第31話


         ※


 ぽた、ぽた、ぽた。

 右手から鮮血を滴らせながら、僕は軌道基地の廊下を闊歩していた。

 鮮血と言っても、僕の血ではない。僕が右手に握った、ミヤマ博士の千切れた腕からの出血だ。その腕は既にひんやりとして硬直が始まっていたが、目的達成のための支障にはならない。


 ちなみに僕の左手には、小さな透明のビニール袋が握られている。

 入っているのは、これまた博士の身体の部品、右の眼球だ。博士を射殺した直後、トニーにくり抜いてもらった。


 博士の右腕と、右の眼球。わざわざスプラッター映画のような真似をして運んでいるのには訳がある。

 博士が生体認証を用いてドアの開閉を行っているのを目にしていたからだ。


 右手の指紋と、右目の網膜の血管。この二つがあれば、この基地内を自由に行き来できる。そう判断した。

 トニーに確認させたところ、ここから降下用軌道エレベーターに至るまで、そう離れてはいないことが分かった。無論、エレベーターは地球まで直通である。


 警備員に出くわすかもしれないが、そこは出たとこ勝負だ。レーナとトニーは、それぞれ自動小銃で武装している。

 レーナが戦力になるかどうかは微妙なところだが、僕の戦闘体勢へのスイッチが入れば問題ないだろう。むしろ、僕がレーナを守らなければ。


「ね、ねえ、トニー」

「はい、レーナ様」

「エレベーターまではあとどのくらいかかるのかな……?」

「それは距離ですか? それとも時間ですか?」

「え、ええっと……」

「両方答えてあげてくれ、トニー」

「かしこまりました、アル様。距離的には、この通路を道なりに約五百メートル。時間的には、今の歩行速度であと十分強といったところです」


 僕は黙り込んだレーナの心情を推し測った。具体的な数字を知って、落ち着いてくれていればいいのだが。

 それとも、五百メートルや十分強といった値は、レーナの焦燥感を駆り立ててしまっただろうか?


 いずれにせよ、僕たちの前にあるのは現実だけだ。落ち着き、それこそトニーのように淡々と歩みを進めていくしかない。


《指紋認証、完了しました。右目をカメラの前に向けてください》


 僕はスライドドアの前で、左手の袋の中にある球体を握り込んだ。それをそっと、カメラに近づける。

 軽く唇を湿らせると同時、広大な空間が、眼前に展開された。

 同時に、僕の両の瞼も見開かれる。


「うわあ……」


 思わず漏れた、感動の吐息。

 ドアの向こう側は、全面ガラス張りになっていたのだ。天井以外は、三百六十度プラス床面の大パノラマである。


 未だかつてない距離に、地球がある。信じられない光景だ。この、コバルトブルーの輝きに憧れて、僕はずっと生きてきたのだ。たとえそれが、偽物の記憶だったとしても。


「周囲の安全確認、完了しました」

「アル! アル!」


 トニーの言葉を受けて、まるで火が点いたかのようにレーナが僕に抱き着いてきた。


「やったね! 私たち、ついにここまで来たんんだよ!」

「あ、ああ……」


 僕は言葉を失っている。対するレーナは大はしゃぎだ。

 まさか。僕の脳裏に嫌な予感が走った。


 レーナは、あまりにも多くの人の死に触れてしまったがために、気が狂ってしまったのではないか?

 僕ほどの地球オタクならまだしも、レーナがここまで歓喜する理由が見当たらない。


 それとも、僕を励ますために、わざと僕の分まではしゃいで見せているのだろうか。


「アル様、レーナ様。作戦はまだ完了しておりません。あの扉の向こうが、直接軌道エレベーターに通じております。お早く」

「あ、そ、そうだね! アル、早く行こう!」


 そう言って、僕から離れ、勢いよく駆け出すレーナ。その背中にぱっと鮮血の華が咲いたのは、直後のことだ。


「……?」


 一瞬、何が起こったか分からなくなった。

 レ、レーナ? どうした? ――こんな言葉も、自分が声にしているのか、心で呟いているだけなのか、さっぱり見当がつかない。

 いや、そんなことはどうでもいい。


 僕はどさり、と博士の腕と眼球を落とし、拳銃を抜いた。敵がいるであろう方向、すなわち元来た方へと振り返る。

 だが、そこにいるのはトニーだけだ。


 誰だ? 誰がレーナを撃った? 僕の視界が、真っ赤に明滅する。

 その中で気づいた。トニーが自動小銃を構えていて、その銃口から硝煙が上がっていることに。


「あ……」

「さあ参りましょう、アル様。このエレベーターは二人乗りです。余計な荷物は置いて行かなければ」

「に、もつ?」

「左様です。お急ぎください」


 言葉ではそう言いながらも、トニーは動く素振りを見せない。僕の理解を待っているのだ。


「どうして……」

「はい」

「どうしてレーナが、荷物なんだ?」

「今の彼女には、軽度のパニック症状が見られます。軽度、と申しましたが、時間経過によってストレス障害となり、正気を失う可能性があります。そんな彼女に、冷静な発言能力があるとは考えられません」

