10.庇うつもりじゃなかった(4)

「きゃあっ!」

「か、烏!? こんな尾が長い烏、見たことがないわ」

「なんて大きい……!」


 鳥とは言え、犬ほどの大きさを持ち、風を切る速度で飛ぶとなれば、かなりの脅威である。

 その勢いと獰猛な姿に、女たちは悲鳴を上げて立ち上がった。


「一同! 捕獲を!」

「はっ!」


 即座に反応した郭武官の鋭い命に従い、ほかの武官や太監たいかんたちがあたふたと動き出す。


 が、素早い動きを、剣だけでは封じることができず、また、妃嬪ひひんたちの前で短刀を投擲とうてきするわけにもいかなかったため、結局は捕縛というよりも、追い払うのがせいぜいという格好になる。

 烏は人間たちを翻弄するように会場中をゆったりと旋回すると、やがてふいに興味を失ったように、自ら広間を出て行った。


「追え……!」

「いえ、太監長殿。あの速さでは追うだけ無駄でしょう。それよりも、妃嬪の皆さまにお怪我がないか確認を」


 儀を妨げられて怒り心頭の袁氏を、郭武官は冷静に諭す。

 太監たちがおろおろとした様子で、妃嬪に安否を問うと、女たちはようやく胸を撫でおろし、「無事ですわ」「問題ございません」などと答えはじめた。


小黒しょうこく……!? どうしてここに!?)


 いや、会場でただ一人、珠麗だけが、いまだに興奮の冷めやらぬまま、烏の消えた方角を目で追っていた。


 あの大きな体に、長い尾。

 なにより、人を小馬鹿にした飛び方。

 間違いなくあれは、礼央りおうの飼っている小黒だ。


(昨夜鳴らした犬笛に、早速反応してくれたってこと!?)


 王都にも賊徒仲間が散らばっているとは聞いていたが、まさか本当に連絡が取れるとは。

 いや、礼央にしか懐かない小黒が来たということは、これはもしかして、礼央本人が王都まで駆けつけてくれたということではないか。


(うそ! 礼央が? わざわざ、自ら? 信じられない!)


 守料の取り立ては厳しいし、日頃意地悪な発言ばかりする彼だから、なんとなく今回女官狩りに遭った珠麗のことも「阿呆が。自分のケツは自分で拭け」くらいに思われているのかな、と考えていたが、そういえば彼は、意外に優しいところもある男なのだった。


(礼央が来てくれたなら、もう大丈夫)


 一気に気分が浮上し、うきうきと席に腰を下ろす。


 と、そのときカサリとなにかが袖に触れ、珠麗は目を瞬かせた。


 小さな紙片。

 あの恐ろしく賢い鳥が、そばを通り過ぎる瞬間に落としていったのだ。


 つまりこれは――助けを求める呼び笛に対する、礼央からの返事。


(すごいっ、抜かりない! さすが礼央! もしかして、待ち合わせ場所の指示とか!? それとも、脱出のための作戦とか!?)


 そう、賊徒集団の頭である彼は、いつだって千里眼を持っているかのような、頭抜けた想定力と指導力を発揮するのだ。


 小指の先にも満たぬほど小さく折りたたまれている紙片だが、手先が器用な礼央や珠麗ならば、そこにびっしりと文字を連ねることができる。

 きっと、素晴らしい作戦を授けてくれるに違いない、と、人目を気にしつつも、いそいそと紙片を開いた珠麗は、しかしそこで、ぴしりと固まった。


 ――守料しゅりょう倍増


 なぜならそこには、怒りを感じさせる荒々しい筆跡で、たった四文字が書かれていたのだから。


「ひ……っ」


 珠麗は上ずった声を上げかけて、辛うじて踏みとどまった。


 そうだった。

 彼は意地悪に見えて世話焼きで、けれどやっぱり、身内でも一切手加減をしない、厳しい男であった――!


(ま、まずい! 倍!? ただでさえバカ高い今の額の、倍……!?)


