4.戻るつもりじゃなかった(4)

「なぜあいつを一人にした」


 地を這うような低い声を聞きとり、跪かされていた男たちは一斉に震えあがった。


「も、申し訳ございません!」


 大の男たちがそろって床に額を擦りつける。

 引き換え、座椅子で悠然と膝を組むのは、まだ年若い青年で、その光景にはいかにも違和感があった。


 だが、飾りの少ない黒い衣をまとった青年は、その鋭い眼光と言い、傲岸不遜な表情と言い、まるで王者のような迫力を帯びており、そこに着目すれば、男たちが青褪めているのにも納得できる。


 磨いた黒曜石のような切れ長の瞳に、通った鼻筋、薄い唇。

 髪は首の後ろでひとまとめにして背に流し、今は不機嫌そうに頬杖をついているが、それさえも一幅の絵画になりそうな男前である。

 年は、二十を少し超えた頃だろうか。


 青年は、この貧民窟一帯を締める賊徒集団・玄獣会の頭領で、名を礼央りおうと言う。

 ただし、辺境の邑の賊徒頭に対して、ここまで男たちが怯えるのには、また少し異なる理由があった。


「まあ、まあ、礼央兄りおうにい、そんなに凄まないでよ。こいつらだって本業があるんだからさぁ、ずっこけ珠珠のことばっか監視なんてできないよ。だいたい、二十にもなって、あっさり攫われるほうもたいがいじゃない?」


 と、平伏したままの男たちを見かねてか、礼央のすぐ隣に控えていた人物が声を上げる。


 こちらは礼央よりもさらに年若く、少年と呼んで差し支えない様子だった。

 名を、宇航うこう

 ぱちりと大きな目と、柔らかな頬を持った、一見する限りでは、あどけない少年である。

 だが、その実かなり意地悪い性格をしているというのは、彼の兄貴分である礼央と、しょっちゅう彼に絡まれる珠麗が一番理解していることだろう。


 礼央が苛立たしげな視線を寄越すと、宇航は大袈裟に肩を竦めてみせた。


「珠珠は、にいのために贈り物を買いに行ったんだよ。そんな浮かれた、もとい、いじらしい女の買い物に、無粋にもついていって見守りたい男なんているもんか」

「俺に贈り物?」

「うん、だって、もうすぐ誕生日でしょ。珠珠、にやにやしながら『少額の贈り物と引き換えに、守料を大幅に引き下げる……これぞ肉を切らせて骨を断つ奇策。もう自分がアレすぎてほんとアレ』って呟いてたよ」

「自画自賛の才能すらないのか、あいつは……」


 礼央は途中まで不機嫌そうに聞き入っていたが、描写される珠麗の、あまりのあほらしさに毒気を抜かれたのか、はあと溜息を落とした。


「いい。二歳児並みの危機感しか持たないあいつの世話を、ほかに任せた俺の誤りだった」

「わかってくれて嬉しいよ。あほな子を持つと苦労するね、礼央媽媽りおうママ?」

「やめろ」


 礼央は顔を顰めると、男たちをさっと手の一振りで追い払った。


 その場には、礼央と宇航の二人だけが残る。

 この貧民窟のご多分に漏れず、泥壁を固めただけの、箱のような粗末なあばら家だったが、礼央が腰かける座椅子も、一つだけ据え置かれた卓も、隅にぞんざいに置かれた棚や壺といった調度品も、王宮のものかと疑うほど精緻な品で、壁には扁額まで掛けてあった。

