後宮も二度目なら 〜白豚妃再来伝〜

中村 颯希

0.プロローグ

 身を切るほど冷たい空気が、重苦しく朝を満たす。


 大陸を統べる天華国の後宮、その地下に位置する牢では、上等な、けれど今ではすっかり薄汚れた衣をまとった女が、鉄格子から忍び込む冷気にがたがたと身を震わせていた。


「嘘だわ……これはすべて嘘。悪い夢よ……」


 年の頃は、十五を過ぎたあたりか。

 豊かな髪、珠のように白い肌は、なるほど後宮で中級位に相当する妃――「ひん」の階位を与えられるにふさわしい美しさだが、いかんせん太りすぎている。

 白くふくふくとした姿は、肉に埋もれたつぶらな瞳とあいまって、まるで子豚のような印象を見る者に与えた。


 名を、珠麗じゅれい

 妃としての称号は、恵嬪けいひん

 「真珠のように麗しい女子に」と親が願いを込めた名であったが、この後宮では「白豚妃しろぶたひ」のほうが通りがよい。

 愚鈍さを感じさせるほどの善良さと、肥えた体肢を持ち合わせた彼女は、ほかの妃たちから大いに馬鹿にされ、またそれゆえに、可愛がられていた。


 紅で彩った笑みの下で、苛烈な争いを演じる一こう・四・九ひん、そしてあまたの下級妃きじんたち。

 悪意と敵意が飛び交う後宮の中で、どの派閥にも属さず、皇帝から笑みを向けられても嫉妬されないのは、珠麗くらいのものだ。

 博識で家族思い、天女のような美貌を誇る、祥貴人しょうきじん楼蘭ろうらんでさえ、いずれかの派閥には憎まれているのだから。


 だがそれもすべて、二日前までのこと。

 今の珠麗には、重大な嫌疑が掛けられていた。

 懐妊の兆しのあった祥貴人・楼蘭に毒を盛り、腹の子を流させたという罪についてである。


「天は……天はけっして、誤りをそのままにはしないはずよ。私は毒を盛ったのではなく、楼蘭様を助けようとしたのだから……」


 かじかんだ両手に息を吹きかけながら、珠麗は必死に己を宥める。


 二日前に楼蘭の宮を訪れたのは、楼蘭がつわりに苦しんでいるとの噂を聞き、その身を案じたからだった。

 父であるほう氏は、容姿の冴えない珠麗のことを、「悪意渦巻く後宮で、女官や奴婢ぬひに落とされても、この娘ならためらいなく見捨てられる」との理由で後宮に押し込んでいたが、彼女が愛玩動物としてではあれ、一定の地位を得ていると知るや、ほかの妃たちに賄賂を贈れるよう、盛んに仕送りを寄越していた。


 妃嬪ひひん間の金品のやり取りは禁じられているため、仕送りは主に高級な食品になりがちで、残念ながらそのほとんどを、珠麗自身が食べてしまっているのだったが、そんなわけで、珠麗の宮には、つわりを楽にする柑橘も、滋養によいという人参も、豊富にあったのである。


 珠麗は柑橘を搾った水に蜂蜜と塩を加え、さらには人参で薬湯までこしらえて、楼蘭を見舞った。


 楼蘭は、階位としては「嬪」より一段劣る「貴人きじん」、つまり下級妃である。

 しかし、そのかんばせは花のように美しく、心根は天女のごとく清らかと評判で、同性の珠麗でさえ、彼女から笑みを向けられるだけで、たちまち心が解れてしまうのを感じるほどだ。

