1.戻るつもりじゃなかった(1)

 四年前までの自分を思うとき、珠麗は、あの頃の自分の頭には、雲か霞か、そうでなければ蜂蜜でも詰まっていたのではないかと心底思う。


 人は生まれながらにみな善良で、優しさは優しさで報われ、天は正しく、弱き者を助ける――そんな、ふわふわとした、甘ったれた妄想を信じていた。

 まったくどうかしていた。


 だがまず、太監たちの手で衣を剥かれ、焼きごてを向けられたときに、そんな馬鹿げた空想はじゅっと音を立てて蒸発した。


 きっと手を差し伸べてくれると信じていたのに、珠麗がしおらしく罪を認め、不慣れに命乞いをした途端、冷ややかな目を向けてきた郭武官。

 額に押されるはずだった焼き印を、顔よりは目立ちにくい胸元に変えてくれたのは感謝すべきかもしれないが、そのときに言い放たれた、


「額に焼き印なんて、これ以上無様な顔にしてどうするんだい。祭祀さいしの際、豚の焼き印は前肢の付け根に押すもの。ならこの白豚も、それに倣うべきじゃないかな」


 という侮辱は、一生忘れられるものではない。

 最近になってさえ、こんがり焼かれる豚の夢を見てうなされるほどだ。


 だがまあそれも、その後始まった花街での暮らしに比べれば、序の口でしかなかったのかもしれない。

 焼き印を入れられたことによる高熱にぐったりしながら、実家にも当然見放され、身ひとつでたどり着いたのは、都にもその名を轟かせる妓楼ぎろう朱櫻楼しゅおうろう

 楼主はかつて後宮の宦官を務めていたとかで、その縁もあって身柄の引き受けが決まったわけである。


 宦官にありがちな、高い声で話す、ふくふくと肥えた好々爺を想像していた珠麗だったが、実際に彼女を出迎えたのは、彼自身が妓女であろうかと疑いたくなるような、派手な「美女」だった。


「ふん、みっともない豚ねェ。こんなん、客の前に出せるはずもないわ」


 煙管きせるをかんと鳴らし、顔をしかめた彼女・・が告げたその晩には、珠麗は物置小屋へと押し込まれ、肥桶ひおけ洗いの仕事を命じられた。

 肥桶。つまり、排泄物の処理である。


 おそらく、普通の良家の女であったなら、いや、珠麗もまた、焼き印がない状態でこの境遇に晒されたなら、ここで絶望して命を絶っていただろう。

 だが彼女は、あの恐ろしい痛みをすでに経験してしまった。

 死ぬというのは、怪我よりも重篤なのだろうから、痛みもまたさらに凄まじいのかもしれない。

 そう思うと死ぬのが恐ろしかったし、せっかくここまで耐えたのに、排泄物に負けて死ぬのかと思うと、少々馬鹿らしくもあった。

 せめてもう少し、高尚な敵に打ちのめされたい。


 意外な根性を見せた珠麗は、元々凝り性だった気質も手伝い、肥桶洗いの仕事を完璧にこなした。

 自分の働きがなにか世の中に貢献していると信じたくて、肥を生かした肥料づくりの方法も研究したし、なんなら肥桶の様子から、妓女ねえさんたちの体調まで把握し、やがて管理までするようになった。


 冷酷と評判だった妓女さんの便秘の原因を探し当て、信頼を勝ち取ったあの冬。

 妓楼に嫌がらせをしてきた暴漢を誘導し、肥桶に突っ込んだあの春。

 一斉に起きた下痢の原因を突き止め、伝染病発生源のそしりを免れたあの夏。

 気付けば、一年もせぬうちに、珠麗は朱櫻楼でそれなりの地位を占めるようになっていた。

 ただし、伝説の肥桶番として。


 幸いなことに、楼主には、働き者の珠麗は好ましく映ったらしい。

 引き取られた当初よりも態度はかなり軟化し、やがて、「あんたも女なんだから、ちっとはその悪臭をどうにかなさいよ」と香り袋をくれたり、気まぐれに芸事を授けてくれたりするようになった。


 習ったのは、主に書と舞、歌、そして化粧だ。

 鏡は高級品で、下働きが覗くのは妓女に対する重大な不敬とみなされていたため、自身が鏡を見ることはなかったものの、おかげで、人の顔を美しく飾り立てることにかけてはずいぶん上手になった。