 さりげなく灯された赤蝋燭や、昼から杯に注がれた酒もまた、品のよい香りを放つ高級品だ。


 どこか浮かない様子で酒杯を傾ける礼央に、宇航は首を傾げた。


「そんなに考え込まなくてもいいんじゃない? どうせほかのシマのやつらでしょ。不穏な動きがあるところには、すでに先兵を送ってるもの。すぐ帰ってくるよ」

「いや……」


 だが、礼央は緩く首を振る。

 聡明さを宿す黒瞳は、なにかの像が結んでいるとでもいうように、酒杯をじっと見つめていた。


「縄張り争いの体力があるようなやつらは、もうここにはいない。あいつの足取りが全く掴めないのもおかしい。これは邑外の人間の仕業だ」

「外? こんな辺鄙な邑に、わざわざ? なんだって――」


 宇航は途中で言葉を切ると、「ああそうか」と頷いた。


「じきに春節。新年を新しい人員で迎えられるように、この時期から、女官となりえる年頃の女を集めはじめるんだっけ」

「よりにもよって、今年は『揺籃の儀』の年だ」

「わあお」


 おどけるように相槌を打ってから、宇航は鼻に皺を寄せた。


「それ、最高にまずいよね。だって、アレでしょ? 珠珠って――」

「白豚妃」


 弟分が言いよどんだ二つ名をあっさり口にすると、礼央は椅子に背を預けた。


「かつて下級妃の流産を企み、後宮を追放された悪女だな。……あれが悪女とは、笑わせてくれるが」

「だよねえ」


 宇航もしみじみ頷く。


「去年だったっけ、酔っぱらった珠珠が、後宮の思い出語りを始めたときは、十年分は驚いたなあ。元白豚妃で、毒を盛ったと冤罪を着せられ、花街に流されたと。僕は、その花街からやってきた、なぜか顔を隠してるのろまな女としか思ってなかったから、とにかくびっくりしたものだよ」

「ああ、珠珠が来たとき、おまえは都に戻ってた・・・・もんな。あの顔はあまりに目立つから、俺が布を巻くよう言ったんだ」

「まあ、あの顔は、ねえ」


 勝手に棚から杯を取り出し、自分にも酒を注ぎ分けはじめた宇航が苦笑する。


「最初、寒さに慣れないとかで、しこたま着ぶくれして、歩く雪玉みたいだったじゃない。本人も『昔のあだ名は豚だった』とか言ってたから、てっきり相当肥えた不美人かと思ってたら、まさか強風で出てきたのが、あの天女のような顔!」

「おまえは急に、あいつを肉呼ばわりしなくなったよな」

「さすがにあんな美女に『ねえそこの塊肉』とは呼びつづけられないよ」


 少し遠い目になって答えた彼は、そこで悪戯っぽく付け足した。


「横恋慕したわけじゃないから、安心して」

「……べつに」


 礼央はぐいと杯を飲み干し、話を逸らした。


「とにかく、あいつが後宮に連れ去られたとして、正体がバレたらこと・・だ。冤罪が晴れていないなら、間違いなく首を刎ねられる」

「でも、当時は豚と言われるほど肥えて、不美人で通ってたんでしょ? 案外気付かれずに、しれっと落札して帰ってくるんじゃない?」

「おまえ、あいつがそんなに如才なく立ち回れるとでも?」


 礼央が目を細めると、宇航はそっと窓の外を見つめ、生温かい笑みを浮かべた。


「思わない」

「俺もだ。なんなら、本人が目立たずにいようと努力するほど目立ちまくって、後宮中の人間の視線を集める未来まで予想できている」


 聡明で知られる弟分は沈黙を守った。同感だからだろう。

 やがて、酒で唇を湿らせた宇航が、「不思議な子だよねえ」と、ぽつんと切り出す。


「すっごく騙されやすいし、愚図でのろまなのに、なぜか、目が惹きつけられる」

「自称、あれで相当擦れたらしいぞ。極度の人間不信だし、魂ごと煤けているそうだ」

「冗談!」


 宇航はぷっと噴き出した。


「人間不信で煤けた人間が、三年もの間、自分を嵌めた女を信じつづける?」

「思い出させるな。おまえは早々に逃げちまったが、あの後慰めるのが大変だったんだぞ」


 しかめっ面の礼央が思い出したのは、珠麗が酔いつぶれた一年前の酒席であった。

 その頃には、貧民窟での生活にもだいぶ馴染んでいた彼女は、夕餉をいつも礼央たちと共にし、その流れで、頻繁に晩酌を交わしていたのである。


 花街で学んだ技を使って、小器用に泥酔を避ける姿がなんとなく不服で、その日に限って、礼央は本気で彼女を酔わせてみた。

 すると、泣き上戸であったらしい彼女は、呂律も定まらぬ状態でばんばんと卓を叩き出し、「わらしね……わらしね、これでも、嬪らったのよ」と涙ぐみはじめたのだった。


 この玄岸州の貧民窟に集うのは、たいていが脛に傷持つ者ばかり。

 もともと他人に興味を持てない性質もあり――なぜなら、彼がその気になれば他人の過去を探るなど造作もないからだ――、賊徒集団の幹部の過去さえ、礼央は聞き出そうとしていなかった。