 楼蘭もまた、「弟しかいなかったので、姉妹ができたようで嬉しいです」と、珠麗を大層慕ってくれた。


 残念ながら、そんな楼蘭は、皇后率いる最大派閥には警戒されており、しかも子を宿したともなれば、周囲からの援助を期待することは難しい。

 心配になった珠麗は、せめて自分一人でも応援していることを伝えたいと考え、こっそりと楼蘭の宮を訪れたのだった。


 ところが、である。


 滋養に優れた果実水や、人参の薬湯を口に含むや、楼蘭は激しく苦しみだした。

 真っ青になり、血を吐き、その場に崩れ落ちたのである。


 珠麗はうろたえ、慌てて楼蘭を介抱した。

 大声で助けを呼び、身を横たえ、なんとか毒を吐き出させようと水を飲ませる。

 これだけ声を枯らして助力を求めているのに、誰も駆けつけてはくれぬことが、信じられなかった。


 ようやく急いた足音が聞こえ、ああ、これでやっと助かると安心して振り返ったその瞬間。


「きゃあああ! 誰か! 太監たいかん様! お助けを! 白豚妃が、楼蘭様に毒を!」


 女官に叫ばれ、珠麗は最初、ぽかんとした。

 ついで、自分が楼蘭を押さえつけている状況に気付き、跳ねるようにして手を離した。


「ち、違うわ!」


 だが、女官はすでに、はっきりとした敵意を浮かべ、こちらを睨み付けている。

 楼蘭はぐったりとしてしまい、とても状況を説明できる様子ではなかった。


「違うわ、誤解よ! 私は、楼蘭様を見舞っただけよ! そんなことより、彼女を早く助けてあげて!」

「言い逃れるおつもりですか! 嬪の地位にあるお方が、まさかそんなことをなさるなんて……」

「違うったら!」


 説明をしなくては。

 きちんと、説明を。


 そう思うのに、危機に慣れていない頭は真っ白になり、まるで言葉が出てこない。

 冷や汗をかいている内に、世話役の宦官である太監たち、さらには、後宮の外壁を守る武官までもが、騒ぎに気付いて続々と宮に踏み込んできてしまった。


「恵嬪・珠麗。そなたを、子流しの罪で捕縛する!」


 そうして、珠麗はあっさりと、光の射さぬ牢へと放り込まれてしまったのである。


「悪い夢だわ……」


 捕らえられた最初の日、珠麗はまだ、取り調べが行われ、真実が明らかになることを信じていた。

 ところが、拷問が行われないのはよいとしても、質問のための武官一人さえ、やって来ない。

 珠麗は衣をきつく腕に巻き付け、寒さに震えながら眠れぬ夜を過ごした。


 翌日、耐えがたい空腹に悩まされながら、じっと牢で身を縮めるうちに、様々な疑念が彼女を襲った。

 なぜ、誰も来ないのだろう。

 なぜ取り調べないのだろう。

 自分が無実だからかと思っていたが、もしや逆なのではないか。

 子流しの罪人であることが「明白」であるからこそ、あえて誰も取り調べをしないのではないか。


 そうでなければ、父親がきっと釈放を訴えるか、せめて牢に差入れくらいするはずだ。

 いや、あの薄情な父親には期待できなくとも、珠麗のことを慕ってくれている女官の夏蓮かれんが、この状況を放置するはずがない。


「誰か、助けて……」


 鼻を啜った珠麗の脳裏に、様々な人物がよぎっては消えてゆく。


 忠義を尽くしてくれている夏蓮、交流のある妃嬪たち、厳格な皇后。

 夫というよりは祖父のような皇帝、腰の低い太監たち、あるいは、甘い顔立ちと優れた剣技で後宮中の女の憧憬を集める、有能と評判なかく武官ならば、手を差し伸べてくれるだろうか。


「珠麗様……!」


 とそのとき、弱々しいながら美しい声が耳朶を打ち、珠麗ははっと顔を上げた。


 突然差し向けられた燭台の火が眩しい。

 だが、そんなことにも構わず、鉄格子を掴んで身を乗り出した。


「楼蘭様! なぜここに……体は大丈夫なの!?」


 女官も伴わず、面会にやって来たのは、なんと毒で倒れた楼蘭その人だったのである。

 彼女は恐々とした足取りで牢の前までやって来ると、燭台を置き、鉄格子越しにそっと珠麗の手を握りしめた。


「激しい腹痛と高熱で起き上がれなかったために、こうして伺うのが遅くなってしまいました。申し訳ございません」

「激しい腹痛……。では、その、お腹の子は……」


 ごくりと喉を鳴らしながら言葉を待つと、楼蘭はふいに目を潤ませ、無言で首を振った。


「そんな!」


 思わず、叫ぶ。

 はらりと、真珠のような涙をこぼす楼蘭を前に、珠麗もまたほたほたと涙を流し、必死になって相手の手を握りしめた。


「辛かったわね。本当に、辛かったことでしょう。ああ、そんなあなたに今言うことではないかもしれないけれど、どうか信じてちょうだい。私は、毒など盛っていないわ。私は、ただあなたを助けようとしただけなの」

