12.潰すつもりじゃなかった(1)

 ぱりん、と、澄んだ音が響いた。


「まあ、割れてしまいました」


 ぽつりと紡がれた声は、まるで鈴の音のよう。

 粉々に砕け散った繊細な茶器を冷ややかに見下ろした楼蘭は、近くにいた新米の女官に、静かに声を掛けた。


「片付けてくださる?」

「は、はい!」

「手を切らぬよう気を付けてね」


 添えられた言葉は優しげだが、声には背筋を凍らせるような冷たさがある。


「使用に堪えぬだけでもみっともないのに、後始末をする者の手まで傷付けるのだとしたら、この茶器も、自身を深く恥じるに違いないですもの。そうは思わなくて、夏蓮?」


 細められた美しい瞳は、まっすぐに、傍付き女官の夏蓮を射抜いている。

 意図を察した夏蓮は、強張った顔を上げ、その場に跪いた。


「……片付けは、わたくしがいたします」

「そう。それがいいかもしれませんわね」


 楼蘭が頷くのを見て、夏蓮はのろのろと破片を集めはじめた。


 黒を基調とした、蓮の意匠が描かれた茶器。

 「一目見て、夏蓮のようだと思いましたの」と、仕えはじめてまもなく、楼蘭がわざわざ購入したものだ。

 この主人は同様に、それぞれの女官を連想させる茶器を集め、棚に飾っている。

 新米の女官などは頬を染めて喜んでいたものだが、今になって、その意図を理解したことだろう。

 これは、女官たちを罰したり、脅したりするためのものなのだと。


 現に、この数年、ずっと棚の上部――「お気に入り」の位置にあった夏蓮の茶器は、淹れた茶を撒き散らしながら、無残に砕け散っている。

 楼蘭は取り落としたのではなく、床に叩きつけたのだ。

 それはそのまま、彼女の怒りの深さを物語っていた。


「揺籃の儀も、今日までつつがなく進みましたわねえ」


 夏蓮以外の女官をすべて下がらせた楼蘭は、ゆったりと窓辺に歩み寄る。

 金糸で編んだ窓紗の外には、ひっそりと夕闇が迫っていた。

 寵愛深き祥嬪に与えられた瑞景宮ずいけいぐうは、夕暮れの光景が見事だ。


「……申し訳ございませんでした」


 夏蓮は押し殺した声で詫びる。

 ここで楼蘭の言葉を額面通りに受け取って、「そうですね」などと相槌を打ってはいけないのだと、理解していた。


 楼蘭は、「つつがない」ことなど求めていなかったのだ。

 むしろ掻きまわし、有力な敵を蹴落とすことを望んでいた。

 たとえば教養の部では純貴人を、競画の部では明貴人を。


 権勢を誇った上級妃たちが軒並み太妃として事実上の「引退」をする中、中級妃である楼蘭の上に、もはや敵はいない。

 同じ嬪として残留を狙うほかの三人に対しては、すでにこの四年で、時間をかけて弱味を握ってある。

 よって、この揺籃の儀で楼蘭が最も警戒しているのは、才覚を頼りに、彗星のように序列を駆け上がってくる数多の下級妃たちであった。


 だからこそ楼蘭は、夏蓮に命じ、純貴人に鏡を割ったと言いがかりをつけさせ、明貴人に対しては筆まですり替えさせたのだ。

 なのに、どちらも失敗してしまった。

 あの、素性も知れない、珠珠とかいう女のせいで。


「喜貴人はまだ粘りましたわ。筆が奪えぬならと、せめて墨をかけて。だというのに夏蓮、あなたはずいぶん素直に、退いてしまいましたのね」

「……私に命じられたのは、筆のすり替えだけかと存じましたゆえ――」

「気の利かないこと」


 低い声で申し出た夏蓮を、楼蘭は氷のような声で遮った。


「妹君も、不甲斐ない姉の姿は見たくないことでしょう。お墓の下で泣いているのではないかしら」

「…………っ」


 弾かれたように顔を上げた夏蓮に、楼蘭はそっと、小首を傾げてみせた。


韋族イぞくは、故人を五年に渡って弔うのでしょう。忌明けまであとわずかの今となって、供物も墓の手入れも途絶えるとなれば、妹君も浮かばれませんわね」

「それ、は……」


 夏蓮は跪いた姿勢からさらに伏し、額を床にこすりつけた。


「お願いでございます。妹の弔いだけは、どうか完遂させてくださいませ」

「まあ。夏蓮は、叩頭がとても上手なのね。その身に沁み込んだ、完成された姿勢ですわ」


 賛辞を装った強烈な皮肉にも、夏蓮は唇を引き結ぶことで耐えた。


 韋族。

 それは、遊牧を生業としていた、砂漠の一族だ。

 一時は国を興すほどまでの勢力を誇ったが、それゆえに天華国に滅ぼされた。

 男たちは苦役を課され、見目のよい女は、女官として後宮へと召し上げられる。

 夏蓮もまた、連綿と続く支配から逃れられず、この場にやってきた者の一人だった。


 すっかり天華国に吸収され、浅黒かった肌が婚姻を重ねて色を薄めつつある今となっても、韋族の文化は独特だ。

 たとえば、誕生と同時に短刀を与えられ、子どもでも巧みに獣を育て、また狩る。

 男女とも髪を長く伸ばして編み、一生を捧げる相手を見つけたときと、死に際にのみ、それを切る。

 定住せずに、天幕を張って砂漠を旅する代わりに、死した後は緑地に堅牢な墓を建て、そこに骨を落ち着ける。


 家を持たない彼らにとって、死後に初めて得られるいえは、とても重要なものだ。

 惜しみなく財を注ぎ込み、供物を絶やさず、遺体が土に還るとされるまでの期間を、手厚く弔う。

 そうでなければ、魂は砂漠の空に浮き上がり、渇きを癒されぬまま、永遠にさまよい続けると恐れられているのだ。


 額が傷付くほどに深く叩頭する女官に、楼蘭は憐れむような視線を向けた。


「本当に、白豚妃様はひどいお方。こんなに妹思いのあなたを騙して、俸禄に手を付けていたのですもの。おかげで、本当なら昨年にもあなたは年季を終えていたでしょうに、こうして這いつくばって、後宮に居残るしかないのですものね」

「……どうか、その名は、出さないでくださいませ」


 ぎり、と、歯を食いしばりながら夏蓮が告げると、くすくすと笑い声が返った。


「そうね。髪を捧げまでした相手が、病床の妹君にあなたの俸禄を手配するどころか、かすめ取っていただなんて、思い出したくもないですものね」

「…………っ」


 床に付けていた手が、拳をかたどる。

 忌まわしい記憶に触れたとき、自然としてしまう仕草であった。


(もう、うんざりだわ……)


