2.戻るつもりじゃなかった(2)

 壮麗な建築物、計算し尽くされた庭木、優美かつ堅固な、延々と続く壁。

 贅を尽くした、天子のための花園――後宮。


 その一画、巨大な扁額が掲げられた広間に集められた珠麗は、重い溜息を落とした。


 戻って来てしまった。


 広間には数十人の少女たちがひしめいている。

 用意された座椅子に腰掛けているのは、上等な衣服に身を包んだ、それなりの身分と見える少女たち。

 こちらは、貴族や商家の娘たちで、下級妃か、上級の女官候補者だろう。

 立ってはいるものの、簪や耳飾りなどでその身を装っているのは、中級女官候補。

 そして、珠麗と同じく、お仕着せの簡素な衣をまとい、田舎臭さ丸出しでそわそわと佇んでいるのは、下級女官候補ということだ。


(「揺籃ようらんの儀」、ね。まさか、そんな年にあたってしまうなんて)


 馬車に押し込められ、ここまで連れてこられた道中、人攫いの男たちから聞き出した情報を整理するには、こういうことだった。


 ここ天華国では、皇帝が代替わりする際、後宮の女たちはそのまま、次代の皇帝へと「下げ渡される」。

 さすがに、皇后、および前帝との間に子を成した妃嬪は、皇太后、太妃嬪として特別に宮を与えられるが、それ以外の女たちは、それまで「義理の息子」であった次代皇帝の寵を争うことになるのである。


 それはひとえに、百年ほど前の好色な皇帝が、父帝の妃を我が妻とすることを望んだためだ。

 学者の中には、人の道に反すると顔を顰める者もあったが、天子たる皇帝がそれを望んだ以上、逆らえるものではなかった。


 女たちもまた、尼寺に行かずに済んで胸を撫でおろしたし、彼女たちの実家もまた、苦労して後宮に押し込んだ娘たちの「活用期間」が長くなることについて不満はなかったので、妃嬪ひひんたちの残留はいつしか文化となって継承されている。


 だが、前世代の女たちが幅を利かせたのでは、後宮は肥大し、古びるばかり。

 そこで代替わりの際には、上級妃から下級女官まで、あらゆる女の配置を見直すための選抜――すなわち「揺籃ようらんの儀」が行われることとなった。


 三日以上にわたるこの選抜で目立った功績を残せば、下級女官でも上級妃となることができ、逆にあまりに冴えない様子の女性については、上級妃でも女官にまで落とされる。

 天地がひっくり返るほどに大いに秩序が揺さぶられ、それをもって新たな後宮を生み出すことから「揺籃ゆりかご」の名がついたわけである。


 さてそんなわけで、珠麗は不運にも今年、新たに補充される下級女官候補として、この場に送り込まれた。

 例年なら下級女官ぬひの選抜などあって無きに等しいため、都の近くで適当に攫ってきた捨て子などを当てるのだが、揺籃の儀が行われる年に限っては、下級女官候補相手にさえ、厳正な選抜が行われる。妃嬪になる可能性があるからだ。

 人攫いたちも、多少は見栄えがするほうがいいと考え、わざわざ北方の寒村まで足を伸ばしたのだろう。

 貧民窟の位置する玄岸州は、年中気候が厳しいためか、色白で大人しい女が多いと評判だ。


(とにかく、目立たず、大人しくして、こっそり逃げ出さなきゃ)


 緊張した面持ちで佇む少女たちに擬態しながら、珠麗は密かに拳を握る。


 結局道中は監視が厳しく、逃げ出すことは叶わなかった。

 となれば、残る機会は、この選抜である。厳正な選抜が行われる、つまり、じっくり顔を見られるというのは恐怖でしかないが、逆に言えば、ここで落選さえしてしまえば、後は自由の身と言うことだ。

 ほかの少女たちは、選抜で落ちてしまえば、地縁もない都に放り出されると聞き、なんとか勝ち残ろうと考え始めているようだが、珠麗はその逆。

 下級女官にも使えないとして城外に追い出してもらえれば、後は自力で玄岸州まで帰ってみせる。

 すっかり守料の支払いも延滞しているから、道中で小遣い稼ぎしてもいいかもしれない。


 そのためにはとにかく、選抜で冴えない女ぶりを徹底するのだ。


(正直、今の私の顔がどんなことになっているか、わからないけど)


 深く俯き、珠麗は考え込む。

 寒さ厳しい時節ゆえ、幸運にも顔に巻き付ける黒布は奪われることなく、首布として携帯を許されている。

 ひとまず顔を泥で汚し、その上で鼻くらいまで首布に埋まるよう俯いているが、いつ「白豚妃」の面影を見出されてしまうかと思うと、気が気ではない。


 見れば、広間の上段、審査を行う太監長が座るのだろう椅子の横には、かつて珠麗を豚と言い放った郭武官が控えていた。


(くっ、あんた、まだ後宮にいたのね……!)