「もちろん、わかっております。珠麗様は、そのようなことをなさるお方ではございません」


 楼蘭は握られた手に、もう片方の手を重ねると、静かに頷いた。


「だからこそ、こうして女官や太監の目を盗んで、この場に来たのですもの」


 ゆっくりと諭すような、心の籠もった言葉に、珠麗は心臓を掴んでいた手がほっと緩むのを感じた。


 ああ、助かるのだ。

 この暗い牢獄に、天女が救いの光を授けに来てくれた。


「時間がないので、手短に申し上げます。珠麗様。あなたの斬首刑が決まりました」


 だが次の瞬間には、絶望の底に叩き落とされた。


「……え?」


 声が上ずる。

 心臓が激しく騒ぎ、鼓動がうるさい。


 楼蘭は涙ぐみ、悲壮な表情で首を振った。


「すべては無力なわたくしが悪いのです。女官も太監も武官たちも、あの場を見て、すっかり珠麗様が下手人であると決め込んでしまいました。いったいなぜなのだか、物証まであると言い出すのです。わたくしは意識を取り戻してすぐ否定したのですが、かえって犯人を庇うのか、脅されているのかと、火に油を注ぐ始末で……皇帝陛下もお怒りになってしまい、もはやどうすることもできず……!」

「そん、な」


 珠麗は呆然と呟いた。


「ほ……ほかに、誰も、私の無実を証明してくれる人はいないというの? お父様……はないにしても、夏蓮とか、他の妃嬪様方とか」

「お父君は早々に、珠麗様を絶縁し、尋問にも積極的に協力すると述べた、と聞いております。なんらか罰は免れないでしょうが、それでも命は失わずに済むでしょう。夏蓮は……一介の女官に、武官や太監を相手取れというのは、酷な話です。ほかの方々とて、ご自身を守るのに精いっぱいでしょう」


 つらそうに目を伏せられて、珠麗はぼんやり「そう……」と相槌を打った。


 この状況下では、当然予想できたことだ。

 けれど、あまりにあっさり、周囲が自分を見放したことに、衝撃を隠せなかった。


(後宮というのは……そういう所なのだわ)


 今さらながらに、思う。

 ここまで気楽に過ごしてきていたから、まるで気付かなかったが、やはりこの後宮とは、敵意と悪意が渦巻く、恐ろしい場所なのだ。

 現に、楼蘭がつわりで苦しんでも、自分が大声で助けを呼んでも、誰も救いの手を伸ばそうとしなかったではないか。


 すっかり顔色を失った珠麗に、楼蘭はそっと言い含めるようにして続けた。


「わたくしが庇い立てしても、かえって陛下のお怒りと、刑は重くなるばかり。かくなるうえは、罪を否認せず、認めたうえで、いかに刑を軽くできるかに望みを託すべきです」

「そ、う……」

「わたくしも微力ながら、減刑を申し出ることならできるかと。死刑ではなく、追放をと訴えるのです。珠麗様にはお辛い日々を過ごしていただくことになるやもしれませんが、命を落とすよりは、よほどましのはずです」

「…………」


 そうね、と頷きかけて、珠麗は口をつぐんだ。


 本当にそうなのだろうか。

 目まぐるしく変化する状況に取り残され、まったく考えが定まらない。


 黙り込んだ珠麗を見かねてか、楼蘭が握る手に力を込めた。


「珠麗様。どうか誇りをこらえて、真実に口をつぐんでくださいませ。形だけでよいのです、武官たちの前で、罪を認めてくださいませ。すべてはあなた様が生き延びるためなのです」

「生き延びる……」

「ええ。刑の内容は、陛下の、そして執行する武官の心ひとつで、苛烈にも穏やかにもなると聞きます。ただの斬首で済めばよいほう。判決に異議を唱えたせいで、肉削ぎや、火あぶりまで加わっては、たまったものではありませんでしょう?」


 恐ろしい単語の数々に、珠麗は震えあがった。


「そんなの嫌だわ!」

「だからこそ」


 楼蘭は、その美しい瞳に涙をいっぱい溜めて、繰り返した。


「罪を先に認めてしまうのです。大丈夫。わたくしが、この命に代えても、珠麗様を死なせなどいたしませんわ」

「楼蘭様……」


 その滑らかな頬に、透き通った涙の粒が転がってゆくのを見て、珠麗は状況も忘れて楼蘭に見惚れた。

 本当に、彼女はなんと清らかな女性であるのだろうか。


「本当に申し訳ございません、珠麗様。わたくしが誰かの妬みを買ったせいで、あなた様まで巻き込んでしまった……」

「いいえ! そんな、いいのよ、だって、あなたこそ、一番の被害者ではないの」


 悲痛な声で詫びられて、反射的にそう返しただけだったが、一拍遅れて、珠麗は本当にそうだと思い直した。


 この事件で一番つらいのは、子を失った楼蘭のはずだ。

 だというのに、彼女は自分に手を差し伸べてくれた。

 冤罪で罰されるなど理不尽だし恐ろしいが、命あるだけ儲けものである。

 いや、考えてみれば、この愚鈍と評判の自分が、後宮で数年生き延びただけでも奇跡だ。


(大丈夫。生きてさえいれば、きっと道は開ける)