 当然、朱櫻楼の楼主から押し付けられた珠麗のことも、義理で引き取りはしたものの、来歴を改めようとも思わなかったのである。


 日頃の言動から、薄々やんごとなき姫君であったのだろうことは察していたので、内容には驚かなかったが、まさかこんなにあっさりと過去を語られるものとは思わず、礼央と宇航は、眉を上げて視線を交わしたものだった。


 しかも、「友人ともども罠に嵌められ、その友人の忠言に従い色仕掛けで命乞いしたが、残念なことに適性がなく大失敗した」と語るが、第三者からすれば、明らかにその友人とやらが怪しい。

 礼央と宇航が、ゆっくり噛み砕いて説明すると、彼女は目を真ん丸にし、やがてぱくぱくと口を開き、それから、わあっと卓に臥して泣き叫びはじめた。


「や、やっぱり、そういうことなのおお!?」


 どうやら、花街での厳しい二年間で、彼女自身もぼんやり疑念は抱きはじめていたようである。

 それにしたって、確信に至らないのが、信じられないほどのお人よしだ。


 女の涙が大の苦手な宇航は早々に席を立っていたのだが、今になっておずおずと尋ねてきた。


「で、その後どうなったんだっけ」

「俺が蓄えていた一升の米を猛然と炊きはじめて、過去と一緒に飲み下した」

「強い」


 宇航が虚無の顔つきになって頷く。

 礼央もまた、低く笑った。


「そう、あいつは強い」


 それはまるで、ご機嫌な猫が喉を鳴らすような仕草だった。


 生い立ちのせいで、常に強くあることを求められてきた彼は、他人にもまた、強さを求めた。

 弱々しくこちらに縋ってくる人間に対しては、つい苛立ちが先立つのだ。


 初めて珠麗がこの貧民窟にやって来たとき、真っ先に「誰に従えばいいのだろう」と不安げに周囲を見渡していた姿を見て、だから礼央は、彼女を「不要」の箱に割り振った。

 さすが朱櫻楼の秘蔵っ子だけあって、かなり美しい少女ではあったが、べつに礼央とて、女には不自由していない。

 そのうち勝手に野垂れ死ぬかなと放置していたのだが、すると彼女は、意外な根性を見せはじめたのである。


 とにかく、真似をする。

 いや、本人としては真似と思っていることをする。

 男たちが鶏を捌くのを見て、見よう見まねで鶏を締める。

 刀を与えられなければ壺を割って破片を手に入れ、それでなんとか挑戦する。

 当然のように、彼女の手は破片でぼろぼろになり、かつ、肝心の肉も一かけらしか残らなかったが、それでも彼女は顔を輝かせるのだ。


 翌日には一かけらだったのが、拳大くらいには取り出せるようになり、その翌日には、拳が二つ分になった。

 このあたりでとうとう、「貴重な鶏をこれ以上、あのお嬢に惨殺させないでくれ」と男たちから泣きが入り、礼央は溜息をついて、珠麗に短刀を授けた。

 万事が万事、そのようであった。


 珠麗はとにかく諦めない。

 馬鹿にされようが、実りが少なかろうが、何度も何度も繰り返して、少しずつものにしてゆく。

 そのうちに、周囲のほうが根負けし、いつしか彼女を認めはじめるのだ。

 「私、なにごともゆっくりしかできないから」と彼女はときどき悲しげに呟いていたが、刺繍や筆、舞や暗記など、彼女が秘める技術は大したものだ。

 そのすべてが、こつこつと努力を積み上げる分野のものばかりであった。


 気付けば礼央もまた、彼女の才能を認め、少しずつこちらの「稼業」を手伝わせはじめるとともに――彼女の立ち位置も、「要」の箱へと移動させていた。

 もっと率直に、気に入っている、と言っていい。

 そして、気に入っている相手だからこそ、今こうして、礼央は初めて葛藤などというものに遭遇している。