「だから僕とトニーが、二人で地球に行くべきだと……?」

「左様です。直接の被害者でありながら、正気を保ったアル様のご経験と、わたくしの分析能力を駆使すれば、世論に訴え得るだけの証言が可能です。無駄な情けをかけるようなことはお止めください」


 情け……。情け、だって?

 僕はレーナに情けをかけたり、憐れんだりしているわけではない。僕はただ、レーナのことを――。


「愛しているんだ……」


 無言のトニーに向き直り、僕は声を張り上げた。


「愛しているんだよ!」


 この言葉がちゃんと怒号になったか、それとも掠れ声になってしまったか、それは分からない。

 いずれにせよ、トニーの行動に変わりはなかっただろう。それでも、僕は感情の噴出を止められなかった。


「それを、そう、それなのに、お前はレーナを撃ったんだ! 貴様、何てことを! この先僕に、どうやって生きろと言うんだ!」

「わたくしとて、ポール様を喪っております」

「え……?」


 その一言に、僕の怒りは砂浜に打ち寄せる波のように、ざあっ、と引いて行った。


「わたくしに命を授けてくださった創造主たるお方を亡くしたのです。大切な方を亡くしていないのは、あなただけだったのですよ、アル様」


 僕はその場で口をぱくぱくさせた。

 命――ロボットに命、だって? それをポールが創造した、と? 

 生身のパーツなど一片たりとも持ち合わせていないトニーが、そんなことを言い出すとは。


「いずれにせよ、これでエレベーターに搭乗できる人員は定まりました。参りましょう、アル様」


 自動小銃を突きつけ、脅すように促すトニー。

 その時だった。僕の怒りのボルテージが、最高潮に達したのは。


「お前みたいな機械に、僕の想いが分かって堪るか‼」


 僕の視界が真っ赤になるのと、トニーの自動小銃が火を噴いたのは同時。

 トニーの銃撃が威嚇だったかどうか? 知ったこっちゃない。正気を失ったのは、レーナだけでなく僕の方もだ。


 僕は勢いよく跳躍した。拳銃を抜く。狙いはトニーの頭部、視覚センサー。すなわち目だ。

 ダンダンダン、と発された弾丸。うち二発がセンサーを掠めたが、共に頭部側面で弾かれた。

 トニーのくるくる回る頭部が、これほど憎いと思った瞬間はない。


「致し方ありません。あなたの遺体を証拠品として提出します」


 弾倉を交換しようとしたトニーは、きゅるきゅると引き下がる。

 着地した僕は再び床を蹴り、一気に距離を詰めた。拳銃を放り捨て、斜め下方向からトニーの頭部を狙う。

 それをトニーは、キャタピラの上の胴体を仰け反らせることで回避。僕はさらに回転蹴りで追い縋るが、両腕を交差させてそれを防がれた。鈍痛が足先から膝を痺れさせる。


「ぐっ!」


 僅かに呻いた、その瞬間を狙われた。

 トニーは巧みに腕の節を展開させ、僕の足を捻ってそのまま放り投げた。


「うおっ⁉」


 勢いよくぶん投げられた僕は、背中をしたたかに壁面に打ちつけた。

 いや、ただの壁面ではない。エレベーターの中にまで放り込まれたらしく、視界が急に狭まった。


 その中央に、猛突進してくるトニー。だが相手の足はキャタピラだ。実質戦闘に使えるのは腕部だけ。まだ勝機はある。

 

 と、思ったのは束の間だった。

 こちらに突進していたトニーのキャタピラが火を噴いた。ばちばちと音がして、キャタピラが脱落する。


 何をする気だ? 訝し気に目を細めると、節のある脚部が再度展開されるところだった。

 足、キャタピラ、足の順で、トニーの歩行手段は移り変わったのだ。


「畜生、走れるんじゃないか!」


 僕が悪態をつくと同時に、トニーは屈伸して勢いよく拳を繰り出してきた。

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