 振り返ってみれば、幼少時に死んでしまった母も、しょっちゅうそう口にしていたではないか。

 身分の低い奉公人であったところを父に見初められ、けれど後に冷遇され、と波乱に富んだ人生を歩んだ母であったが、いや、だからこそ、「生きているうちは大丈夫」と大らかに笑っていた。


 珠麗はなんとか固い笑みを浮かべ、楼蘭に頷いてみせた。


「私は大丈夫だわ、楼蘭様。やってみれば、案外なんとかなるかもしれないもの」

「珠麗様……」

「それにほら、実は私、郭武官とちょっとした仲良しなの。彼は高位の武官だから、刑の執行にも関わるでしょう? 彼に頼み込めば、あるいは、もう少しだけ刑を軽くしてもらえるかもしれませんわ」


 それを聞くと、楼蘭は大きく目を見開いた。


「……郭武官と?」

「ええ。すごく気さくな方なのよ。まあ、私の場合、嬪というより後宮の愛玩動物としてでしょうけれど、ときどき外のお土産を持ってきてくださったりして」


 楼蘭はふと、その美しい唇を己の人差し指で撫でると、「ならば」と切り出した。


「それでしたら、郭武官に、色でもって情けを乞うことをお勧めいたしますわ」

「なんですって?」

「ですから、色仕掛けです」


 清廉な美貌を持つ楼蘭にそぐわぬ単語に、珠麗は目を丸くした。


「い、色仕掛け? 豚と言われるこの私が? あの郭武官に? 想像もできないわ!」

「いいえ、珠麗様は、ご自身の魅力を過小評価しすぎです。殿方の中には、豊満な体を好まれる方は多いのですよ。誰にも気を許さぬと評判の郭武官が、珠麗様にだけお土産を渡すと言うのが、その証拠です」

「で、でも、いくら命乞いとはいえ、そんなはしたないこと……」

「少し身を寄せるだけでよいのです。じっと見つめ、胸元を意識しながら縋りつくだけ。恋情ではなく命をねだるのだと思えば、できなくはないはず」


 きっぱりと断じられ、珠麗はたじろいだ。


 が、それ以上の反論をする間もなく、楼蘭の肩越しに見える鉄扉が、ぎいっと開く。

 松明をかざした太監たちが、険しい顔で踏み入ってきた。


「見張りの者がいないと思えば……祥貴人、こんな場所でなにをしておいでで?」

「わたくしはただ、珠麗様に、罪を詫びるよう諭していただけで……」

「豚に罪のなんたるかがわかるものでしょうか。牢の気はお体に障ります。お戻りを」


 太監たちは、楼蘭に痛ましげな視線を向け、一転、珠麗には鋭い睨みを寄越した。


「刻限だ。出ろ」

「きゃっ」


 乱暴に牢から押し出され、尻もちをつく。

 その拍子に、たった一つ残されていたかんざしが地に落ち、珠麗はそれを慌てて拾い上げた。


「楼蘭様、お願い!」


 太監たちに両脇を取られ、引きずられるところを、もがいてなんとか簪を楼蘭に押し付ける。

 驚きに目を見張る彼女に、珠麗は力の限り叫んだ。


「これを、夏蓮に! 私が唯一残せるものなの。あの子には、郷里に残してきた病気の妹がいるのよ。俸禄がなければ、死んでしまう。年季明けに渡そうと貯めていた金子も、室の棚の最上段、その天板の裏に、手紙と一緒に隠してあるわ。どうかそれを渡して。髪を切ってまで、私に忠誠を誓ってくれた、たった一人の女官なのよ!」