 帯の色を見るに、後宮に居残っていたどころか、数段昇進さえしているようである。

 もとどりを結った髪は豊かで、鼻筋はすっと通り、相変わらず甘やかながらも男らしい、美しい顔をしている。

 いつも薄い笑みを浮かべているように見える顔からは、呼気と同時に色香が放たれるようでもあったが、もはやそれに見惚れる珠麗ではない。

 それどころか、最低最悪の巡り合わせに、思わず呻きそうになった。


「あのう、大丈夫ですか? 先ほどから、お加減が悪そうですが……」


 と、小刻みに震えている珠麗を見かねたか、横からそっと話しかけてくる者がある。

 振り返ってみれば、声の持ち主は、珠麗より二つ三つ年下と見える、小柄な少女だった。


 身なりから察するに、座椅子には一歩及ばない、中級女官候補といったところだろう。


(地味な顔に見えるけれど……ううん、こいつは相当な上玉ね。磨けば上級妓女になれるわ)


 珠麗は花街で培った審美眼で、咄嗟に判じてしまってから、そんな自分を戒めた。

 こんなことをしている場合ではない。


 珠麗の懊悩をよそに、少女は、垂れ目が目立つ優しげな顔を、心配そうに曇らせていた。


「わたくしは、蓉蓉ようようと申します。あのう、太監長様がいらっしゃるまでは、まだもう少し時間があります。失礼なようですが、更衣室へ戻り、もう少し身なりを整えてきてはいかがですか? せっかく後宮へ召し上げられる機会ですのに、これでは心証を悪くしてしまいますわ」


 どうやら、珠麗の貧相な出で立ちを案じてくれたらしい。

 蓉蓉は、形のよい眉を寄せて、小さな声で嘆きを口にした。


「もしや、ほかの候補の方から、いじめでも? 下級女官候補の間ですら、足の引っ張り合いがあるなんて……」


 さらに言えば、彼女は正義感の強い人物であるらしい。

 ほかの寒村組から離れて、一人だけ貧相な様子で俯いている様子から、いじめられていると解釈したようだったが、変に注目されてはかなわないと、珠麗は慌てて声を上げた。


「いいえ、そんなことは。ただ、その」


 下級女官候補者すら、他者を蹴落としてでも後宮に残ろうとするのが「普通」だというのに、あえて顔を泥で汚す真っ当な理由とは、なんだろうか。


「その、しゅ、宗教上の理由で? 婚姻前の女子は、みだりに顔を晒してはならないと、死んだ祖母から言いのこされたのです」


 言い訳がすでに、教義と遺言でふらついている。


「まあ。厳格ですのね。けれど、後宮に踏み入った以上は、異教は改めねばなりませんのよ。これを機に、身ぎれいにしてはいかがです? 特に今日は、容色と教養の一次審査。教養は一朝一夕で身につかないにしても、身ぎれいであれば、賜る階位も上がるかもしれないのですから。さあ、その汚れた首布も取って、きちんと顔を上げて」


 優しく微笑んで、そっと黒布を取り去ろうとする蓉蓉を、珠麗は焦って制止した。


「い、いいえ! あの、私、階位とかそういうのに、まったく! 興味がないので」


 心から告げると、蓉蓉は意外そうに目を瞬かせた。


「まあ、女性としての栄華に憧れがないのですか? この場にいる誰もが、華美な後宮の景色や、麗しい武官に釘付けになっていますのに」


 ほら、と指し示された先を辿り、珠麗はたしかにと思った。


 広間に集められた少女たちは、豪華絢爛な調度品や、壮大さを誇る建築様式に、圧倒されながら見入っている。

 座椅子に掛ける少女たちは、さすがに寒村組よりは贅沢品に耐性があるようだが、代わりに、上座に佇む色男のことをうっとりと見つめていた。


 男子禁制の後宮とはいえ、侍医や精鋭の武官など、ごく少数だが男はいる。

 そして、彼らと結ばれるのは、妃嬪でもない少女たちに許された最高級の栄華。

 そこに憧れはないのかと、蓉蓉は問うているわけだ。


「憧れませんね。これっぽっちも」


 だが珠麗は、きっぱりと断じる。


「華美だからなんだと言うんです? ここは、ただの檻ですよ」

「まあ。けれど美しい檻ですわ。金銀に溢れ、目に美しい女性や殿方が行き交いましてよ」

「もしや蓉蓉様、あちらにおわす武官様のような方がお好みですか?」


 うっかり声に侮蔑が滲みそうになったので、珠麗は内心で数を数え、郭武官に対し、努めて冷静かつ客観的な見解を述べようとした。


「死んだ祖母が言っていましたが、ああした殿方は絶対、腹に一物抱えていますよ。顔は麗しくても、裏では女相手に『雌豚めすぶた』だとか言い放っているに違いありません。なんなら、女をふがふが鳴かせるのが趣味の変態かも。いや、間違いなくそうですね」


 そして大失敗した。


「変態」


 蓉蓉は愕然とするものかと思ったが、意外にも、愉快そうに瞳をきらめかせている。


「そう、変態……ふふ」

「蓉蓉様?」

「いいえ、なんでも」


 蓉蓉は、一層楽しげに笑うと、こちらに一歩詰め寄ってくる。


「あなたのお名前は、なんと言うのですか?」

珠珠じゅじゅです」


 選抜に使われる名札を用意される時にも、太監から同様の質問をされ、珠麗は花街時代から使っている偽名を答えた。

 あまりに捻りがないが、「珠麗」そのものよりは、いくらかごまかしになっているはずだ。


 だが、蓉蓉は「まあ」と困惑したように眉を下げた。


「それは、あまりよくありませんね。この選抜を進めば、簡易の木片ではなく、正規の花札に名を書き直されるはずですから、そのとき改名したほうがよいかもしれませんわ」

「なぜです?」


 素直に驚いて尋ねると、蓉蓉はちらりと周囲を見渡し、こっそりと耳元に囁いた。


「四年ほど前、今の寵妃様の子を流した、『白豚妃』とあだ名される悪女がいたそうなのです。その方の名が『珠麗』だったとかで、後宮でその二字は禁忌になっているそうですわ」


 その瞬間、き潰された蛙のような声をなんとかこらえた自分を、誰か褒めてほしいと珠麗は思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る