11.庇うつもりじゃなかった(5)

「お待ちください!」


 そのとき、通り過ぎたばかりの紅香こうかが大声を上げたので、珠麗はぎょっと振り向いた。


「太監長様、どうか今一度お考え直しください!」


 なんと彼女は、その場に跪いて、袁氏えんしに請願しはじめたのである。


「こんなの、あまりに理不尽でございます。どうか、彼女のを審査していただけませんか」

「ちょ……っ」


 珠麗は焦った。

 いったいなにを言い出すのだ――!


「紅……明貴人様! おやめください! もう決着のついた話ですよ!?」

「いいえ。こんな理不尽が、まかり通ってなるものですか」


 肩を揺さぶって立たせようとしても、跳ねのけられる。

 彼女は、その強気そうな顔をぱっと振り向かせると、睨み付けるようにして珠麗のことを見つめた。


「わたくしは、あなたに助けられたのよ。あなたが小筆を貸してくれなくては、わたくしは途方に暮れて、落札していた。なのに、わたくしは無事で、悪意からも墨からもかばってくれたあなたが落札だなんて、そんなのおかしいではないの!」

(今ここで義侠心を発揮しないでええええ!)


 思わず頬を両手で挟みそうになってしまう。


 そうだった。

 この妹分は基本的に攻撃的なのだが、弱ったところに手を差し伸べられると、全力で相手に懐いてしまう性質だったのだ。

 かつ、そのきっぱりとした性格そのままに、大層正義感が強い人間なのである。


「わたくしは、彼女に小筆を貸してもらいました。けれど、それは不正ではありません。むしろ、嫌がらせという不正の被害を受けたわたくしを、彼女だけがかばってくれたのです。そんな心根の美しい女性の画こそ、真っ先に評価されるべきです! なのに落札など!」

「えっ、ちょ……っ、いやあの、私、落札でも全然悲しくないというか!」

「嘘おっしゃい! ぎこちない笑みを浮かべたあと、唇を震わせる仕草に、悲しみをこらえる以外の意味があるとでも言うの!?」


 珠麗は白目を剥くかと思った。

 完璧に誤解されている。


「その珠珠という女の、心根は評価しなくもないが……」


 清々しいまでの啖呵を、さすがの太監長も即座には退けられなかったのか、顎を撫でながら思案しはじめる。

 珠麗は引き攣った笑みを浮かべながら、墨をかぶった画を引っ張り出した。


「いえ! いえもう! お気持ちだけで! だってほら、肝心の画がこの有様ですし! どうにも審査のしようがないと言いますか! ええ!」

「それならば」


 必死の説得を遮るように、涼やかな声が響いた。


「特別に、雑紙のほうを審査してはいかがでしょう、太監長殿。見たところ、彼女は筆試しのつもりか、せっせと雑紙にもなにかを描いていた様子。提出の予定であった正紙には及ばずとも、力量を測る手掛かりとはなるでしょう」

(うおおおおおおい!)


 提案を聞いた袁氏が「それもそうだな」と頷いたのを見て、珠麗は心の中で絶叫した。


(郭武官よ! なぜ! あんたは! 呼吸するように滑らかに私を追い詰める!!)


 正紙に及ばぬなどとんでもない。

 むしろ、雑紙にこそ、全神経を集中させて美麗な画を描き出したのだ。

 それに、ここで雑紙を見られてしまっては、宮中の調度品の図案を模写して売りさばこうとしていたことが、露見してしまう。


 珠麗は冷や汗を滲ませながら、たもとに忍ばせていた雑紙をぎゅっと抱きしめた。


「い、いえ! 結構です! 帰るまでが遠足、正紙を提出するまでが儀。正紙を清く保てなかった私は、しょせん、それまでの力量だったと言うことです!」

「ほう、近年稀に見る高潔な発想だね。そんな高潔な女性ならば、ますます助けたくなるというもの」


 だが、郭武官は愉快そうに口の端を持ち上げ、さらに追い詰めてくる。


「いえ高潔とかではなくて! そ、そうですわ、雑紙への走り書きを、栄えある太監長様のお目に入れるなど、不敬の極み。そのような不敬を、私に犯させないでくださいませ!」


 珠麗は矛先を袁氏に切り替え、必死に縋った。

 この潔癖症気味の太監長が、汚らしいものに冷やかなことを知っているからだ。


(それもそうだなと言って! あんたの高慢さが頼りよ!)