 夏蓮は、この天華国の西域に位置する、遊牧民族の国の出であった。

 彼女の一族は、婚姻か死のときにしか髪を切ってはいけないというのに、珠麗を生涯の主と仰ぎ、その髪を捧げてくれたのだ。

 たとえ夏蓮が珠麗を見放したのだとしても、それは仕方のないことだし、それを理由に自分が彼女を裏切ってはならないと思った。


「お願い、どうか――」

「お任せください」


 うるさい、と太監に腹を小突かれ、一瞬息を詰まらせてしまったところに、楼蘭が力強く請け負う。


「夏蓮は、わたくしが面倒を見ますわ」


 その凛とした宣言に、珠麗は目を潤ませた。

 楼蘭とて、つらい境遇であるというのに。


「ありがとう。ありがとう、楼蘭様」


 きっと、希望はある。

 太監や武官とて人の子だ。よしみのある郭武官なら、きっと手助けしてくれるだろう。

 そう、色仕掛けでもなんでもして、少しでも刑を軽くするのだ。


 珠麗は胸にそっと希望を灯し、牢を後にした。


「……珠麗様を、死なせなどしませんわ」


 太監たちが去り、燭台のか細い火のみが残されたそこで、楼蘭がぽつりと呟く。

 彼女は、己の頬に残った涙に気付くと、それを指先で拭い、ふと笑みを浮かべた。


やすやす・・・・、死なせなどしませんとも」


 細められた瞳には、隠しようのない侮蔑が滲む。

 楼蘭は、押し付けられた翡翠ひすいの簪を摘まみ掲げると、呆れたように嘆息した。


「本当に、なんと見事に、騙されてくれましたこと」


 呟き、ぽいと投げ捨てる。

 透き通った翡翠の飾りは、床に溜まった泥に、ずぶりと沈んだ。


 汚らわしい光景を、改めてうんざりしたように見回してから、彼女は珠麗が連れていかれた扉を見つめた。

 ようやく、武官による取り調べが始まった頃だろうか。


「まったく……あれだけ『証拠』を揃えて差し上げたのに、動きが遅いったらありません」


 この二晩のことを思い出し、彼女は再度溜息を落とした。

 自ら吐血してみせるだけでなく、珠麗の宮に毒を調合した痕跡を残させ、女官を買収して、「珠麗は祥貴人を妬んでいた」と証言までさせたのに、筆頭女官である夏蓮が強情にも反論し、切れ者と評判の郭武官もまた、拙速な尋問を拒んだものだから、こんなにも時間が掛かってしまった。


 けれど珠麗が罪を自白すれば、それもようやく終わりだ。


 息のかかった太監たち、そして彼らの長である太監長・袁氏えんしにはすでに、珠麗を死罪ではなく、花街への追放に処したいと伝えてある。

 女にとって堪えがたい苦しみは、女にとって堪えがたい苦しみで贖われるべきという趣旨である。

 郭武官の執り成しがなければ、まずその通りになるだろう。


 一方で自分が得るのは、天子の子をたしかに一度は懐妊したという「事実」。

 そして、それを失ったことへの同情だ。

 同情は、女たちを優しくし、身分の低い楼蘭を最も穏やかな方法で引き上げてくれる。

 貴人から、せめて嬪の地位には、これでなれるだろうか。


 と、重い扉の向こうで、女の鋭い悲鳴が聞こえてきた。

 よく通るあの声は、間違いなく珠麗だ。


「罪人の焼き印を押されている頃かしら。きっと言いつけ通り、郭武官に色で迫ったのね。お利口さんですこと」


 大気を震わす悲痛な声にひとしきり聞き入ってから、楼蘭はひっそりと笑った。

 あのまま何もしなければ、郭武官は珠麗を庇ったろうに、愚かで信じやすい白豚妃は、まんまと彼の前で罪を認め、擦り寄ってみせたのだろう。

 かの人は、媚びる女をなにより嫌うとも知らないで。


「焼き印の場所は、額だったかしら。きっと花街でも、ろくな扱いはされないでしょうね」


 目を閉じて、珠麗の今後を思う。

 身を持ち崩し、良家の子女から妓女へと転じる話は稀に聞くが、罪人となれば、その境遇はいっそう過酷を極めることだろう。

 結局のところ、入内したにもかかわらず一度もとぎを経ていない珠麗が、残酷な方法でその身を汚されたなら、彼女はいったいどんな顔をするのだろうか。


 ――少なくとも、「ありがとう」などと口にすることは、まずあるまい。


 扉の向こうからは、すすり泣きと混ざった、まるで動物の鳴き声のような悲鳴がまだ聞こえてくる。



「……汚らわしいこと」


 楼蘭はひっそりと口の端を持ち上げ、踵を返した。


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プロローグだけだとシリアスな物語だと誤認されそうなので、続けてもう1話投稿しておきます。

明日からは体力の許す限り8時と20時、途中からは20時のみ更新予定です。

どうぞよろしくお願いいたします。

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