第15話

「どうぞ」智子はまっすぐに伸びた廊下を歩いていく。左側には洗面所などが並んでいるようで、右には二部屋ほどありそうなドアが並んでいた。廊下を抜けるとリビングがあり、左手にはキッチンが備わっていた。2LDKの作りのようだ。智子はそのキッチンにいた。私は持っていた袋を手渡すと、

「座っててね」と、智子は私にリビングの小さなソファーを指さした。晩御飯は智子の手作りのようだが、何故、智子がここにいるのかが理解出ずにいた。だからと言って、聞くのも怖かった。買いそろえたものを冷蔵庫や所定の位置に仕舞うと、智子がキッチンから出てきて言った。

「ちょっと着替えてきます」そして部屋だろうと思っていた一つに智子は入っていった。見れば冷蔵庫や家電品は新しそうに見えた、こうして座っているソファーも新品のようだ。もしかして以前、智子がこの地を訪れたのは、結婚かなにかが理由だったのかも知れないと思い始めていた。或いは、新しい就職先がこの地にあるのかも知れない。そう思って部屋を見回していると、積まれたままの段ボールが見えた。まだ引っ越しして間もないようだ。ところが、ふと目に留まった飾り棚にある物に、私は目を疑った。近寄って手に取って見たそれは、私に底知れない衝撃を与えた。手の中にあるのは彼女と小さな赤ちゃんが写った写真だった。どこからどう見ても『彼女』だ。私の記憶の中にあった彼女の笑顔が、腕に抱かれた赤ちゃんへと向けられていた。『まさか……』

「そうです、母です」ラフな衣服に着替えを済ませた智子が後ろに立っていた。

「じゃ、君は……」

「はい、娘です」智子の顔は真剣そのものだった。それを嘘とは言えないだろう。私が衝撃を受けるほど、彼女と智子は似ているのだから、親子だと言えば素直に信じられる。

「でも、なんで?」私にはそれが事実だとしても、どうして智子がここにいるのかが理解出来ずにいた。

「戸惑うのも無理はありませんね。だからちゃんと説明します」智子はそういうとソファーに腰を掛け、私にも促した。そして一息ついてから、智子は口を開いた。今までどんな生活を送って来たのか、そして、どんな寂しい思いをしてきたのか、時に言葉に詰まり、時に涙を浮かべて話を続けた。私はそんな智子の生い立ちを、黙って聞く事しかできなかった。

「……それでね。興信所を雇って調べたんです。健司さんのことを。だからあの喫茶店にたまに行くことも知ってたし、あのマーケットのことも知っていたんです」と、智子は照れ臭そうにはにかんだ。

「でも、なんで、わたしなんか」

「健司さんは覚えてますか?母に送ったエプロンのこと」智子の急な指摘にも、私の記憶はすぐに応えることが出来た。

「たしか、中学二年生の時かな。何を送ったら良いか迷ったんだけど」

「そのエプロンが母を変えたんです」

「え?どういうこと」

「母は、貰ったエプロンが嬉しくて、それから料理に興味を持ったんです。そしてその知識は、しっかりと私にも伝授されたんです」そう言うと智子は、隣室から2冊の本を持ってきて、私の前に置いた。

「私の著書です」そう説明された物は、料理のレシピ本だった。

「母の料理好きが私も料理好きになるきっかけだったんです。いつも二人で色々と作っていました。その時に、良く健司さんの話も出ていたんです。その時は特に気にしていませんでしたが、私の記憶の中では、父親よりも健司さんの存在のほうが大きくなっていたんですね」智子はそこで私の反応を見るように顔を覗き込んできた。正直言うと、彼女が料理好きだったことは知らない。でも、それほど彼女の人生に変化を与えたとも思えなかった。私は智子の目を見据えていった。

「彼女の人生は彼女が決めたものだと思うよ。私がきっかけかも知れないけど、

きっと彼女はきっかけがなくとも何かを見つけたんじゃないかな」

「そう言うだろうなと、思ってました」智子は笑った。

「でもね、例えそうだとしても、それが私に与えた物は大きいんです」そしてすがるような目で続けた。

「それだけが幸せだったんです」智子の目には涙がたまっていた。ところが智子は涙を見せぬように拭うと、さらに話を続けた。

「色々と調べて貰っている間、私は思ったんです。健司さんは孤独なんじゃないかなって。それで、どうしても会いたくなったんです」

「じゃ、ちゃんと挨拶してくれたら……」

「ううん。普段の健司さんを見たかった。それだけなんです。それに母のことを忘れているかも知れないし……」

「それはないよ。今一人でいられるのも、彼女との思い出があるからなんだ」

「はい、信じます。写真を見てすぐに気が付いたんですもの」

「彼女は私の人生の中で、唯一愛した人だよ」私は、今まで認めることを恐れていた事実を素直に認めた。

「今ならわかります。そして実際に色々と話してみて、なんとなく母が健司さんを好きになった理由が分かったんです」

「確かに孤独だったことは認めるよ。でもね、それが自業自得だと分かっているし、この先、何かを求めるのは自分自身が許さないんだ」

「そういうところも、母が好きなった理由だと思います。それに母は死ぬまで健司さんを好きだったんじゃないかなって思えるんです」私は反論することが出来なかった。すると智子は真剣な眼差しで言った。

「でもね、私は思うんです。すべてを背負い込む必要はないんじゃないかなって」確かに自分自身を罰しているのかも知れないが、節操もなく遊び回れるほど神経は太くはない。結局はこれがありのままの自分の姿なのではないかと思っている。しかし、面と向かって言われると、返す言葉は見つからなかった。

「ここを離れ、自宅に戻ったあと、思い起こされるのは数日間の楽しい日々ばかりでした。そして自分も孤独だって改めて気付かされたんです。母が死んでから、寂しさと孤独に支配されていたのは自分だって思い知らされたんです」智子はそういうと、堰を切ったように涙を流し始め、そして私の胸に縋り付いてきた。そんな智子の態度に唖然としたが、智子なりに辛い人生を歩んできたのだと考えたら、黙って肩を抱いてあげることしかできなかった。

「お願いです。傍に居てください」智子は泣きながら訴え続けた。智子を見下ろしながら、私は返答に困った。私は信心深くはないが、魂などの存在は信じているほうだ。運命もある程度は信じている。だからこそ、もしも私が道を踏み外さずに人生を歩んだら、或いは、彼女と結ばれていたかも知れない。そうなれば、泣いている智子に宿る魂は、私と彼女の娘として生まれたかも知れない。そう思うことで、この出会いは、智子の母が仕向けたように感じた。 

「いいよ、わかった」智子の頭を撫ぜながら、私は言った。

「え?」智子は顔を上げて聞き返した。

「傍にいるよ」

「本当ですか?」泣き顔にみるみる笑顔が戻りつつあった。

「私を必要としなくなるまで、傍にいるよ」私はそう答えて智子を抱きしめた。智子はまたも泣き出した。けれどもそれは悲しみの涙ではなく、うれし涙だったのだろう。私は涙を止められない智子を左手に抱き、右手に持っていた彼女の写真を見ながら『僕が守るよ』と誓った。

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