 だが、


「殊勝なことも言えるではないか。よい、たしかに私は、後宮を支える身として、品位を旨としているが、雑紙を差し出されて目くじらを立てるほど、狭量な人間ではない」


 袁氏がまんざらでもないように頷いたのを見て、珠麗は青褪めた。


(逆効果あ!?)


 どうやら謙遜として、彼の自尊心をくすぐってしまったらしい。


「さて、これかな」

「ちょっ!」


 愕然としたその隙を突かれ、郭武官にあっさりと雑紙を奪われる。

 そうして彼が画を恭しく提出してみせると、袁氏ははっと息を呑んだ。


「これは……」


 そこにあったのは、流麗としか言いようのない水墨画であったのだから。


 題材は、歳寒三友さいかんさんゆう――つまり、寒さ厳しい冬にも目を楽しませてくれる三つの植物。

 寒中にも色褪せぬ、立派な枝ぶりの松と、真っすぐな竹、そして雪の中に花開く梅が、まるで本物を紙の中に閉じ込めたかのように、ありありと、力強く描かれていた。

 その傍らに添えられた「常映雪読書」の文字もまた、扁額そのものの筆致で、端麗である。


「なんと見事、国宝に描かれる光景にも匹敵する巧みな構図だ」

「いえ……」


 それはだって、高値で売れるよう、国宝を精密に真似たので。


「題材もよい。逆境の冬にこそ美を誇る歳寒三友と、雪の文字を含む書を融合させたか。『雪で明かりを取ってでも常に勉学に励め、そうすればいずれ、歳寒三友のように、多くの者から称えられる存在となるであろう』――そうした意図だな?」

「いやあの……」


 まさか、贋作需要を意識して選びました、などとはとても言えない。

 歳寒三友にいたっては、高価な壺に描かれていたのがそれだったから描いただけだ。


「しかも、雑紙でこれとは……いったい正紙にはどれほどの大作が描かれていたのか、まったく、墨をかぶったのが悔やまれるな」

「…………」


 むしろ、雑紙こそが最高水準で、正紙のほうはほとんど落書きに等しい。


(なんて、言えないわよ……っ)


 真相を告げれば間違いなく怪しまれるわけで、あえてそれをする勇気は、珠麗にはなかった。

 幸い、国宝や扁額の模写は「そういう趣向」として受け止められたようだが――後宮に閉じこもった彼らには、贋作売買という世俗的な発想がないのだろう――、一つでもボロを出せば、そこから芋づる式に、自分の正体がばれてしまうだろうことは、いかな珠麗でもわかる。


 結局、


「珠珠。そなたには甲評価の最上を与える。容姿は麗しく、教養に溢れ、画才を持ち合わせるとはすばらしい。多少の粗野さは気になるところだが、殊勝な心掛けの片鱗も見える。明日は妃候補として選抜を受けるように」