 どっと冷や汗が噴き出る。

 そうとも、なにが「助けてにきてくれた」だ、今の自分は、彼にとって、守料の支払いを踏み倒している馬鹿女にすぎないのだ。

 都まで来てくれたのは、さすがに取り立てのためではないと信じたいが、少なくとも、このまま脱出を彼に頼ろうとするのなら、相応の「迷惑料」を求められることだろう。


 以前から彼には、「守料は体で払ってくれてもいい」と言われている。

 これがほかの男なら性的な要求かと思うところだが、なにしろ相手は、なにかにつけ珠麗を嘲り、しかも眉一つ動かさずに敵の手足を切断してしまえる男だ。

 間違いなく、臓器売買的な文脈で解釈すべきだろう。

 処女の内臓は、漢方薬の原料として、それなりに価値がある。


(い、いえ、この顔も美人だとわかった今となっては、案外、字面通り、肉体的な奉仕でもいけたり……いや、ないな! 絶対ないわ!)


 考えてみれば、すでに礼央は珠麗の素顔を知っているのだった。

 知っていてあの塩対応なのだ。

 というかそもそも、自分の色仕掛けへの適性の無さは、四年前に郭武官によって証明されているのではないか。


(悠長に艶画なんか描いてる場合じゃ、全然なかった……! ど、どうしよう、ちょっとでも金策を講じておかないと)


 珠麗は血走った目で、さりげなくあたりを窺った。


 ひとまず、この下賜品の衣装は遠慮なくもらっていこう。

 東屋に残してある、泥の付いたほうの衣装もだ。

 あとは、支給される食事の中で、保存が利きそうなものは、蓄えておこう。

 宝飾品や調度品――はさすがに盗むのは難しい。この質のよさそうな筆や硯は、いくらか金子になるだろうか。

 ああ、なぜ、高級な正紙に真っ先に描いてしまったのか。


(待って、落ち着くのよ。物は持ち出せなくても、技術を持ち出すという手もあるわ)


 そのときふと天啓が下りて、珠麗は瞳を輝かせた。


 そう、なにも、金品だけが財ではない。

 確実に稼ぎに繋がる技術を持ち出せれば、そこで生まれる対価を、支払いに充てることができる。


 珠麗の貧民窟での主な稼業は、裏栞りかんの作成や、絵や書の贋作づくりであった。

 もともと上流階級の生まれで、しかも花街で美的感覚を磨き上げた珠麗の作品は、細部まで本物によく似ているという点が受けて、高く売れたのである。

 そして今、この場には、国宝級の文化財がそこら中に転がっていた。


 たとえば、上座に掛けられた扁額へんがくの書。

 さりげなく置かれた壺に描かれた画。

 掛け軸。彫刻。

 それらをすべてこの目に焼き付け、再現できたなら。


(よし……!)


 珠麗は、先ほどの比ではない気迫を漲らせ、筆を取った。

 雑紙に、まずは、扁額に書かれた書を正確に写し取ってゆく。

 文字は「常雪映読書」――雪から明かりを取ってでも常に勉学に励め。

 ちょうど、猛勉強を強いられる科挙受験生たちに大人気の訓示で、贋作でもよく売れるのだ。

 跳ねや払いの角度、墨のかすれ具合まで精巧に、まるで本物そのもののように写し取った。


 次には、高価そうな壺の絵に当たりをつけ、ひたすらその模写に励んだ。

 小筆を紅香に渡してしまったため、大筆の毛を指で割り、なんとか細い線を描く。

 練習用の雑紙は持ち帰れるのだから、記憶するのは後でいい。

 とにかく、正確に再現することだけを、心がける。


(できた! これを手本として持ち帰れば、そこそこのお金になるはず)


