最終話
その週末、私はすぐに越してきた。智子はそのためにここに部屋を買ったのだと言い張り、共に暮らすことを求めた。彼女の娘だとは言え、他人さまの若い女性だ。最初はぎこちなく生活を送っていたが、徐々にそれらにも慣れていった。智子は商店街の一角に料理教室を開いた。地方都市で生徒が集まるかと憂慮していたが、著書のファンだという人の口コミで、すぐに定員に達した。ブログも続けている。私のほうは相変わらず同じ仕事をしているが、毎日作ってくれるお弁当が一つの楽しみになっていた。二人でたまには焼き鳥屋にも顔を出す。また、商店街に教室を開いたことで、智子も今では商店街組合の役員だ。どうやら私よりも早く、この地に慣れ親しんだようだ。日々忙しく生活しているが、智子は幸せそうに見えた。あの日、智子に胸で泣かれてから、かれこれ五年の月日が流れた。その間、智子の涙を見たのは一度きりである。その涙の理由が、今、私が腕に抱く小さな女の子の誕生である。彼女と智子に似た可愛い寝顔が、私の腕のなかで小さな寝息を立てている。この子には、智子のような悲しい子供時代を送らせたくはなかった。幸せで溺れるくらいに愛を注ごうと思った。それほどまで安心しきった寝顔が愛おしく感じられた。
「ただいま」買い物袋を下げて智子が帰ってきた。
「おかえり」私は小さな声で応えた。
「どうでした?」
「いい子にしてたよ、ほとんど寝てたけどね」私は寝顔を智子に見せた。
「よかった、もうちょっとお願いね、着替えてきちゃうから」智子はそう言って二つ目の部屋に向かった。
「いいよ」
「ただいまもどりました」私の返事と同時に、野太い声が部屋に響いた。
「おかえり」私は小さく返答した。
「よかったですよ」
「そうか、気に入ったのならよかったじゃないか」笑顔で私は答えた。
「聡、買い物袋持ってきて」着替えを済ませた智子がキッチンから叫んだ。
「ああ」
「でね。決めてきちゃいました」智子がキッチンから叫んだ。
「二人が決めたのならば、それでいいじゃないか」
「庭も広いし、部屋数も多いんですよ」聡が満足そうに言った。聡と智子が出会ったのは、地元の小学校での講習会だった。小学校の体育教師として働いていた聡が、料理の講師として訪問した智子に一目惚れしたのだ。そして結婚を決意した時、彼から聞いたことがあるが、結婚まではかなり難航したそうだ。なぜならば、智子は両親の姿を見て、結婚に対して夢を抱いていなかったからである。だからこそ、私のような年配者に助けを求めたのかも知れない。そして一途な聡の気持ちに負け結婚を承諾した智子だが、いくつかの条件を突き付けたらしい。その条件の最優先事項が私との同居であった。当然のこと、私と智子の関係は知っているが、今では智子同様に、私を父親と見てくれているようだ。
「お父さんの部屋は広いですよ」
「もう部屋割りまで決めてるのか」と私は笑った。その笑いに気が付いたのか、眠り姫が目を覚ました。
「起きたか。よしよし」
「起きたの?ベビーベッドに寝かせておいて」智子がキッチンから声を出した。
二人が決めたのは、ここからそう遠くない一軒家の購入だった。結婚もしたし、子供も授かったと言うことで、ここでは手狭に感じたようだ。私は智子の意見を黙って聞くだけである。必要とされなくなるまで、傍にいるのが約束だからだ。聡ともうまくいってる。彼の両親も最初は怪訝な態度だったが、今では当たり前のように付き合いはある。聡が次男だからかも知れない。
「じゃあ、先に飲んでましょうか」聡が食卓テーブルに腰かけ、私に声を掛けた。智子の手際の良さで、テーブルにはどんどん料理が出されてくる。
「うん、先に飲んでて」聡は酒好きだが、休日前以外は深酒をしない。飲み方もスマートだ。
「お。うまそうだ」そう言う聡の言葉は本心だろう。確かに智子の料理は素晴らしいと私も思う。そして手際も良い。洗い物も同時にこなし、料理が提供し終わるときには、キッチンは綺麗になっているほどだ。
「そうだな、いただきます」
「いただきます」聡が里芋の煮っころがしに箸を突き立て口に運んだ。
「うん、うまい」
「でしょ、朝から用意してたから味が沁みてるはずよ」そして最後の料理を出したところで、智子も席に着いた。
「いただきます」智子の声に、私の気持ちは安らぎを覚えた。思えば智子と出会う前『いただきます』の言葉を懐かしんだ。しかし今では、普段の生活の中で、この『いただきます』が如何に重要なのかが理解できた。この言葉が意識せずとも出てくることが、幸せの証のようにさえ思えた。食卓が笑顔の家庭は円満である。そう言えるだろう。
「それともう一つ報告があります」暫くして、智子は箸を置き、真剣な目で私を見た。
「どうした?」私にはその内容に見当が付かずに尋ねた。
「ずっと考えていたんだけど、母のお墓を近くに移すことにしました」
「そうか、きっと喜ぶと思うよ」私はその報告に驚きはなかった。きっと私もいつかはそんな提案をしたかも知れないからだ。
「うん。あの家族のお墓に入れてはおけないって、すっと考えてたんです。私も結婚したし、子供も生まれてここに根を張ることを決めました。だから移すことにしました」智子の言葉からは堅い決心が窺えた。
「それがいいだろう。私も墓参りに行けるしね」
「はい、是非、お願いします」智子の満面の笑みを見て、あのとき、私のとった行動に間違いはなかったようだと、改めて感じた。娘のような存在と、婿のような存在と、孫のような存在に囲まれているが、私たちは紛れもない家族だと確信してやまなかった。
-完ー
ダイイングテーブル ひろかつ @hirohico
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます