3.戻るつもりじゃなかった(3)
「四年ほど前、今の寵妃様の子を流した、『白豚妃』とあだ名される悪女がいたそうなのです。その方の名が『珠麗』だったとかで、後宮でその二字は禁忌になっているそうですわ」
その瞬間、轢き潰された蛙のような声をなんとかこらえた自分を、誰か褒めてほしいと珠麗は思った。
「そっ、うなのですか? へえ、恐ろしい場所ですね、後宮って」
微妙に噛んだ。
やはり小遣い稼ぎなど考えず、一刻も早く逃げるが勝ちだ。
「卯の刻となった。これより、『揺籃の儀』の初日、女官選抜を始める」
とそのとき、太監長・袁氏――彼もまた後宮に残っていたらしい――が入室してきて、傍付きの宦官が大きく
座椅子に掛けていた者も含め、少女たちは一斉に立ち上がり、深く礼を取る。
蓉蓉も「頑張りましょう」とだけ視線を寄越して、さっと持ち場へと戻っていた。
「この後宮で、
袁氏は、ふっくらと柔和な顔を笑ませ、緊張する一同に話しかけた。
「それでは、これより一人ずつ、簡単な問答を始める。名を呼ばれた者は、前へ」
傍付きが掲げた台の上にはずらりと木片が並び、袁氏は早速その一枚を選び取る。
審査を終えて、「残札」、つまり札が残れば合格、そして「落札」、つまり床に投げ捨てられれば不合格だ。
落札者は札と、少額の褒美を与えられ、後宮を去ることになっている。
(絶っ対、落札して、あの縁起でもない札を木っ端みじんに破棄してやる)
珠麗は再度拳を握り、決意を固めた。
できれば最後まで、首布は外したくない。
宮中の礼儀も弁えぬ、かなり頭の弱い田舎娘、という路線で行こう。
質問されてももじもじとして、返事を迫られたら、とんちんかんに応じる。
幸か不幸か、朱櫻楼が焼けたときに煙を吸ってからというもの、よほど喉の調子がよくない限り声が掠れるようになってしまったので、声から正体を悟られることはないだろう。
少女たちが卒なく問答に応じ、蓉蓉に至っては流麗に詩を詠ずるのを聞き流しながら、珠麗は順番を待った。
ここまでのところ、落札率は五割といったところだ。意外に高い。
この新規補充人員の選抜と同時に、別の場所では、元からいる女官たちの見直し選抜が行われているわけだから、あまりこちらから多く採るわけにもいかないのだろう。
順当に行けば、間違いなく落札になる。
少しだけ安堵した。
「では、珠珠」
いよいよ名を呼ばれ、珠麗は努めて肩を丸めたまま、おずおずと袁氏の前に進み出た。
途中、意味もなくつまずきそうになる挙措も挟み、愚図な感じを細やかに演出する。
「明鏡止水の意味と語源はなにか?」
「…………」
もじもじとする。
「聞こえているのか。明鏡止水だ」
「はあ……め、めいきょ……?」
「明鏡止水」
「めっきょ……」
ぽかんと首を傾げてみせれば、袁氏は呆れたように眉を寄せ、問いを変える。
「我が国の祖、偉大なる初代皇帝陛下は八十余の国を統一し、その威光を称えて、後になんと言われた?」
「…………」
「答えよ」
「『すごいね』と言われた?」
なるべく馬鹿っぽく答えると、横に控えていた郭武官が小さく噴き出した。
(ああ、ああ、そうよね。あなた、結構な笑い上戸だったものね)
内心ムカッとしたが、演技はかなり奏功し、袁氏があからさまにうんざり顔になった。
「寒村の出とはいえ、ここまでひどい者もそうはおるまい。だいたい首布も外さず、顔も汚れて見苦しいことこの上ない。落札せよ」
傍付きに命じて、木簡を捨てさせる。
落札の小山に己の名が加わるのを見て、珠麗は内心で快哉を叫んだ。
(よし!)