 長時間、脇目もふらずに没頭し、次に顔を上げたときには、香が燃え尽きようとしていた。


 手際のいい妃嬪たちは、すでに片づけを始め、正紙を太監長に提出しようとしている。

 珠麗も慌てて立ち上がり、正紙を掴んで、提出の列に加わった。

 ちょうど前が紅香だったので、さっきの小筆を返してくれと囁くべく、こっそりと腕を引く。


 ――ごとっ


 小さな音が響いたのは、その時だった。


「きゃあっ! すずりが!」


 ついで、非難がましい声が続いた。

 声の主は、先ほど紅香を責め立てた喜貴人である。

 どうやら、彼女が通路側に置いてあった硯が、隣を通りすぎた紅香の袖に触れて、床に落ちてしまったらしい。


「なんということをなさるのです、明貴人! おかげで、わたくしの作品に墨が飛んでしまいましたわ!」

「な……っ、嘘だわ! わたくしは触れていないもの。あなたが落としたのでしょう?」

「まあ、人の作品を台無しにしておいて、詫びすらないのですか?」


 喜貴人は柳眉を吊り上げて怒っているが、珠麗はそこに、紅香に罪をなすりつけようとする、自作自演の匂いをかぎ取った。

 なにしろ、彼女の作品に墨はほとんどかかっておらず、むしろ、紅香が手にした画のほうにこそ、端に小さな点が飛び散っている。


(あと、私のね……っ)


 さらに言わせてもらえれば、珠麗の艶画こそ被害甚大だった。

 ちょうど紅香の腕を引いていたことで、まるで硯から彼女を庇うような格好になり、画の大半に墨をかぶってしまったのである。


(よりによって、郭武官の悶え顔を!)


 これにはさすがに、珠麗の顔も引き攣った。

 艶画は表情が一番重要なのに。

 服装から、太監と武官ということはうっすらわかっても、個人が特定できない。


 どうしてくれる、と身を乗り出しかけたが、そのとき、前方から凛とした声がかかった。


「厳正な儀の場で、騒がしいことですね。恥を知りなさい」


 なんと、楼蘭ろうらんである。

 彼女は、嬪の位に恥じぬ優雅な挙措で立ち上がると、言い合う二人の貴人に向き合った。


「明貴人。たとえ悪意がなくとも、粗相して他者を妨げたのなら、詫びるべきでしょう」

「で、ですが祥嬪様! 彼女の絵には、ほとんど墨も飛んでいないのですよ。こんなの、言いがかりですわ!」

「では、あなたの後ろの彼女にはどうです? 画のほとんどが墨をかぶっています」


 まるで鈴のように美しい声で告げると、楼蘭は珠麗に向かって、憐れみの一瞥を向けた。


「珠珠、と言いましたね。かわいそうに、これでは提出も不可能。一人の人間を落札させて、良心の痛みすら覚えぬなど、とても貴人らしい振舞いとは思えませんわ、明貴人」

「…………!?」


 紅香への攻撃はともかく、しれっと珠麗の落札まで話を持っていった楼蘭に、驚いた。


「まあ、可哀想だわ、巻き込まれて落札だなんて……」

「いくら奴婢出身とはいえ、人を落札させておいて詫びもないなんて、明貴人は女官に落とされたほうがいいのではありませんこと?」


 楼蘭がさりげなく宣言したことにより、周囲もすっかり、珠麗の落札を前提とした雰囲気になってしまっている。


(いや、世論形成の天才かっ!?)


 珠麗は、楼蘭を恐々見つめながらも、遠慮なくその流れに乗ることにした。

 郭武官をぜひ怒らせたかったものだが、罰なく落札できるなら、それに越したことはない。


「落札なんて残念ですう。でもこれも天の意志ですし、仕方ないですね。いやー、残念――」

「お待ちを」


 だがそこに、耳に心地よい低音が響いた。

 今度話を遮ったのは、郭武官である。


 彼は、一斉に振り返った妃嬪たちの視線をこともなげに受け止めると、冷静に指摘した。


「見間違いでなければ、硯は、喜貴人ご自身の手に触れて落ちたようです。ここで明貴人を責め立てるのは筋違い。むしろ喜貴人こそ、明貴人と、珠珠殿に詫びるべきかと」


 どうやら、彼は、喜貴人の工作を、しっかり目撃していたようである。


(うわっ、相変わらず目ざとい男)


