなのかしら。彼女を見ると、ひどく胸が騒ぐ)
美しい女だとは思った。
造作自体も整っているが、凛とした、意志の強そうな瞳が一際目を引く。
だが、美しい敵というだけでは、楼蘭をこんなにも警戒させることはない。
美貌以外の「なにか」が、楼蘭の心を刺激し、暴力的に視線を引き寄せるのだ。
初めて遭遇したときも、広間でも、楼蘭は意識的に無視を決め込まないことには、凝視してしまいそうだった。
(あの空気がいけないのだわ。彼女を中心に広がる、明るい……清らかな空気)
なぜだか、珠珠という少女がいるだけで、周囲は活気づいてしまうように、楼蘭には思われた。
なにもなければ、大人しい純貴人はきっと楼蘭の前に跪いただろうし、明貴人は俯いて儀を終えただろうに、珠珠が、いともあっさりと救いの手を伸ばすから、女たちは驚き、やがておずおずとその手を掴み、立ち上がってしまう。
蓉蓉という有能な少女に、純貴人、明貴人、そして郭武官。
また、同情的な表情を浮かべていた数多の女たち。
先ほどの競画の一件だけでも、これだけの人間が、程度の差はあれ珠珠を庇おうと意志を示したことが、楼蘭には受け入れがたかった。
まるで、友情や絆を信じるような、その態度。
――私ね。あなたのことが大好きなのよ、楼蘭様。
ふいに、耳に心地よい女の声が脳裏をよぎって、楼蘭は顔を強張らせた。
――遠慮なく頼ってちょうだい。友人じゃない。ほら、これは悪阻に効くそうよ。
肥えた肢体にふさわしく、いつも伸びやかだった声。
いや、声だけでなく、その心も表情も、彼女はいつも豊かだった。
彼女を中心に、和やかな空気が広がるかのようだった。
「…………っ」
不意に息苦しさを覚えて、楼蘭は窓を振り返った。
美しい夕暮れ。
後宮という名の檻にゆっくりと降り積もる、闇の気配。
あちこちに重苦しく漂うのは、赤黒い、嫉妬と敵意の塊。
そう、これでいいのだ。
ここが、楼蘭の住まう場所。
「恐れながら、祥嬪様。私では、お二方の酒席に付き合えるものとは思えません」
とそこに、慎重な様子で夏蓮が声を掛けてきて、楼蘭は我に返った。
見れば、夏蓮は緊張した表情で俯いている。
「私は、酒を飲めぬ体質でございまして、万が一貴人様方の前で粗相がありましたら、祥嬪様の品位を汚してしまいます。お役に立てず申し訳ございません」
彼女がそう言うのは、この国の文化として、酒を注いだ者は注ぎ返され、かつ、必ずそれを飲み干さねばならないからだ。
二日酔いで舞えなくなるほどの酒量を、しかも二人分、飲み干さねばならないとなると、酒に強い者だって命が危ぶまれるだろう。
だが、楼蘭はそれを聞くと、天女のように美しい微笑を浮かべた。
「だからこそですわ」
「え……?」
「だからこそ、あなたに任せるの」
茶器が一脚分空いた棚に一瞥を向けると、それだけで夏蓮は、意図を悟ったようだった。
浅黒い肌からすうと血の気が引く様子を、聡いことだと見守りながら、念押しする。
「あなたなら、わたくしの品位を汚す真似などしないと信じていますわ。立派な姉君ですもの。間違いなく、先方にはたっぷりと、お酒を召し上がっていただいてね」
粗相は許さない。
けれど妹の弔いを済ませたくば、己は死んでも下級妃に酒を飲ませろ。
含意はしっかり伝わったようで、夏蓮は一度だけ唇を震わせると、やがて平伏した。
「……承知しました」
妨害も、罰も、あくまで相手の意思によって叶えられるべき――。
楼蘭は満足し、「ではわたくしは、舞の練習をしてきます」と告げると、室を出た。
「ああ、そこのあなた。内務府に寄って火酒を運んでくださいます? 夏蓮ひとりでは、運びきれぬでしょうから。太監長には必ず、よろしくお伝えくださいね」
途中、扉脇で跪いていた年若い下級太監に、声を掛ける。
か弱い女官に重い酒樽を運ばせるなど、そんな無慈悲なことを、祥嬪・楼蘭はしないのだ。
もっとも、目的の半分以上は、夏蓮の逃亡を許さないためだが。
また、内務府は太監長の管轄であり、彼にさえ話を通しておけば、瑞景宮の女官が火酒を持ち出した事実ごともみ消すのはたやすい。
そこまでを抜かりなく計算し、楼蘭はようやく肩の力を抜いた。
以降は、明日の選抜に備え、しっかりと舞を鍛えるのみだ。
「……ふうん? 珠珠の話の通り、悪だくみがお好きなお嬢さんのようで」
だが――かしこまって跪いていた、下級太監のはずの男。
磨かれた黒曜石のような鋭い目を持つ男が、楼蘭の背中に向かって、愉快そうに口の端を持ち上げたのには、気付かなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます