5.残るつもりじゃなかった(1)

 極力足音が立たぬよう全速力で小道を走り抜け、門へと続く大きな道に出たところで、速度を緩める。

 息を荒げてしまわぬよう意識して、珠麗は何食わぬ顔で、後宮を行き交う人々の群れに加わった。


 この先の角を一つ曲がってひたすら進めば、後は外へとつながる大門だ。

 門番に落札の木簡を見せれば、外に出られる。


(ここまで来れば、大丈夫かしら)


 ちら、と視線だけを振り向かせ、背後から追手が来ないことを確かめると、珠麗はほっと胸を撫でおろした。

 まったく、蓉蓉のせいで、とんでもないことになるところだった。





「これだけの美貌、たしかに落札とするには――」

「ええ? やっばーい! あたし・・・、こんな美人だったの?」


 袁氏が思い直す素振りを見せたその瞬間、珠麗は甲高い声を上げた。

 呂律の甘い声を。


「あのくそババア・・・・・、よくも隠してたわね。これだけの器量がありゃ、一番偉いお妃様になって、酒池……肉林? 肉森? 筋肉? を毎日できるに違いないのに」


 寒村の貧民にすぎぬ身分で、大それた夢を紡ぎ出した娘を前に、袁氏は眉を顰めた。

 口の悪さ、目上の者への敬意のなさ、そして頭の悪さが、心底不快な様子である。


 花街で多くの男性客を見てきた珠麗は知っている。

 この国の高い地位にある男で、女に寛容な人間なんていやしないのだ。

 口では「女の才能を引き出したい」「有能な女に惹かれる」などと言いながら、実際のところ彼らは、従順で大人しい女を求めている。


 柔和に見える太監長の、隠された高慢さを見て取った珠麗は、ここぞとばかりに彼の逆鱗を刺激しに行った。


「女官として働くだなんてごめんだわ。あたし、学はないけど、これだけ美しいんだもの。偉いお妃様にしてくれますでしょ、太監長様? ゆりかごだっけ、がんがん揺らしてくださいよ。いよっ、太っ腹! あはは、本当、ぶたみたいに立派なお腹!」


 ついでに、身体的劣等感も揺さぶってみた。

 男性機能を失った宦官は、陰陽の気が乱れるからなのか、とかく太りやすい。

 昔は繊細な美貌を誇っていたらしい袁氏が、中年太りに悩まされていることも、かつて同じ豚仲間だった珠麗は知っていた。


「いや、そなたが後宮に残ることはない」

「へ?」


 案の定、耳の先まで怒りの色に染めた袁氏は、震える手で肘置きを握りしめて言い放つ。


「その浅学、その軽薄さ、そしてその傲慢さは目に余る。妃嬪候補になどしたら、間違いなく諍いの元となろう。かといって、女官として役立てる頭もない。やはり、落札だ!」


 ええっ、と大袈裟に叫びながら、珠麗は今度こそ内心で快哉を叫んだ。

 さすがの蓉蓉も、この暴挙は擁護できぬのか、愕然としたまま硬直している。


 そしてその隙を突き、珠麗は素早く己の名が書かれた木簡もっかんを回収すると、広間を退散したのだった。


(とはいえ、郭武官はじっとこちらを見ていた気がするわ。あいつ、妙に鋭いところがあるから、とにかく彼の手が及ばぬ城外まで逃げないと)


 優雅に歩む人々に焦れながら、珠麗は門へと歩く。

 簡素なお仕着せをまとっているのがもどかしかった。

 後宮では、下の身分の者が上位の者を追い越すなど許されず、見つかれば処分されてしまう。

 つまり、最下層の衣をまとう珠麗は、誰よりゆっくりしか進めないということだ。

 すでに、この顔も露呈しているというのに。


(ああ、あの角を曲がれば、その先は門……!)


 ようやく角に差し掛かり、少しだけ安堵する。

 だがすぐに、珠麗は顔を強張らせる羽目になった。


「きゃあ! 祥嬪しょうひん様の鏡が!」


 かしゃんっ、となにかが割れる音と、女官の叫び声とが辺りに響き渡ったからである。


 見れば、向こうからやって来た中級妃の一団と、珠麗のすぐ前を進んでいた下級妃の一団、その女官同士が、たまたま角で接触してしまったようだった。

 不運なことに、ぶつかられた女官が手にしていた中級妃の鏡が、割れてしまったようである。


(あ……)


 咄嗟に視線を向け、割れた鏡を持った女官の顔を見て取り、珠麗は思わず声を上げかけた。


 ――夏蓮かれん


 それは、かつて珠麗に仕えてくれていた女官であった。

 天華国ではあまり見かけられぬ浅黒い肌をしていて、鋭い目つきの瞳も、波打つ髪も、夜空のように真っ黒である。

 もとは一年の半分を砂漠の移動に費やす遊牧民であり、その顔立ちは美しいながらも、異質だ。


 ただ、短かったくせ毛もすっかり伸び、今はほかの女官たちと同様、美しく結われている。

 悲鳴を上げたわりに、憂鬱そうに沈んだ表情は気になったが、考えてみれば、彼女は元から、どこか表情に乏しく、人形めいた印象のある人物であった。


 珠麗はひとまず、夏蓮が罰を受けた様子もなく、五体満足で生きていることにほっと胸を撫でおろした。


「祥嬪様、申し訳ございません。突然純貴人様方がぶつかってきて、鏡を守れませんでした」

「まあ、夏蓮。あなたのとがではありませんわ」


 夏蓮が深く頭を垂れる先を目で追い、そこで改めて息を呑む。

 今さらながら、耳が拾った「祥嬪」の語を頭が理解し、珠麗はさっと青褪めた。


 嬪は中級妃を指す階位で、その上につく文字は、妃個人を指し示す称号。

 つまり、


楼蘭ろうらんは、嬪になっていたの……!?)


 鏡を割られた祥嬪とは、元・祥貴人、楼蘭のことであった。


 珠麗はほかの使用人たち同様、急いでその場に跪き、俯いた。

 そのうえで、目だけを動かして、かの人物を窺う。


 大勢の女官たちに引き連れ、品よく佇むその姿は、相変わらず天女のような美しさだった。

 階位が上がったぶん、衣装は華やかになっているが、庇護欲をくすぐるような、その儚げな雰囲気は健在だった。

 唯一の違いは、側に夏蓮がいることくらいか。


(……少なくとも、その約束は守ってくれたわけね)


 俯いて控える夏蓮を除き、ほかの女たちは眉を吊り上げて、「粗相した女官に処罰を」と騒ぎ立てる。

 彼女たちを宥めるように、楼蘭は淑やかな声で告げた。


「皆さま、落ち着いて。粗相した女官は、あくまで純貴人の管理下にあります。処罰は、純貴人にお任せしなくては」


 かつての珠麗であれば、その穏やかな言葉に、「もっともだわ、優しいのねえ」と頷いていたことだろう。


 だが、花街でばりばりの女の戦いを、それも下っ端として目の当たりにしてきた今ならばわかる。

 これは、下級妃の純貴人を追い詰めているのだと。

 つまり楼蘭は、あくまで自分の手を汚さずに、純貴人に責任を取るよう迫っているわけだ。


 実際、昔から教養高さと慈愛深さで知られた純貴人は、その意図を察して青褪めている。


 地面に額を擦りつける己の女官と、悠然と佇む楼蘭を交互に見つめ、彼女は戦うことを選んだようだった。

 震える声ながら、切り出す。


「わたくしの女官が行き届かず、申し訳ございません、祥嬪様。ただ、御身は、厳正なる『揺籃の儀』に向かわれる最中とお見受けいたします。初日の今日は、太監長の前で経典の理解が問われる日。経典の第一に示された高貴の精神に倣い、ご容赦いただけませんでしょうか」


(ほーん、そう来たか)


 すぐ後ろで聞き耳を立てていた珠麗は、物見高く頷いていた。


 この主張、表面上は「経典で書かれる道徳に従って、寛容に見逃してくださいよ」とも取れるが、「経典の第一に示された精神」という部分を深読みすれば、少し意味が変わる。


 経典の第一章で描かれる訓示とは「高潔たれ」、賄賂や甘言で地位を得ようとするな、というものだからだ。

 つまりこの発言は、

「なぜ厳粛な儀式に向かっているはずのあなたが鏡なんて高級品を持ち歩いているかと言えば、それは太監長への賄賂にするためですよね。経典には賄賂を贈るなって書いてあるのだから、それを弁えているのなら見逃しなさいよ」

 というほどの意味になる。


(さすがは、学者を輩出する家系で知られる純貴人。思い返せば四年前の時点でも、年嵩ながら、その教養高さで一定の地位を得ていたわね……)


 生真面目そうな純貴人の顔をちらりと窺いながら、珠麗はそんなことを思った。


 当時は彼女の話す言葉が迂遠すぎて、さっぱり理解できなかったが、今ようやく、その聡さがわかる。


 だが、敵もさる者、楼蘭は優雅な仕草で溜息を落とすと、悲しげに詩を呟いた。


「『我が心はもと月の如く、月もまた我が心の如し』。天に座す月も、わたくしの心も取り出せませぬゆえ、丸い鏡をお持ちしましたのに、趣向に水を差されて悲しゅうございます」

(うわ、これまたなんて高度な切り返し)


 両者の女官も、やり取りについていけずおろおろとしていたが、珠麗はとある事情から、この高度な舌戦の意図を違わず理解できた。


 楼蘭が呟いたのは、謙虚さで有名な哲学者が、隠遁いんとん生活の心境を表現した詩で、「私の心も、空に浮かぶ月も、なんの邪心もなく澄みきっている」というほどの意味だ。


 楼蘭は、その心境を儀式の場で太監長に伝えるべく、澄みきった心を澄みきった鏡に仮託するという「趣向」を用意したまで――つまり、これは賄賂などではない、と主張しているわけである。


 いや、それどころか彼女は、物憂げに純貴人を見つめ、首を傾げてみせた。


「澄んだ心を表すはずだった鏡は、割れて濁ってしまいました。これでは儀に臨めませんわ。懸命に用意した趣向を壊し、厳正な儀を妨害なさるなんて、あんまりでございます」

(うわっ、「鏡を壊した」じゃなくて、「儀を妨げた」責任に、すごく自然に話を大きくしたわよ、この子)


 楼蘭の意図を正確に理解して、珠麗は他人事ながら冷や汗を滲ませた。


 四年前は「なんで後宮の女たちって、いきなり詩を口ずさむのかしら?」ときょとんとしていたが、今、よくわかる。

 彼女たちは、美詩を武器に戦っていたのだ。そして、楼蘭はどうも、その手の戦いが大の得意のようだった。


「…………っ」


 純貴人が息を呑む。

 聡明な彼女は、楼蘭の脅迫を正確に理解したのだろう。


 揺籃の儀を引き合いに出して揺さぶったばかりに、揺籃の儀を武器に脅されてしまった。

 今の純貴人は、「中級妃の所持品を壊した下級妃」ではなく、「中級妃の足を引っ張り、厳正な受験を妨げた」悪人だ。

 罪としては後者のほうが重い。

 分の悪い戦いと言えるだろう。


「私物を不慮の事故で壊されたなら我慢いたしますが、厳正な儀を妨げられ、しかもいわれなき非難まで浴びせられるというのなら、わたくしも嬪として、見過ごせません」


 遺憾、といった表情で純貴人に向き合う楼蘭は、いかにも正義の側に立っているように見える。

 純貴人の厳しそうな顔立ちと、一方の楼蘭の儚げな風貌も合わさって、これでは、「言いがかりをつけてきた年増の下級妃と、それに敢然と立ち向かう美貌の中級妃」でしかない。


 それを悟ったか、純貴人は拳を握り、その場に震えながら跪きはじめた。


 彼女とて、これから下級妃として審査される身の上。

 楼蘭に悪評を吹き込まれては、たまったものではないのだろう。


 だが、ここで跪いては、罪を認めるも同然。凄まじい葛藤に、純貴人は襲われている――


(のは、いいんだけど)


 それはそれとして、珠麗はこう思わずにはいられなかった。


(進行、巻いてくれませんかねっ!?)


 なにしろ、こちらは半ば無理やり選抜を抜け出してきた身である。

 いつ武官が追いかけてくるやもしれず、そもそも、いつこの顔から正体を悟られるかもわからない。


 とにかく一刻も早くこの場を去りたいのに、妃嬪二人がその場に留まりタイマンを張っているせいで、平民でしかない珠麗は、一向に身動きが取れないのだった。


(楼蘭が案の定腹黒い女だっていうのはよくわかった! 純貴人も頑張った! 頑張ったから、後はもう二人で勝手にやって!)


 楼蘭に対し、思うところはある。

 だが、それは珠麗にとってもはや、わざわざ触れに行くものではなかったし、夏蓮の無事も確かめたし、目下、命が惜しかった。


「く……っ」

「ひどく震えて、どうなさったのです、純貴人。膝が痛むようなら、太監たちを呼びましょうか?」


 だというのに、純貴人はちっともさっさと跪いてくれないし、楼蘭もオラオラと煽るのをやめない。

 のみならず、楼蘭が言うように、騒ぎに気付いた巡回中の太監たちが少しずつ集まりはじめている気配を察知し、珠麗は青褪めた。


 太監なら、まだいい。

 だが、白豚妃の顔を知る、妙に聡い郭武官が万が一やって来たら。


「――あのっ」


 とにかく、早くこの騒動から解放されて、門に向かいたい。

 その一心で、珠麗は覚悟を決めて、切り出した。

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