6.残るつもりじゃなかった(2)
女官見習いの衣をまとった人間が声を上げたことで、楼蘭たちが一斉に振り向く。
珠麗は平身低頭を装い、顔を俯いて隠したまま、ずりずりと膝這いで進み出た。
「恐れながら申し上げます。割れた鏡に、満月の清らかさはなくとも、片割れ月の趣はございます。これはいわば『
楼蘭たちは、胡乱気な眼差しを寄越す。
「楽昌の鏡? 耳慣れぬ言葉ですね。下賤の女官見習いが、妙な作り話をするとは――」
「
珠麗は、膨大な収録数を誇る詩集の名を真っ先に出し、楼蘭たちの口を封じた。
「古の国の公主・楽昌は、戦禍に巻き込まれるその直前、鏡を半に割って愛する夫と分け持ち、混乱の納まった後に、それを手掛かりとして再会を果たしたそうです。これこそが『楽昌の鏡』、または『
「破鏡重円、それなら……」
うっすらと聞き覚えのある語だったのだろう。
楼蘭と純貴人が、眉を寄せて呟く。
ここぞとばかりに、珠麗は割れた鏡を拾い、平伏したまま楼蘭に差し出してみせた。
「禍に呑まれてなお、一心に夫を慕い、やがて報われる。多くの厳しさを乗り越えて、ただ一人の尊いお方に心を捧げる
一気に言い切ると、楼蘭は目を見開いて、黙り込んだ。
内容を吟味し、たしかにそれは斬新でよいと判断したようである。
教養高さを印象づけられるし、なにより賄賂ではなく趣向だと宣言した手前、受け入れざるをえない、という面もあるのだろう。
「……そうですね」
やがて頷くと、楼蘭は夏蓮に命じて、鏡を受け取らせた。
「そのような趣向も、太監長様には目新しいことでしょう」
これで、純貴人を責め立てる理由はなくなったということだ。
「それでは、先を急ぎますので。ごきげんよう」
楼蘭は、平伏する珠麗を値踏みするように見下ろすと、次には興味を失ったように、優雅に踵を返した。
夏蓮もまた珠麗が気になったのか、じっと視線を落とすが、やがて無言で身を翻す。
止まっていた時が流れ出したように、周囲の人々が、詰めていた息を一斉に吐き出した。
「ねえ、あなた」
よし、これで門に、と立ち上がった珠麗に、声が掛かる。
純貴人だった。
再びその場に跪こうとした珠麗を制すと、彼女は目を合わせて礼を寄越した。
「助かったわ、ありがとう。女官見習いにしては、ずいぶんと博識なのね」
「いえ、唯一知っていた故事を、たまたま思い出しただけでございます」
珠麗は頭を下げることによって、全力で視線を避けた。
純貴人もまた、「白豚妃」と交流のあった下級妃だ。なるべく顔は見られたくない。
「まあ。経典の中ではさほど主要ではない本事詩の一篇だけを、唯一? そんな偶然ってあるのかしら」
「よ、世の中は不思議な偶然で満ちておりますね」
ぐいぐいと来られて、珠麗はしどろもどろになった。
まさか、「いやあ、貧民窟で、科挙の不正を手伝う闇稼業に手を染めていたので、経典に詳しくなっちゃったんですよね」とは言えるはずもない。
膨大な暗記量が求められる官吏の試験において、経典をびっしりと書き記した小さな「
冷や汗を浮かべてごまかす珠麗に、純貴人は愉快そうに目を細めてみせた。
「そう。楽昌の鏡は、
「単なる、偶然でございましょうねえ」
――気付いていたか。
さすがの知識量を誇る純貴人に、珠麗は密かに片眉を上げる。
そう、割れてしまった鏡は、楽昌の逸話では再び重なるけれど、ほかの経典では、結局元の鞘に戻れなかった夫婦の例えとして使われ、「壊れた関係や、過ちは取り返せない」という戒めとして使われる。
かつ、経典としては後者のほうが有名であった。
楼蘭が誇らしげに「破鏡重円にあやかりました」と割れ鏡を示したところで、きっと赤っ恥を掻くだけだろうが、それもまあ偶然のことなので、仕方ないだろう。
二人は、ちらりと共犯者のような笑みを交わし、やがて純貴人が、髪から
「英明なる陛下のご威光は大陸の隅々まで行き届いている……女官見習いまでそのような知識を身に付けていることに、感銘を受けました。受け取りなさい」
「ありがたき幸せに存じます」
路銀だ。
珠麗はほくほくと笑みを浮かべると、遠慮なく簪を受け取った。
これで、玄岸州まで帰れる。
純貴人が立ち去るのを見届けて、今度こそ珠麗は大急ぎで門へと向かった。
この角を曲がり、後はもう、全速力で走るのみ――
「きゃっ!」
だが、疾走するどころか、勢いよく角を曲がろうとした時点で、どんっと何かにぶつかり、珠麗は尻もちをついた。
「おや、大丈夫かな?」
いや、なにかではない。
人だ。
「そんな、逃げるようにして走らなくたっていいじゃないか。腰は大丈夫かな?」
優雅にこちらへと手を差し伸べる、武官服をまとった、とびきりの美丈夫。
「な、なぜ、ここに……」
「武官だけの知る抜け道があるんだ」
先回りされたことに呆然としていると、彼――郭武官はにこりと笑って応じる。
「本事詩に、伝灯禄。『酒池筋肉』に憧れる寒村の娘にしては、ずいぶん博識だね?」
「え……っ? あ、あの、なんのことでしょうっ? 私は、字も読めない無学な――」
「ああ、本来の一人称は『私』なんだね。で、字も読めない君が、偶然、自分の名を書かれた木簡を素早く選び取れたと。『すごいね』。」
たっぷりと揶揄を混ぜ込んだ話しぶりに、珠麗はくらりと眩暈がしそうになった。
そう。
そうだ。
彼は、こういう男だった。
「『女官として働きたくない』と言っていたっけ。そうだね、美貌と学を兼ね備えた君は、女官ではなく、妃嬪を目指すべきだ」
硬直する珠麗から、落札の木簡を奪い取り、郭武官はにやりと笑みを深める。
「おめでとう。君は後宮に残り、
過ちは取り返せない。
青空に残った冬の半月が、再び照らさぬ破鏡のように、意地悪く珠麗を見下ろしていた。
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