 あっさりとその場の空気を掌握してみせた彼に、妃嬪たちは驚きと感心の眼差しを向けたが、珠麗は反射的に舌打ちしそうになった。

 本当に、厄介な男だ。


 だが、自分は落札できて満足とはいえ、紅香を巻き込むのはさすがに可哀想だった。

 それを思えば、彼が空気を読まず指摘を寄越したことは、よいことだったのだろう。


 反論された楼蘭は、いかにも驚いたように、「まあ」と目を見開いてみせた。


「そうでしたか。それではわたくしも、明貴人に詫びなくてはなりませんね。申し訳ございません」


 あっさりと格下の貴人に詫びることさえしてみせ、それから彼女は、子飼いのはずの喜貴人に厳しい視線を向けた。


「喜貴人。ではあなたに言いましょう。人一人を落札に巻き込んでおいて、詫びのひとつもなしとは、貴人の風上にも置けませんわ」

「しょ、祥嬪様、ですが……っ」


(うわ、あっさり切り捨てたわよ)


 おそらく楼蘭は、紅香を蹴落とすのに、もはや喜貴人では使えないと判断したのだろう。

 かつ、珠麗を落札とするのは、もはや決定事項のようだ。

 昨日の一件で、相当恨まれたものと見える。


(ま、私としては異存ない展開だけどね)


 楼蘭の冷酷さに顎を引きながらも、珠麗は内心でほくそ笑んだ。


 相手はしてやったりとの心境かもしれないが、それはこちらの台詞である。

 落札の空気を作り出してくれたおかげで、珠麗は大手を振って後宮から逃げ出せるのだから。


(ふふん、楼蘭によって死にかけたけど、楼蘭によって生かされもする、っていうのは、因果な話ね)


 楼蘭にちらりと皮肉気な視線を寄越してから、珠麗はさっさと話をまとめにかかった。


「私自身はなんら喜貴人様を責めるものではありませんが、私の画がもはや評価に堪えないというのは事実でございましょう。これも天のご意志。私はこれをもち、この場を失礼したく存じます」


 きっぱりとした宣言に、周囲がざわめく。

 女たちは皆、珠麗に同情するような、かといって表立って庇えはしないというような、微妙な表情で囁き合っていた。


 蓉蓉と純貴人は「そんな!」と身を乗り出したが、彼女たちには無残に墨をかぶった画を突き出して黙らせる。

 どんな事情であれ、画の未完成は受験者の手落ちとされるのは、儀の掟だ。


「ふむ、なかなか殊勝な心掛けである。評価を加減してやりたいところだが、そもそも審査の対象となるものがないのでは仕方がない。褒美に多少色を付けてやるゆえ、それで手打ちとせよ」


 ちなみに、昨日の罵倒で珠麗のことを嫌っているらしい袁氏は、落札に前向きな様子だった。

 一度落札した女を、郭武官の一存で再びねじ込まれたのだから、そのいら立ちもあるのだろう。


 こうして珠麗は、むしろ褒美を多めにもらい、大手を振って後宮脱出を決めたわけである。


(やったー!)


 油断すると緩みそうになる頬を気合いで抑え込み、なんとかとぼとぼとした足取りで、机を離れはじめる。

 が、途中、じっとこちらを見つめる紅香と目が合ったので、軽く微笑みかけてしまった。

 だめだ、どうしても笑みが零れる。

 自分を叱咤し、震える唇をなんとか引き結び、無理やり前を向いた。


 後宮の人間がおしなべて薄情というのは、学習済みだ。

 こうなれば、誰も珠麗を引き留めることなどしないだろう。


 これでようやく、無事に後宮を出られるし、雑紙に仕込んだ絵で、一儲けできる――


「お待ちください!」


 だがそのとき、通り過ぎたばかりの紅香が大声を上げたので、珠麗はぎょっと振り向いた。

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