 ひたすら叩頭を続けながら、夏蓮は思う。

 何度も何度もなぞったその言葉は、すっかり心の中で煮詰められ、まるで呪詛のようだった。


 うんざりだ、なにもかも。


 夏蓮が最初に配置されたのは、雑房と呼ばれる、雑役をこなす部署だった。 

 掃除や荷運びをはじめ、汚れ仕事までをも任される、女官たちからは最も不人気な部署である。


 韋族の祖先より肌色は薄まったとはいえ、女官たちの中で異色の風貌を持つ夏蓮に、周囲の風当たりは強かった。

 教養も技芸も収めた上級女官であるというのに、奴婢出身の下級女官同然に扱われ、雑房へと追いやられるのだ。


 それでも、ここで稼いだ俸禄は、幼い妹の助けになるのだと思えば、夏蓮に逃げ出す選択肢はなかった。

 黙々と、気配を殺すようにして、彼女は働き続けた。


「まあ! すごいわねえ、あなたって、とっても器用なのね」


 風向きが変わったのは、豊喜宮ほうききゅう――とある中級妃の宮に、宮外からの付け届けを運んだときのことだった。


 白豚妃とあだ名される中級妃が、巨大な塩蔵肉を前に「このままかぶりつけばいいのかしら……?」と首を傾げていたため、たまらず手を貸したのだ。

 短刀を借りて薄く削ると、それだけで彼女は手を叩いて喜んだのであった。


「素晴らしいわ! あなたの手は、美食を生み出す料理人の手ね」


 なんということもない言葉だったが、それは、久方ぶりに聞いた賛辞であった。

 女の身で刀を操り、獣を狩る夏蓮のことを、周囲は「野蛮な奴婢」と笑うことしかしない。

 けれど白豚妃にかかれば、それは殺戮ではなく、調理なのだという。


「信じられない。切り口が違うだけで、舌触りが全然違うわ。ねえ、こつってあるの?」

「恐れながら、あまり近寄らないでください。……私は、臭います」

「そうかしら? 今この場には、食欲をくすぐる肉の匂いしかしなくってよ」


 そのふくふくとした手で、躊躇いもなく夏蓮の浅黒い腕を取り、「この細い指先のどこに技術が……」と見入る彼女には、心底驚いたものである。


 技術を気に入ったらしい白豚妃が、なにかにつけ夏蓮を指名し、にこにこと菓子を勧めてくるたびに、心が解れていくのを止められなかった。

 些細なことでも目を丸くして褒め称える彼女の前にいると、自分がいっぱしの人間であるように思われて、それが、舞い上がるほどに嬉しかったのだ。


 白豚妃は、いつも楽しそうに笑っている。

 ときどき空気を読まない発言をするし、聡明さには欠けて、周囲の逆鱗を真正面から掻きむしるような真似をしでかすけれど、その愚鈍さすらも愛嬌に見えて、場を和ませてしまう力があった。