「……どうするの、兄?」


 再び黙り込んだ礼央の心を読んだように、宇航が尋ねた。


「珍しく、追いかけてみる? 視界から去った相手を。そうすると、あれだけ避けてた王都に向かわざるをえないけど。頭領も、いよいよ見逃してはくれないだろうね。賊徒頭なんて身分で遊んでいいのは、次に王都に戻ってくるまで、って話なんだもの」

「…………」


 両手を広げて肩を竦めた弟分を、礼央は無言で振り返った。

 しばし宇航のあどけない顔をじっと見つめ、首を傾げる。


「ご機嫌のようだな、宇航」

「そう? まあ、それはね。従者・・なら誰だって、こんな辺境で賊徒ちんぴらなんかをやっているよりは、王都で――偉大なる『烏』の跡取りとして、活躍する主人を見たいものじゃないか」


 烏。

 それが、礼央がもともと属していた組織の名前である。


 要人の警護から暗殺、ありとあらゆる後ろ暗い稼業に手を伸ばし、皇帝でさえその存在を求めるという、隠密集団。

 礼央は、その頭領の息子であった。


 幼少時から武技全般や毒の知識を身に付け、その才能は歴代頭領の中でも最高と言われる礼央。

 だが、一族の期待を一身に背負った彼は、ふんと鼻を鳴らして言い捨てる。


「禿げた皇帝おとこのお守りなんぞして、なにが楽しい」


 彼は、この数代はすっかり皇室の兵として飼い慣らされている烏の在り方が、肌に合わないのだった。

 国の中枢に近くづくことで巨万の富や権勢を誇れるのだとしても、それと引き換えに、ただ皇室の血を引いたというだけのつまらぬ男に膝をつかねばならないのだとしたら、まったく割りに合わない。

 絶対服従を誓うため、幹部は自身に暗示までかけて忠義を尽くす掟だが、それも礼央からすれば、愚かしいことこのうえなかった。


「えー。今代だってそこそこの名君だし、どうせ半年後には次代になるよ?」

「次期皇帝は病弱な小心者で、離宮に籠って詩ばかり読んでいるらしいぞ。なお悪い。郭氏とかいうその乳兄弟のほうが、後宮でよほど活躍しているともっぱらの評判だ」

「こんな辺鄙な邑に籠っておいて、よくそういうことを把握してるよね……」


 取り付く島もない返事に宇航は眉を下げたが、礼央が立ち上がったのを見て取り、笑みを浮かべた。


「でも、行くんだね?」

「ああ。宇航」


 頷いた礼央はなにげなく弟分に呼び掛ける。


「なに――」


 ぱしゃっ。

 そして、酒杯に残っていた酒を躊躇いなく、浴びせかけた。


「うわっ! ちょ、……けほっ」


 度数の強い酒に目を焼かれそうになった宇航は、噎せながら慌てて顔を拭う。

 なにをするんだ、と抗議すると、礼央は冷ややかに言い捨てた。


「なにが『こんな辺鄙な邑にわざわざ?』だ、白々しい。昨日に限って、小火ぼやの誤報が入って俺が駆けつけざるを得なかったのも妙だ。親父に言われて、おまえが仕組んだな」

「……それこそ濡れ衣だよ。女官狩りは、意図せぬ偶然さ。僕は、放置しただけ」


 どうせ、この兄貴分にはどんな嘘をついても見破られる。

 そう割り切ったらしい宇航は、あっさりと内実を暴露した。


 礼央はしばらく目を細めてそんな弟分を見つめていたが、やがて短く溜息を落とすと、踵を返した。

 どのみち、あのおっちょこちょいから目を離したのは、彼のとがだ。


「二度とするな。次は、おまえ自身の血を浴びさせる」

「はーい。すんませんでしたー」


 びしょ濡れになった宇航はむくれた様子で舌を出し、それから、唇についた酒をぺろりと舐め取った。

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