とはいえ、喜んでも不自然なので、表面上はあくまで落胆したように「そんなあ」と眉を下げる。
とぼとぼと肩を落として元の位置まで戻る――まではよかったが、そこで思いがけない事態に陥った。
「申し上げます無礼をお許しくださいませ、太監長様」
なんと、すでに圧倒的な評価で残札を決め、主席の座を確保していた蓉蓉が、おもむろに身を乗り出したのである。
「彼女に今一度、機会を賜れませんでしょうか?」
(な……っ! ちょ、こら!)
珠麗はぎょっとする。
だが蓉蓉はこちらの困惑など歯牙にもかけず、おっとりと、けれど滑らかに意見を述べた。
「彼女は、一族のしきたりで、婚姻前はみだりに顔を見せてはならぬと命じられているそうなのでございます。年頃であるのに装う喜びも捨て、厳粛に言いつけを守る姿勢は
「…………ぉっ」
(おおおおおおおおい!)
内心の叫びが口を衝きかけ、思わず変な声が出た。
だが蓉蓉は「わかっている」とばかり、鷹揚に微笑んで頷いてくる。
違う。そうじゃない。
(善意なんだろうけど、めちゃくちゃ巨大なお世話!)
ふむ、と顎を撫でた袁氏の意を汲んで、太監たちが早速首布を取ろうと手を伸ばしてくる。
珠麗はじりっと後ずさり、必死で布を守った。
「い……っ、いえあのっ、それには及びませんっ!」
「よい。後がつかえているのだ、進行を妨げるな」
「いえ! あの! 見苦しいので! すごく無様なので! 皆さまのお目汚しに……そう、見たら目がつぶれます! これはもう、歩く視界の暴力、怪異級の醜さ!」
「逆に気になるぞ」
三人がかりで押さえつけられては、さすがに手も足も出ない。
体を床に押さえつけられ、あっさり首布を奪われ、しかもそれで顔まで拭われてしまった。
(まずい……!)
どっと心臓が高鳴り、全身に冷や汗が滲む。
袁氏に郭武官、それに、押さえつけている三人組のうち一人も、見覚えがある。
つまり彼らもまた「白豚妃」を知っているのだ。
頤を持ち上げられ、無理矢理顔を上座へと向けられたその瞬間、
「…………!」
室内の人間が、一斉に息を呑むのがわかった。
(
ぐっと目を瞑ったが、袁氏が震える声で漏らした呟きに、耳を疑った。
「なんと美しい……」
(…………んっ?)
激しく予想外の言葉が聞こえて、怪訝さに眉を寄せる。
おずおずと瞼を持ち上げてみれば、小太りの太監長は座椅子から身を乗り出すようにして、また、郭武官ですら驚いた顔で、こちらを見つめていた。
いや、彼らだけではない。
太監たちも、ほかの武官も、いや、蓉蓉以下その場にいるすべての女たちも、ぽかんとこちらを見ている。
「なんて白い、艶やかな肌……」
もしやそれは、ずっと黒布に保護されていたこの肌のことを指しているのだろうか。
「首も長く、頬も引き締まり、なんとほっそりとした、優美な姿」
もしやそれは、重量のある肥桶を日々運びつづけ、さらには最低限の食事しか確保できずにすっかり細くなったこの体のことを言っているのだろうか。
「なによりもその、黒く濡れた、もの言いたげな瞳と、鮮やかな唇」
それはだって、目しか露わにしてこなかったから、意志疎通するために必然的に目力が鍛えられただけだ。
そして唇が赤いのは、
「まあ……珠珠さん。あなた、こんな美貌を、いったいどうして隠していたの?」
「は……?」
ひとまず、白豚妃であるとばれたわけではなさそうだ。
だが、それならなぜ、こうも驚かれているのかがわからず、顔を引き攣らせていると、郭武官がふと微笑み、上座から降りてくる。
「寒村の出だと言われていたね。もしかして自分の顔を、鏡で見たことがないのかな?」
彼はいかにも高給取りらしく、上等な丸鏡を差し出してみせた。
因縁の相手が接近してきたことに、大いにびくつきながらも、珠麗は恐る恐る、鏡を見る。
「…………!」
そして思わず、絶句した。
なぜなら、濁りのない鏡面に映り込んでいたのは、小さな目が肉に埋もれた、豚のような女ではなく――意志の強そうな濡れた黒瞳と、艶やかな赤い唇、そして真珠のように白い肌を持ち合わせた、
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