 そして彼女は、一度覚悟を決めると、周りが驚くほどの頑固さと大胆さを見せて、意志を叶えてしまう性質でもあった。

 あるとき、夏蓮が色狂いの太監に手籠めにされそうになっていると知るや、雑房にまで乗り込んで、不慣れな啖呵を切り、無理やり自分付きの女官へと引き抜いたのだ。


「こ……っ、この子はね、わ、私の大切なにょきゃんなのよ! よくって、この子に指一本でも触れようとする不埒者がいたら、指一本すら触れさせないんですからね!」


 噛みすぎだし、はっきり言って、意味もよくわからなかった。

 けれど、彼女の温かな心だけはありありと伝わってきて、その熱は、夏蓮の全身を満たした。


 豊喜宮で仕えはじめたその日、夏蓮は髪を切り、主人に捧げた。

 善良でお人よしな主人に、心から尽くそうと思ったし、彼女もまた、病身の妹まで含めて必ず面倒を見ると約束してくれた。

 俸禄はすべて前払いに変更し、そのすべてを、夏蓮の妹が身を寄せる集落に送り届けると。


 ――けれど、彼女の言葉はすべて、嘘だった。


「夏蓮。あなたに残酷な事実を告げなくてはなりません」


 あの日、あの身を切るほどに寒い冬の朝、青褪めた顔をした楼蘭は、豊喜宮に立ち寄り、こう告げたのだ。


 白豚妃は、子流しの罪で、焼き印を押されて追放された。

 今後は彼女に代わり、自分があなたの面倒を見る、と。


 それまでずっと、太監たちによくわからぬ理由を付けられ、宮に押し込められていた夏蓮は、自分が主人を守れなかったことを悟り、吼えた。


 あのお人よしな主人は、きっと誰かに嵌められ、濡れ衣を着せられたのだと思った。

 だが、違った。


「夏蓮! 現実を受け止めて! あなたの主人は……彼女はね、とんでもない悪女だったのよ……!」


 楼蘭がその美しい瞳に涙を浮かべ、声を震わせたのだ。


「彼女はね、脅されるわけでもなく、自ら罪を認めたの。陛下の寵愛を受けるわたくしのことを、心の底から嫌っていたのです」


 声は震え、髪は乱れ、体は今にも倒れそうにふらついている。

 顔色もひどく悪い。

 少なくともその発言のすべてが嘘であるようには、見えなかった。


 なにかの誤解があるのではないか。

 そう思いつつも、次に楼蘭の取った行動を見て、夏蓮は言葉を失った。


「そしてね、夏蓮。彼女は、あなたのことも騙していた。……見て。これは本来、あなたに渡されるべきだった、俸禄ですわ」

「え……?」


 彼女は、室内にあった飾り棚の最上段を引き出し、その天板の裏から、あるものを取り出したのだ。

 それは、大量の金子であった。


「なぜ、こんなものが……」


 夏蓮の知る白豚妃は、美食には目がないけれど、金銭欲に満ちているわけではない。

 なぜこんなふうに、隠すようにして金子をため込んでいるのか、即座には飲み込めなかった。


「わからなくて? 彼女は、あなたに払われるべき俸禄に手を付け、私物化していたのです」

「そんな……だって、珠麗様には、贅沢をするご様子なんて……」

「毎日のように届く珍味は、贅沢ではないと?」


 それは、白豚妃の父、宝氏から送られてくるもののはずだ。

 だがたしかに、彼女が投獄されてからぴたりと付け届けは止まっていることに、夏蓮は気付いた。

 普通の父親なら、娘が牢に入れられたときにこそ、死に物狂いで物を差入れようものなのに。


 それに彼女は、ときどき夏蓮の目を避けるようにして、こそこそと室に閉じこもることがあった。

