第53話 読者の皆さまへ

 『百万の書』、あるいは『東方見聞録』には、荒唐無稽な話も含まれているが、各地の物産や貨幣に関する記述は、きわめて正確である。ヴェネツィアにとって、もっとも重要な調査対象が、物産と貨幣だったからだろう。

 また、モンゴル帝国の内乱における戦闘描写も、実際に見てきたかのようなものである。ただし、複数ある戦闘描写はすべて同じであるといってよい。おそらく、ベルケ・フレグ戦争に関するペルシャ語の記録を、元朝とカイドゥに関する戦闘や、トクト・ノガイ戦争などにも当てはめたのであろう。

 この小説で登場したトクト・ノガイ戦争の第1段階のクライマックス、プルート河畔の戦いは、『百万の書』ではいっさい描かれていない。この戦いの情報を、ルスティケロは得られず、最終的にトクトが勝利したことしか知らなかった。ヴェネツィアの間諜が情報を集められなかったのである。

 ヴェネツィアはノガイとトクトの対立に、重大な関心を寄せていた。1296年のクルツォラの海戦で宿敵ジェノヴァに敗れ、地中海の制海権を失ったも同然のヴェネツィアにとって、対岸のダルマチアを支配するハンガリーに自身の影響力を強めていく以外に、軍事力や経済力を回復させる方途はなかった。アドリア海に面するダルマチアは水夫の供給地であり、またハンガリーの支配領域には多くの銀山があったからだ。

 ノガイと、その協力者であるジェノヴァ・ユダヤ商人のハンガリーに及ぼす影響力を弱めなければならないヴェネツィアにとって、ノガイとトクトの対立は好機だった。

 誰がヴェネツィアの諜報活動を妨げたのか。状況証拠からして、ジェノヴァ人に違いない。しかも、その人物はトクト陣営の中にいたはずである。もしノガイ側に入れば、トクト・ノガイ戦争の第2段階で、ノガイの末子トライを支援するため、ヴェネツィアに協力を求めてもいいはずだが、そういった形跡はない。ジェノヴァ人は個別の利益で動くのであって、ヴェネツィアのように国家単位で物事を考えない。自分にとって有利であれば、この場合、もしトライを助けたければ、ヴェネツィアに少なくとも情報提供ぐらいはしたであろう。ところが、ヴェネツィアは何も知らず、何もできなかった。

 この小説では、ヴェネツィアと情報戦を繰り広げた、おそらく複数のジェノヴァ人を、マルコあるいはマルクスという架空の人物として描いてみた。ルスティケロが数多くの間諜をマルコ・ポーロという者に仮託したのと同じ手法をとった。

 最後に、この小説を読んでくださり、ありがとうございました。


令和3年3月

函館にて

筆者識

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続・東方見聞録 土屋和成 @tsuchiyakazunari

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