第52話 エピローグ

 ジェノヴァの行政長官府の使いの者がルスティケロ=ダ=ピサを訪ねたのは、1301年のことだった。

 先にベネデット=ザッカリーアの手の者が持ってきたマルコの報告書には、タルタル軍の装備や戦闘の様子などが克明に描かれていた。1299年の時点で、ノガイ軍がガザリア(クリミア)を襲ったことまでは書いてあったが、今回続報が届いたのである。

 ところが、使いの者は、戦はトクトが勝った、また、すでに現地調査は終了しているとだけ言って去っていった。

 客観的に見れば、ジェノヴァにとって最重要地域は黒海である。であるにもかかわらず、政治家も高級官僚も、ジブラルタル方面に意識が集中しており、黒海に関する情報収集は放っておかれたのだった。

 失意のどん底に落とされた作家が帰宅しようと、とぼとぼ歩いていると、後をつけてきた男が、ヴェネツィアに来ませんか、と声をかけてきた。

 ルスティケロ=ダ=ピサはヴェネツィアにて、『百万の書』を完成させた。主人公の名はマルコである。ただし、マルコをヴェネツィア人という設定にして、世に送り出した。『百万の書』の最後の場面は次のようなものである。トクトとノガイが争い、初戦はノガイが勝ったとして、その戦闘の詳細を描いた。そして、最終的にトクトが勝利したとの事実だけを付け加えた。

 なお、『百万の書』では、ノガイの本拠地を「ネルギ平原」としている。実は、ネルギは地名ではなく、「国境の」を意味するペルシャ語の形容詞の不完全転写である。ヴェネツィアの間諜がイルハン朝で集めたペルシャ語の文書を、翻訳してローマ字にする際、書き間違えたのだろう。

 ベネデット=ザッカリーアは、マルコの報告書をジェノヴァ共和国政府には渡さず、一通り読み終えると、自分の旗艦の本棚に仕舞い込んだ。こうして、『百万の書』のつづきは書けなくなってしまったのだった。もう黒海は大丈夫だ。安心して商売ができる。次は、ジブラルタルを落として大西洋に出よう。ベネデットの生涯は、死ぬまで成長が止まらない恐竜のようである。

 トクト大王は、元朝のテムルとその後を継いだカイシャン、チャガタイ家のドア、そしてイルハン朝のガザンとその弟オルジェイトゥらとの和平協定の締結に尽力し、成功する。これは歴史家によって「パクス・タタリカ(モンゴルの平和)」と呼ばれている。東は樺太から西はサクチまで、北は北極圏から南は東南アジアまで、ユーラシアの大部分がモンゴルの支配下に置かれ、人々はその広大な領域を行き来できるようになった。人々は、トクトをパーディシャー(ペルシャ語で大王)と呼んで敬意を表した。

(完)

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