 あなたには隠し事なんてしないわ、などと笑う一方で、そうした態度を取ることが、口には出さぬものの、夏蓮にはずっと引っ掛かっていた。


「ですが……だって、俸禄は、妹に届けると……」

「確認ですが、妹君やご親族から、一度でも感謝の手紙が届いたことはあって?」


 こちらに背を向け、天板を探りながら尋ねる楼蘭に、夏蓮は黙り込んだ。

 そんなものは、届いた試しがない。

 だって、本来決まった住居を持たない夏蓮たちには、手紙で意志をやり取りするという文化がないからだ。


 だが、そう。

 もし本当に俸禄がかすめ取られてしまっていたのだとしたら、病身の妹はとうに命を落としているはずだ。

 そうすればさすがに、報せが届く。一族総出で、墓を用意しなくてはならないからだ。


「――……」


 そのときふと、棚の奥を探っていた楼蘭が、動きを止めた。


「ねえ、夏蓮。あなたの妹君は、あなたと同じ、癖のある黒髪?」

「え? ええ……そうです、妹と私は、よく似ていて……」


 なぜ今、そんなことを尋ねるのだろうか。

 怪訝な思いは、次の瞬間に吹き飛んだ。


「これ……妹君の髪なのではなくて?」


 楼蘭が、金子を隠していたのと同じ場所から、長く編まれた髪の房を取り出したからだ。


 髪は黒く、毛先は強く波打ち、組み紐を混ぜた独特の編み方も含めて、夏蓮のものとそっくりだった。

 もしや、かつて自分が捧げた髪ではないかと思ったが、いや、あのとき白豚妃に頼んで、髪は伝統通りに焼いてもらったはずだし、実際、組み紐の色が違う。

 それに、数年前のものにしては、髪は変色せず、やけに艶を帯びていた。

 まるで、つい最近切ったばかりのように。


 韋族の人間が髪を切るのは、一生を捧げる相手を見つけたときか――死したときのみ。

 夏蓮はそのとき、目の前が絶望に染まるのを、たしかに感じたのだった。


 その後楼蘭は、宣言通り、夏蓮以下、豊喜宮付きの女官を引き取った。

 口さがない妃嬪の中には、「これ見よがしの慈悲深さね」「復讐のために引き取ったのではなくて?」などと囁く者もいたけれど、少なくとも、楼蘭は夏蓮たちを公平に扱った。

 それはつまり、元からいたほかの女官と同様、公平に使い捨てたという意味である。


 佇まいや口調こそ静雅だが、楼蘭は冷酷な女であった。

 誰にも心を許さず、敵や、至らぬ部下は容赦なく切り捨てる。

 そうした性質は、生来のものなのか、それとも毒殺されかけたからなのかは、わからなかった。

 わからなかったが、もはや夏蓮にはどうでもよく思えた。


 程度の差はあれ、どうせどの妃嬪も同じなのだ。

 微笑みの下で相手を蔑み、弱者はぞんぶんに利用し、切り捨てる。

 殺伐とした後宮の中で、白豚妃だけが例外だと思っていたけれど、それこそが幻想だった。

 結局、まやかしの理想郷が壊れて、現実に戻ってきただけのこと。


(うんざりだわ……)


 以降夏蓮は、一層表情を、そして心を動かさなくなった。

 命じられれば、黙々とこなす。

 跪き、慈悲を乞うことだってする。

 韋族の人間として、少しでも隙を見せれば、すぐに転落が待ち構えていることは理解していた。

 だから彼女は、楼蘭のいぬと呼ばれるほどに、従順に、粛々と仕事を務めた。


 自尊心などとうに擦り切れた。

 妹の弔いだけ、無事に済ませられれば、それでいい。


「――もし。祥嬪様は、ご在室ですかな?」


 とそのとき、室の入口付近から声が掛かった。

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