『素晴らしい映画を書くためにあなたに必要なワークブック シド・フィールドの脚本術2』第1章すべては白紙から始まる
『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』
ロバート・マッキー=著
第1章すべては白紙から始まる
脚本の執筆で一番難しいのは、何を書くかを知ることだ。
何を書くかを知るのが難しい
先日、友人たちと食事をしていた時のことだ。いつものように、会話は映画の話になった。今までに観た映画、好きな映画、気に入らなかった映画、どこが好きでどこが嫌いだったか。演技、編集、撮影、映画音楽、SFX、最高のシーン、心に残るせりふなど、実に刺激的な会話だった。けれど面白いことに、誰も脚本の話はしなかった。私が脚本について触れると、みんなから返ってきた反応は、「ああ、たしかによかった」の一言だけだった。
そのあと、トークショーの司会をしている女優が本を書いたと言い出し、だったら映画の脚本にしたらいいとみんなが勧めた。けれども、助けてくれる「パートナー」がいなければ脚本にする自信がない、と彼女は言う。
一人で白紙に「向き合う」のが恐ろしいと言うのだ。すでに一冊本を書きあげているのになぜ? と私は尋ねた。脚本化が不安なのは、脚本の形式に慣れていないから? 映像を言葉で説明するという点? もしくは構成? そんなことをみんなで話し合っていると、実は自分も似たような恐怖や不安を感じたことがある、と何人かが言い出した。本を執筆した経験のある作家であっても、脚本となると何をどう書いたらいいのか、わからなくなるそうだ。
これは珍しい話ではない。映画の脚本にうってつけのアイデアがあるのに、いざ書こうすると、不安に駆られてしり込みする人は多い。それは、どう書き始めたらいいかわからないからである。
脚本とは、あなたがどこに向かっているか知らない限り、白紙の迷路の中に簡単に迷いこんでしまうものなのだ。
脚本の執筆で一番難しいのは、何を書くかを知ることだ。もし、書こうとしているストーリーをあなた自身が把握していなければ、誰がわかるというのだろう。みんな、凄いアイデアや、見事なオープニング、最高のエンディングを思いついていても、どんなストーリーなんだと聞くと、動揺しながら、ストーリーはそのうち思い浮かぶよと言う。ちょうど、映画『サイドウェイ』(アレキサンダー・ペイン、ジム・テイラー)の中で、小説家志望のダメ男マイルスが、マヤに、彼の小説がどんな話か説明する時のように……。
あなたはどんなストーリーを書きたいか?
脚本を書き始める時、あなたならどこから始めるだろうか?『天才マックスの世界(原題:Rushmore)』(ウェス・アンダーソン、オーウェン・ウィルソン)のマックス・フィッシャー(ジェイソン・シュワルツマン)のように、夢の中のアクション・シーンからか。それとも『シービスケット』(ゲイリー・ロス)のように、ストーリーの時代背景を示すスチール写真からか。もしくは『シャンプー』(ロバート・タウン、ウォーレン・ベイティ)のように、暗い寝室に鳴り響く時計の針の音からだろうか?
脚本を書こうと思いたち、数週間、数ヶ月、いや数年かけて書きあげる決心をしたとして、実際何から考えたらいいのか。これは脚本術のワークショップやセミナーで必ず聞かれる質問なのである。
まずは登場人物か? 背景となる場所か、タイトルか、場面か、テーマか、あらすじか。それとも最初に本を書き、それを脚色するほうがいいのか? 疑問、疑問、疑問……。疑問は次から次へと浮かんでくる。しかし結局疑問の元は、あの疑問――漠然としたアイデアや直感をどうやって脚本の形にしたらいいのか――につきるのである。
脚本の執筆は、プロセスである。それは常に変化し進化する過程であり、それと同時に、時には芸術の域に到達する技術でもある。フィクション、ノンフィクション、戯曲、短編小説などあらゆる文学の書き手と同様に、脚本家も段階を踏みながら、頭の中のアイデアを具体的に肉付けしていく。創造のプロセスは何を書くにしても同じなのだ。
脚本を書こうと白紙に向かった時、わかっていなければならないのは、どんなストーリーを書きたいかである。脚本のページ数はわずか120ページなのだ。だから書き始めてみると、あっという間にページは埋まってしまう。映画の脚本は、ゆっくりとストーリーを書き進めていく小説や戯曲よりも、詩に近い存在なのだ。
脚本にはストーリーラインが存在する
最近行なった脚本術のワークショップに、こんな受講生がいた。大手出版社の編集者で小説家でもあるが、脚本を書いた経験がなく不安だという。
理由を尋ねてみると、自分のストーリーが映像化に適しているのか自信がないと言う。ストーリーはこうだ。意欲的で活発な中年女性がある日大けがをし、病院で寝たきりとなる。第二幕ではその状況がずっと続くのだが、それでよいのだろうか……? 主人公が受け身になりすぎないか? 寝たきりになってからは主人公にほとんどアクションがないので、観客の関心を引きつけておけるか不安であると言う。たしかにもっともな悩みであり、それには独創的な解決が必要だった。
私は彼女と話し合った。第二幕にもっと動きをつけ、視覚的に表現するには、たとえば、急患でごった返す病院内の様子や検査、入院中の出来事を描写したり、あるいは主人公の昔の生活をフラッシュバックで挿入するのも手だ、とアドバイスした。
何とか不安を払拭した彼女は、具体的な準備に取りかかった。リサーチを開始し、5×3情報カード(詳細は『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』236ページを参照)を使って構成を考え、バックストーリーを書き、オープニング・シークエンスも作った。けれどこの時点で彼女は、書く前から先の先までわかりすぎるのは嫌だと言った。小説の場合、書いていくうちにストーリーや登場人物が定まってくるもので、自然にまかせて物語の進む方向を決めたほうがうまくいくから、と。いや、小説や戯曲ではそれでよくても、映画の脚本ではダメだ、と私ははっきり言った。というのは、脚本はあらかじめ書く枚数が決まっているからだ。長さは通常120ページ。450ページ書いても大丈夫な小説というジャンルであれば、「何となく書き進め」てもいいが、枚数制限がある脚本では無理だ。だから書き始めから、確実に結末がわかっていなければいけないのだ。
したがって脚本には、ムダのない明確なストーリーラインが存在する。ストーリーラインは、発端、中盤、結末と展開し、物語の解決に向かって前へ前へと進展する。フラッシュバックで語る場合でも同様だ(『ボーン・スプレマシー』(トニー・ギルロイ)や『アメリカン・ビューティー』(アラン・ボール)など)。アクションをつなぐ一本の線に従って、シーンと情報がストーリーを前進させていくのである。
というわけで、彼女はそれまでに手がけた小説と脚本では執筆のプロセスが違うことを理解するのに苦労したが、脚本の構成などをつかんで、やっと書き始める決心ができた。第一幕では主人公の仕事面に重点をおくことにした。積極的で活発な性格の主人公は、職場での難題にも果敢に誠実に取り組み、パワフルに解決していく。明るく人好きのする人物像がうまく描けていた。
第一幕の終わりで主人公が大けがをし入院したところから、ストーリーのトーンは一変する。意識不明の状態が数ページにわたった。すると彼女はストーリーが退屈になったのではないかと不安になりだし、主人公に焦点を当てるのをやめて、別の展開の可能性を模索し始めたのである。そんなある日、彼女が電話をかけてきて言った。担当医と看護婦のシーンを加え、さらに主人公の娘も登場させることにした。娘はバリバリのキャリアウーマンで、担当医のような権威主義的な男性が苦手な性格だと言う。それで書いてみたらいい、と私はアドバイスした。試してみてうまくいけばいくし、いかなければいかないだけのことだ。もしうまくいかなかったとしても、失うのはそのシーンを書くのに費やした三日間ぐらいなものだから。
迷ったら何もするな
というわけで、娘という新たなキャラクターが第二幕で登場することになった。ところが、それによって今度は別の問題が発生した。主人公である母親の存在感が薄くなってしまったのだ。個性の強い活発な娘が現れたために、ストーリーの焦点は娘に移ってしまったのである。
娘が母親の代わりに治療について決断を下すという代理権、といったテーマも出てきた。娘が治療の選択を迫られる。電気ショック療法か抗うつ剤治療か。どちらにしても深刻な副作用が懸念されると担当医は言う。その権威主義的な態度にとまどいながらも、娘は母親の人生を左右する重大な決断を下さなければならない。自分の気持ちにとことん向き合った末、結局彼女はどちらの選択肢もとらず、母親が自力で回復するまで看病し続けることにした。やがて母親は意識を取り戻し、快方に向かっていく。
第一稿を読んで、この脚本には二つのストーリーが存在していると私は思った。一つは、大けがを克服して人生を取り戻す母親の話。もう一つは、重大な決断を迫られるが、自らの決断で困難を乗り越え、男性への恐怖心も克服し、母親とのぎくしゃくした関係も修復する娘の話だ。
つまりこの脚本は、一つのストーリーから始まり、別のストーリーで終わっているわけだ。よくあることだが疑問が残る。いったいこれは母親の話なのか? 娘の話なのか? それとも二人の話なのか?
彼女自身にもそれがわかっていなかった。長年の経験から、私にはこんなモットーがあった。どうしていいかわからなくなったら、しばらく引いてみる。迷ったら何もするな、である。はっきりと視点が定まるまで、数週間脚本から離れてみたらいい、と私は助言した。ここで問題なのは、脚本の質でも、せりふでも、登場人物の深みや厚みでもなかった。ただ、脚本家がどんなストーリーを書きたいかなのだ。この脚本の場合、ストーリーの中心を母親から娘に変えたために、ドラマの意図もテーマも変わってしまった。作品の良し悪しや、何が正しく何が間違っているかではなく、何のストーリーを書きたいかをはっきりさせることが重要なのだ、と私は彼女に説明した。
彼女は助言どおり、しばらく何もしなかった。だがやがて不安に勝てなくなり、ハリウッドのエージェントである友人に第一稿を読んでもらった。彼は気に入り、同僚にも見せた。ところがその同僚は、「ペースがのろくて、退屈だ」と反論し、もっと動きを入れたほうがいいと言い出した。「電気ショック療法のシーンを付け加えるといい。オープニングも事故のシーンから始めたらどうかな。そうすればもっと動きが出てくる」と言ったそうだ。
これを聞いた受講生は、憤り、混乱して私のもとにやってきた。どうしていいかわからない。もっと動きのある映画らしいオープニングにしなきゃ、と彼女は言い続ける。でも私は反論した。「問題はそこじゃない。重要なのは君がどちらのストーリーを書きたいのかなのだ」と。
「もう一度ストーリーの焦点と方向を見定めるために、考え直してごらん。たとえば、母親の入院をきっかけに母娘が互いの理解と絆を深めるなんていうストーリーもありだ」とも言った。だが、彼女は首を縦に振らなかった。自分が書きたいのはそういうストーリーではない。あくまでも母親について書きたいのだ、と主張する。だったら最初の路線を崩さずに娘との関係を織り交ぜたらと勧めたが、彼女は迷い混乱したままだった。そしてもうこれ以上どうにもできないと感じた彼女は、脚本を書くこと自体をあきらめてしまったのである。
よくあるケースである。
脚本を書いていると、必ずこういった創作上の葛藤にぶつかる。それを能力向上のチャンスにするか、それとも”うまくいかない”、といってあきらめてしまうか。この受講生はせっかくいいアイデアがあったのに、最初のコンセプトが捨てられず、どんなストーリーを書きたいのか混乱してしまった。
何についての、誰についてのストーリーか
どうすれば彼女はこの問題を解決できただろうか。たとえば『海を飛ぶ夢』(アレハンドロ・アメナーバル)も、尊厳死をめぐる似たようなストーリーである。主人公のラモン(ハビエル・バルデム)は30年近く寝たきり生活をしており、魂の解放を求めて尊厳死を望む。アメナーバルは、この重いテーマの作品に、ラモンが部屋の窓から海へ飛び立つという素晴らしい幻想シーンを挿入した。それによって、非常に想像性豊かで、視覚的にも見事な作品に仕上がった。彼女だって、もっと芸術的に表現できる可能性もあったのに、途中でくじけてしまったわけだ。
アカデミー賞受賞作『ミリオンダラー・ベイビー』(ポール・ハギス)は、プロボクサーになる夢を実現するため必死の努力をする主人公が、タイトル戦の最中に致命傷を負う悲劇のストーリーだと考える人は多いだろう。もしくは、尊厳死や安楽死をめぐる倫理や法律の問題を扱ったストーリーだという人もいるだろう。
どちらの意見も正しい。けれども、本当のストーリー(テーマ)は、フランキー(クリント・イーストウッド)とマギー(ヒラリー・スワンク)二人の関係なのだ。両者の関係を支える要素――マギーの固い決意、マギーのトレーナーとなるフランキー、フランキーとスクラップ(モーガン・フリーマン)の衝突がストーリーの基盤を作っている。信心深いフランキーのような男が、安楽死を幇助できるのか? フランキーの行為は殺人なのか、慈悲なのか? いずれにせよ、根幹にあるテーマはフランキーとマギーの関係なのである。
