第32話
戸惑っていた僕の腹部に、その拳は綺麗にめり込んだ。
「がッ!」
鮮血が口の端から飛び散る。同時に、背中に強い衝撃。肺からまとめて空気が吐き出され、背骨が軋む。
ややブレた視界に、このエレベーターに飛び込んでくるトニーの姿が映った。自動小銃は捨てている。エレベーターの器材が被弾するのを防ぎたいのだろう。
これで『武器の有無』と言う意味で、僕とトニーは同じ土俵に立った。
「だったら……!」
僕はくるりと身を翻し、エレベーターの隅に自分の身体を押し込んだ。
トニーは急制動をかけ、腕を引っ込める。だが、勢い余って後ろ向きに倒れ込んだ。
「ふっ!」
僕はこの広いエレベーターの中で、垂直に跳んだ。天井に両の掌を着き、自分の身体を真下へ叩き込む。足の裏の狙いはトニーの胸部。ミシッ、という音と共に、激痛が僕の両足を駆け上る。
しかし、ダメージを被ったのはトニーも同じだった。バク転の要領で後退したトニーの胸部は、明らかに凹んでいた。自動小銃の弾丸をも弾く装甲板に、亀裂が入っていたのだ。
バチバチと火花が散っているのが見える。ケーブルも何本か損傷した模様。
それを見下ろすこともなく、トニーはその場で一回転。足を突き出した。回し蹴りを放って、僕の追撃を妨げる。
その背後で、がしゃん、といってエレベーターのスライドドアが封鎖された。互いにもう逃げ場はない。
僕の狙いは決まっている。トニーの損傷した胸部だ。
頭部があれだけくるくる動くところからして、トニーの主要制御システムは、安定した動体にあるはず。それを破壊し、それから――。
それから、どうする? 僕一人の力で、地球に無事到達することができるのか? 今後の僕の立場はどうなる? 生存できるのか? レーナがいないのに。
現実に押し潰され、一瞬全身感覚が麻痺した。
その隙を見逃すトニーではない。再び拳を繰り出す――と見せかけて、素早く腕を展開した。
予想を遥かに上回る速度で、トニーの腕部の先端が迫る。
慌ててしゃがみ込むと、左側頭部に灼熱感。鋭利なレイピアで貫かれたかのようだ。
「くっ!」
今度こそ隙を見せるわけにはいかない。僕は再びトニーの懐に跳び込もうと屈伸を試みた。しかし、
「――!」
足の感覚がぐにゃり、と歪んで、先ほどとは比較にならない激痛が走った。
全身の力が足先から流出し、前のめりに倒れ込む。どうやら先ほどの踏みつけによって、骨がやられたらしい。いや、骨にあたる金属部品が、か。
しかしそのお陰で、次に繰り出された拳を回避することができた。
問題が発生したのは、まさにその拳の先端でだ。
トニーの全身が雷光のように輝き、バン、と何かが弾ける音がした。
慌てて転がり、感電を防ぐ。床に這いつくばるようにして見遣ると、トニーの腕がエレベーターの壁面に突き刺さっていた。そこから高電圧が迸り、一時的に機能を停止したらしい。
これは好機だ。僕は、今履いているコンバットブーツが絶縁体でできていることを信じ、片足を捨てる覚悟でトニーの胸部に蹴りを入れた。
呆気ないほど簡単に吹っ飛ぶトニー。痛みが麻痺したのをいいことに、僕は立ち上がって突進。肘を突き出すようにして、トニーを押し倒した。否、叩き倒した。
僕はトニーに馬乗りになり、思い切って露出した胸部のユニットに拳を叩き込んだ。
バチッ、といって煙が上がったが、もう躊躇してはいられない。
このままケーブルを引っこ抜いて、駆動システムを滅茶苦茶にしてやる。
そう思った直後のことだ。エレベーターが不気味な揺れ方をしたのは。
《警告。当エレベーターは、運行に致命的な問題が発生致しました。繰り返します――》
場違いなこと甚だしいが、僕は今のアナウンスの言わんとすることを理解した。
普段なら、『耐ショック姿勢を取ってください』とか、『緊急避難してください』とか、何かしら告げられるはずだ。
しかし、与えられた情報は『警告』のみ。つまり、もう僕とトニーの安全を確保する手段はない、ということか。真っ赤な警告灯の光が、パトランプのように天井で回っている。
僕は、のっそりと上半身を上げようとしたトニーに再びタックルを喰らわせながら、もう死に物狂いでケーブルやチューブを引きちぎり続けた
死なばもろとも、である。トニーを破壊し、否、殺し、レーナの仇を討ってやる。
僕は意気込んでトニーの内蔵機器を滅茶苦茶にしていたが、当然ながらトニーも黙ってはいない。僕は胸倉を掴まれ、呆気なく放り投げられた。
しかし今回は、余裕があった。壁面にぺたりと貼りつくように、放り投げられた勢いをバックステップに活かし、そのまま受け身を取る。
ケーブルをズタボロにされて、トニーの動きは随分のろまになっている。
これなら、勝てる。
だが、それはあまりに楽観的過ぎた。
「うわっ!」
身体が宙を舞った。トニーに攻撃されたわけではない。エレベーターの降下速度が速まり、慣性の法則によって身体が浮き上がったのだ。
そうして動きの鈍った僕は、トニーと目が合った。果たしてそれは、偶然か必然か。
いずれにせよ、僕は再び展開されたトニーの腕先のアームに、喉を絞められてしまった。
「がッ! は……」
出力系統に異常をきたしているのだろう、今のトニーに、僕の喉を握り潰すほどの力はないようだ。だが、これではやられることに違いはない。
そうは言っても、僕だって今は戦闘体勢なのだ。ロボットの腕の関節を捻じ切るのは、困難な所作ではない。
すると、今度はトニーの身体までもが宙を舞い始めた。このエレベーターは、凄まじい勢いで運行している。いや、原理はもっと簡単だ――落下を始めている。
トニーの片腕をもぎとった僕は、それを槍のように使って、トニーの露出した胸部を連打した。
しかし、僕は気づいていなかった。自分が油断していることに。
トニーは捻じ切られた自分の腕を巧みに利用した。棒状になった腕を掴み、その反対側を手にした僕の身体ごと思いっきり振り回したのだ。
「がはっ!」
再び鮮血が口から漏れる。今更ながら、臓器の損傷が酷くなってきたらしい。
だが、頑強なのがサイボーグの売りだと言うなら、ここで倒れていいはずがない。
ほぼ無重力となったエレベーター内で、僕は自分の吐血を無視して再びトニーに躍りかかった。
片腕を失い、脚部の操作にも支障をきたしだした様子のトニー。僕は一気に壁を蹴って接近し、トニーの残る片腕を掴み込む。そして思いっきり振り回し、床面に叩きつけた。
「畜生、畜生、畜生!」
叫びながら、再びトニーの胸部を強打する。
一発拳を見舞う度に、僕の生体組織に過負荷がかかり、皮膚や筋肉が損傷する。
損傷? いや、削られていく、と言った方が正しいか。
徐々に僕は、サイボーグとしての姿を現しつつあった。とりわけ腕は、自分へ返ってくるダメージを直に被って、ところどころで金属部品が露出している。
トニーがその機能をほぼ停止したのと、エレベーターが雲の中を通り抜けたのはほぼ同時。
僕は沈黙したトニーの亡骸を見つめながら、ふわふわする身体を何とか安定させようとしていた。
《このエレベーターは、あと六十秒で落着します》
もう聞く必要もない、虚しいアナウンス。
このままでは僕は、エレベーター落着と同時に全身を強打し、ミンチ状態になってしまうだろう。
「ああ……」
僕は何とかエレベーターの隅に腰を下ろし、考えた。
僕にとって、『生きている』とはどういうことだったのだろう?
いいや、今から考えても、利するところは何もない。
「最早これまで、か」
そう呟いて、目を瞑ろうとした直前。
高速で伸ばされた何かが、僕の顔面を強打した。
「ぐはっ!」
トニーの脚部だった。最早、素早い挙動は取れないはずだったが、それは僕とて同じこと。もはや事態は、『瀕死のサイボーグ』対『機能停止直前のロボット』という、無様な様相を呈していた。
僕は再び腕を突き出す。前へ、ひたすら前へ。
その時気づいた。トニーに殴打を見舞う度に、僕の生体組織は失われていく。自分もまた、どんどんロボットに近づいているのだ。
これが、人間でありたいと思っていた僕の取るべき行動だろうか?
《このエレベーターは、あと二十秒で落着します》
僕は再びトニーに馬乗りになって、ひたすら拳、否、そこから露出した自らの金属の腕を叩きつけた。
もうここから逃げることはできない。僕の人生は――実質一年しかなかった僕の生存期間は、ここで終わりを告げる。
未だかつてない、全身を揺さぶる凄まじい衝撃。僕は何か叫び声を上げたかもしれないが、それが何なのかは分からない。
分かったのは、自分がエレベーター側面から放り出され、無様に地面に転がり出たということだ。
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