 もともと、絵画や刺繍など、手先の器用さが求められる作業は好きだったので、それがよかったのかもしれない。


 だが、なんといっても一番大きな収穫は、女社会の厳しさ、そして情の深さを学んだことだろう。


 朱櫻楼では、上級妓女がそれぞれ派閥を作り、下働きまで含めて丸ごと生活の面倒を見ていた。

 妓女さんの言うことは絶対。

 逆らうなどもってのほか、その名声を傷つける真似は、たとえ親の命を盾に取られても――これは妓楼流の諧謔ジョークだ。大抵は捨て子なのだから――してはならない。

 誇りのためなら命さえ投げ出す女たちの頑なさと潔さを、珠麗はそこで目の当たりにした。


 そうして徐々に、理解したのだ。

 後宮でぼんやりと聞き流していた会話に、どれだけ深い意味や、敵意が込められていたかを。

 そして、自分がどれだけそれらに無頓着で、また、無神経でいたかということを。


 もしかして自分は、想像していた以上に、誰かを苛立たせていたかもしれない。

 善意に見えた行動には裏の意図があって、偶然は必然で、自分は、騙されていたのかもしれない。

 そんなことを、じわりと感じ取りはじめた。


 だが、良くも悪くも、妓楼での生活は困難の連続で、一日一日を生き延びるのが精いっぱいだった。

 滲みはじめた疑念も怒りも、日常の慌ただしさに押し流されて、珠麗はいつしかこう割り切った。

 もういい、過去のことだ、と。


 二年もする頃には、珠麗は朱櫻楼での生活にやりがいと、居心地の良さまで感じるようになっていた。

 楼主には、焼き印つきの女など店に出せないと相変わらず断じられ、妓女として身を立てることは一生ないと見えたが、代わりに下働きの内容は、会計にまで及ぼうとしていた。

 紆余曲折あったが、こんな人生もありなのではと、そう思いはじめていたのだ。


 朱櫻楼が、客の失火で焼け落ちたのは、その直後のことだった。


「悪いけど、あたしはまず、なんとしても、このたちの面倒を見なきゃなんないの。憎んでくれていいわ」


 それが、楼主と別れを交わしたときの言葉だった。


 憎みはしなかった。

 ただ、火鉢に煙管を打ち付ける、あのいつもの仕草が、その日に限ってなかったことだけ、なぜかいつまでも覚えていた。


 楼主の伝手を辿り、徒歩で半月もかけて行きついたのは、都から大きく外れた北のむらだった。

 いや、貧民窟と称したほうが正確だろうか。

 大地は痩せ、寒さは厳しく、民の多くは銭を求めて危険な仕事に手を染め、子どもたちは身を寄せ合って、暴力と搾取から少しでも逃げようとした。


 なぜそんな場所を紹介されたかと言えば、その土地は、優れた傭兵を輩出することで知られており、朱櫻楼の用心棒もまた、そこの出身が多かったからだ。

 それでいくらか信頼できるというのと、罪人の印を持つ珠麗にはほかの選択肢がなかったために、選ばれた。


 楼主は世話役も目星をつけてくれていて、それが、賊徒ちんぴらの頭として、その一帯の少年たちを締める、礼央りおうという青年だった。

 ただし彼は、顔こそ男らしく整っているというのに、面倒見の悪さときたら、これまで出会った人間の中で最低と言えた。


 着るもの、放置。

 食べるもの、放置。

 住む場所、放置。


 なにを尋ねても、「知らん」の一言で返され、珠麗はやがて理解する。

 ここではすべて、一人でやっていかなくてはならないのだと。


 最初は後宮、次は花街と、これまで籠の中の生活しか知らなかった珠麗だったが、幸いにも彼女は、劣悪な環境と向き合う根性を磨きあげていた。

 見よう見まねで、衣を得るべく動物の皮を剥ごうとして、辺り一帯を血の惨劇に染め上げたり、得体のしれない食材をとりあえず煮てみて鍋を爆発させたり、木材を得ようと斧を振るって、うっかり敵の賊徒頭を撲殺しかけたりしたが、なぜだかそうこうしているうちに、礼央が労りの言葉をかけてくれるようになったのだ。


「もういいから……頼むからおまえは、なにもしないでくれ」


 まるで頭痛をこらえるかのように、こめかみを押さえるのが、礼央の癖のようである。


 そして彼は、一度懐に入れた相手に対しては大層面倒見がよくなる性格らしく、当初の放置ぶりはどこへ、というほどに、甲斐甲斐しく珠麗の世話をしてくれるようになった。


 寒さに震えていれば、全身を覆う外衣をどこからか入手してきてくれたし、一応は女である珠麗のことを案じて、貧民窟全域に「この女には手出し無用」との触れを出してくれた。

 もっともそのおかげで、珠麗は行く先々で、筋骨隆々たる男たちに「お勤めご苦労さんでエす!」とドスの効いた挨拶を寄越され、困惑したものであったが。


 ちなみに、外を歩く際には、寒さが厳しいのと、「そんなツラ、安易に晒してんじゃねえよ」と礼央に始終顔を顰められていたのとで、異教徒のように黒布を巻き付け、目しか露わにしていなかった。

 まったく、顔のいい男というのは、心を抉る発言しかしない。


 ただ、一度強風のせいで布が外れてしまったとき、ずっと珠麗に対して険悪だった礼央の弟分が突然優しくなったので、もしかしたら自分の顔は困難な月日を経たせいで、老女のように哀れを誘う風態になっているのかもしれないとは思っていた。