 との袁氏の言葉を前に、珠麗は真っ白な灰になるほかなかったのである。




***




「おめでとうございます、珠珠さん。わたくし、友人として、本当に誇らしいですわ」


 自身の提出を終え、席に戻ってきた蓉蓉は、優しげな目をきらきら輝かせた。


「ええ、本当に。画の麗しさ自体も見事だけれど、題材の選び方に教養を感じたわ」


 同じく、感心したように頷くのは純貴人・静雅。


「まあ、画の実力では私よりも劣るけど、大筆だけであの筆致を実現したのは見事としか言いようがないわね」


 ひねくれた物言いで賛辞を寄越すのは、明貴人・紅香である。

 紅香はちらっと珠麗を見ると、照れくさそうに視線を逸らした。


「まあ、あなたがあんな卑怯な相手に蹴落とされなくてよかったわよ。よくって、これで借りは返したんですからね」


 強気な発言だが、素直な顔つきから、彼女がすっかり珠麗に心を許したのがわかる。

 おそらく、本当は彼女のほうが珠麗に感謝しているのだ。

 紅香は小筆を確保し、墨もかぶらず、見事に甲の最上評価を獲得していた。

 明日は嬪候補として選抜に進むと言う。


「借りを、返すだなんて、とんでも、ない……っ」


 珠麗は机に突っ伏したまま、震え声で応じた。

 むしろ紅香の庇い立ては、借りを返すどころか、恩を仇で返す行為である。


(善意なんだろうけど! その正義感! 全然必要なかったから!!)


 心境としては、飼い猫から得意満面にネズミの死骸を贈られたかのようである。

 まったく嬉しくない。けれど、強く叱りつけることも難しかった。

 花街で「上の者には絶対服従、下の者は絶対庇護」の精神を骨の髄まで叩き込まれたからだ。


(余計なことをするな、むしろ蹴落とせって、どうしたら怪しまれずに伝えられるの……っ)


 懊悩する珠麗の傍らでは、蓉蓉が「それにしても」と、打ち捨てられた紙を摘み上げていた。

 すっかり墨を被った、例の艶画だ。


「背景を見るだけでも麗しいとわかるのに、惜しいことですね。天の意志で自然と筆が動く、と郭武官に仰っているのが聞こえましたが、なにを描かれていたんですの? 二人の……これは、殿方かしら?」

「ううっ、捨て置いてちょうだい。衝動に逆らえず、調子に乗ってそんなものを描いた私が愚かだったんだわ」


 嫌がらせの艶画など描かずに、素直に全部白紙にしておけばよかったのだ。

 自己嫌悪に陥った珠麗は、顔を覆って項垂れた。


 だから、気付かなかった。


「服から察するに、これは……武官と太監……?」


 艶画に目を凝らしていた蓉蓉が、はっと息を呑んだことに。


 世俗の垢に塗れぬ彼女が、太監が武官にのしかかる構図を見て、下剋上――序列の崩壊や権力の腐敗という、「真っ当な」示唆を読み取ってしまったことに。


(まさか珠珠さんは、大監長の増長と後宮内の序列の乱れを、見抜いているというの……? それで、大胆にもそれを警告しようと?)


 蓉蓉は珠麗にありもしない慧眼を見て取り、静かに慄く。


(やはり彼女こそは、真実を見抜き、それを諌める胆力をも待ち合わせた、龍玉の器……!)


 そこでようやく顔を上げた珠麗は、興奮に頬を赤らめた蓉蓉を見てぎょっとし、慌てて艶画を取り上げたのだった。


「よ、蓉蓉。だめよ、まだ早いわ。軽い気持ちで手を出すものじゃないし、こういうものに触れるには、ふさわしい時期ってものがあるの」

「そう……。今はまだその時ではないと仰るのですね」

「え? そうね……? まあ、そう遠くない未来な気もするけれど」


 いろいろと早熟そうな蓉蓉を見て、珠麗は首を傾げる。

 男性同士の艶画は、性癖を熟成させた貴婦人方の趣味だが、彼女なら存外あっさりその域に到達しそうだ。


(そんなことより、ここから先、どうするかだわ……)


 逸れてしまった思考を切り替え、今後の身の振り方に頭を悩ませる。

 礼央が来てくれたからには、物理的に後宮を脱出することは容易かもしれないが、その後の守料取立てが恐ろしい。

 いや、上級妃候補にまで勝ち上がってしまったなんて知られたら、「やる気あんのか」と見捨てられてしまうだろうか。


(ひとまず、明日こそはなんとしても選抜をさぼろう。警備の緩い今の東屋に居座って、そうだわ、仮病計画を……ああ、それにしたって、礼央への金策はどうすればいいの)


 思考は千々に乱れ、心は追い詰められるばかりだ。

 それゆえに、


「…………」


 すでに広間を去った楼蘭が振り返り、じっとこちらを見つめていたことにも、やはり珠麗は気付かなかった。

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