 結局四年もの間、珠麗は一度も鏡を目にしていなかった。


 花街にせよ、貧民窟にせよ、よそ者には辛辣で過酷な環境だが、慣れてしまえば存外過ごしやすいものだ。

 しどけなく肌を晒す妓女を、あるいは乱闘で泡を吹いて倒れる男たちを見るたびに、かつての珠麗はぎょっとしたものだったが、いつしかそれにも慣れ、背景として処理できるまでになった。

 悪臭を受け流し、血臭にも馴染み、後宮時代には考えられなかった後ろ暗い稼業にも、そこそこ手を染めている今日この頃である。


 なにせ、いくら礼央と懇意とはいえ、貧民窟で過ごすには必ず、賊徒の頭領に守料しゅりょうを納めなくてはならない。

 むしろ彼は身内にこそ厳しく、珠麗は他の数倍ほどの守料を支払っている確信があった。

 理不尽さに腹が立つが、これが払えなくなると、貧民窟で勝ち取った、自分だけのささやかな部屋が取り上げられてしまうので、そこは歯を食いしばり我慢する。


 それでも、いつの間にか気のおけない仲間にも恵まれ、仕事は反社会的とはいえやりがいがあり、珠麗はそれなりに幸せだったのだ。


 ちょうど礼央の誕生日が近いと聞いたので、たまにはなにか贈ってみるか、そしてあわよくば守料の減額をねだろうなどと、こっそり、むらの外れにある市に向かうほどには。


 だが、彼女はすっかり忘れていた。

 後宮でも、花街でも。目まぐるしく変わる環境に順応し、ようやく肩の力を抜いたその時にこそ――暗転は訪れるのだということを。


「嬢ちゃん、きれいな目をしてるじゃねえか。ちょいと覗きにおいでよ、こっちに、一等きれいな鏡があるよ」


 市には、珍しく邑外の物売りが敷物を広げていた。いつもはほぼ見知った顔、見知った商品ばかりだったので、都の香りがする品揃えに心惹かれた。


 だいたい礼央は、盗品の売買にまで手を染めているからなのか、貧民窟の一青年というには、やけに審美眼があるのだ。

 生半可な贈り物ではかえって不興を買う恐れもあるぞと思い至り、珠麗は物売りを振り返った。

 男が鏡を好むとも思えないが、簪や耳飾りよりは、実用性があるかもしれない。


 だが見る限り、物売りが指し示す中には、宝飾品の類はあれど、鏡はなかった。


「鏡はどこなの?」

「こっちさ」


 男は愛想よく笑って、大甕おおがめに被せてあった布を取り払う。

 すると飲み水らしい、そこそこきれいな水面が、ぼんやりと珠麗の姿を映し出したので、彼女は呆れのため息を漏らした。


「なによ、水鏡ってこと? 悪いけど、そんなとんち・・・を求めてるわけじゃ――」


 がぼっ。


 だが、言葉を紡ぎきるよりも早く、頭を掴まれ、甕の中へと押し込まれる。

 珠麗は驚き、激しく暴れたが、その拍子に水を飲んでしまい、息苦しさに胸を詰まらせた。


 溺死させるつもりはないのか、男は珠麗をそこで引き上げ、咽せてなにもできないでいるところを素早く縛り上げる。

 咳込みすぎてぐったりした彼女を担ぎ上げると、市からほど近い、廃墟となったあばら家へと押し込んだ。

 そこには、同様にして攫われたのだろう、複数の少女たちが転がっていた。


「よし、これで俺の人数は達成だな」


 ぱんぱん、と手を払いながら、男は満足げに頷く。

 隙を見て脱走しようと息を殺していた珠麗に気付いたのか、強く腹を蹴り上げてきた。


「ぐっ」

「あんまり暴れないほうが身のためだぜ。嬢ちゃんも苦しいし、俺たちとしても、商品に疵をつけたくはねえ」


 蹴られたところが悪かったのか、全身に脂汗が滲み、猫なで声で告げる男の顔が滲みはじめる。


「あんた……どこの、シマの……」

「ああ? シマ? はは、違う違う、べつに俺たちは、こんな辺鄙な場所で陣地争いなんてしねえよ。嬢ちゃんたちはこれから、王都の後宮に売られていくんだ。皇帝陛下の代替わりに伴って、女官を大量に補充しなくちゃならねえからな」


 後宮。女官。

 ――女官狩り。


 ここ数年耳にしていなかった言葉を聞き、全身の血が引くのを感じる。


(冗談じゃ、ない……)


 追放とは即ち、「二度とこの地を踏まぬ代わりに、命は見逃す」ということだ。

 万が一後宮で姿が見つかれば、いよいよ斬首は免れない。


(絶対いや!)


 しかし無情にも、力の抜けた体は、意志とは裏腹に床に倒れてしまった。


「そう嘆くなよ。今年は数十年ぶりの『揺籃ようらんの儀』。運がよけりゃ、上級女官、いや、下級妃にだってなれるかもしれねえんだ。ま、寒村の娘じゃ、大抵は奴婢ぬひ止まりだろうがよ」


 下卑た笑い声を遠くに聞きながら、珠麗は意識を失った。

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