脚本とは、何かについての、誰かについてのストーリーであり、その中に必ずテーマが存在する。自分は“何”について書きたいのか、はっきりと定義できるだろうか? “誰”についての話なのか? 目の前におかれる白紙は、約120ページ。白紙を目の前にすると怖じ気づくし、実際書くにはかなりの労力を要するものだ。最初は漠然としたアイデアや登場人物が頭を駆け巡っているが、やがて具体的になり始める。そうしたらストーリーと主人公とアクションを一本の線でつなぎ、ストーリーに不可欠な要素は何か考え、メモしなさい。この段階ではどんなに時間がかかってもよい。好きなだけ書いてかまわない。
白紙に書き始める前に、必ず知っておかなければならないこと。それは何についての、誰についてのストーリーか(つまりテーマ)である。たとえば、人妻と恋に落ちた弁護士が夫を殺害するが、実は仕組まれた罠で、弁護士は逮捕され女は遺産を手にして悠々と南国で暮らす。これはローレンス・カスダンの『白いドレスの女』やビリー・ワイルダーのフィルム・ノワール『深夜の告白』のテーマである。また『ビューティフル・マインド』(アキヴァ・ゴールズマン)には、天才数学者が精神病を克服しノーベル賞を受賞するという明確なテーマがある。
テーマは、アクションと登場人物を結んで、一貫性のあるストーリーラインを作るための指針となる。登場人物がアクションを決める場合もあれば、アクションが登場人物を決める場合もある。
“何”についてのストーリーなのか? これはなかなかの難問である。脚本は書いてみたいが、時間や労力をかけてこの難題に取り組むとなると、つい二の足を踏んでしまう。脚本を書くということは、間違いなく大変な作業なのである。
私も最初の頃は、白紙に向かうと不安や恐怖に駆られた。真っ白な120ページを埋めるかと思うと、呆然となることもあった。けれど恐怖心と格闘していくうちにわかってきたことがある。それは、脚本を執筆するということは日々の積み重ねであり、1週間に6日、1日に3時間以上、1日に3ページ以上進めていく、地道な作業だということだ。単に、白紙が私を怯えさせているだけなのだ。
テーマが明確であれば、一歩一歩書くという地道なプロセスを進むことができる。脚本とは、ドラマという構成の中で、会話とト書きで表現する、“映像で語るストーリー”なのである。
ドラマとしてのリアリティ
では、脚本家はいったいどこから考え始めたらいいのか? 答えは、好きなところからだ。アプローチは人それぞれだ。手堅く登場人物から始めるのもいい。
もしくはアイデアからでもよい。ただしアイデアは、具体的な形にするまでは、頭の中のアイデアにすぎない。だからアイデアを膨らまし、言葉で明確かつ具体的に表現しなさい。「臨死体験をした男のストーリーを書きたい」では不十分である。「著作権で保護できるのは、アイデアの“表現”であって、アイデアそのものではない」と法律にもあるではないか。「表現」とは、ストーリーを構成する具体的な登場人物、状況設定、構成、アクションのことである。
実話をもとに脚本を書く場合には、注意が必要だ。さもないと「実体験」をそのままなぞって終わりになってしまう。本当に効果的なドラマを作るには、「実体験」を用いながらも、その体験の持つドラマとしての可能性を広げなければいけない。両者を融合してはじめて「ドラマとしてのリアリティ」が生まれる。「誰が、何をした」、「どこで起こった」という事実に固執しすぎると、ドラマとしてのインパクトが弱くなる。ただやみくもに事実に忠実に描けばいいというものではない。
私は受講生によく言う。事実を、手放して、ストーリーに必要なことだけ書きなさい、と。優れたドラマを作るには、実際に起こったことに、実際に起こっていないことを加えることもある。それがドラマとしてのリアリティである。
たとえば歴史物の脚本を書くとしよう。時代や場所に忠実であることは言うまでもないし、史実を変えることもできない。けれども、史実を構成する日々の出来事や感情にまで忠実に書く必要はないのだ。『大統領の陰謀』(ウィリアム・ゴールドマン)、『Ray/レイ』(ジェイムズ・L・ホワイト)、『エリン・ブロコビッチ』(スザンナ・グラント)『JFK』(オリヴァー・ストーン、ザカリー・スクラー)がよい例だ。史実はあくまでも出発点であって、目的地ではないのである。
ある実話をもとに脚本を書いた受講生がいる。ハワイの女性が1880年代の始めに綴った日記がベースになっている。彼女の夫はライ病にかかり、それが町の人々に知られると、二人はのけ者扱いされ、町から追われるというストーリーだ。
この受講生は、ハワイの慣習や伝統、せりふを日記から忠実に取り出して、脚本を書こうとした。ところが、当然うまくいかない。構成を欠き、ストーリーラインが不明瞭で、退屈な脚本になってしまった。
彼女はどうすればいいのかわからず、イライラし始めた。私はアドバイスした。実際に起きたことでなくても、ストーリー展開の助けになるシーンを考えてみなさい、と――これをクリエイティヴ・リサーチと私は呼んでいる。一週間後、彼女は新しいシーンをいくつか考えてきたので、その中からストーリーラインに最適なものを組み込んでみた。たしかに事実ではなかったが、題材の本質を捉えたシーンであり、それを付け加えることでストーリーは花開いた。脚本の執筆で
一番難しいのは、何を書くかを知ることだ。
具体化することでテーマは明確になる
脚本は場所から入るという人もいる。けれど特定の場所を設定しても、それだけでは不十分だ。そこに登場する人物や起こるアクションを考えなければいけない。
タイトルから考えるという人もいる。それもいい。ではタイトルの次に必要なのは? プロットだ。何についてのプロットか? プロットとは、脚本の中でどんなことが起こるかである。ただし、今、白紙を前にしているあなたにとって、これは一番思いつきにくいものだろう。だから、プロットなど気にしなくていい。あとで来るべき時が来たら、考えればよい。それよりも最初に考えるべきは、テーマ(主題)である。
脚本術のワークショップで、私はいつも受講生に同じ質問をする。「何についてのストーリーを書いているのか?」すると、「いとこ同士のラブストーリーです」とか、「20世紀初頭、ボストンに住むアイルランド人一家の話です」とか、「近所の学校が閉鎖になったので自ら学校を建てる親たちの話です」といった答えが返ってくる。
こんなふうに答えが漠然としている場合には、こんな助言をする。アイデアをもっと深く掘り下げ、書きたいストーリーを自分らしく表現するにはどうしたらいいか考えなさい。これは実際やってみると、そんなに容易なことではない。もっと具体的にしなさいと繰り返し要求すると、受講生は苦しむ。だがそうしていくうちに、誰の、何についてのストーリーなのかが明確になってくる。それがテーマであり、脚本家の出発点なのである。
『テルマ&ルイーズ』も、脚本家カーリー・クーリがハイウェイを走っている時に思いついた漠然としたアイデアが始まりだった。二人の女性が旅の途中で犯罪を犯し、逃避行をする。それからクーリは、いくつか浮かんでくる重要な疑問について考え始めた。では二人の女性とは誰なのか? どんな犯罪を犯すのか? なぜ犯罪を犯したのか? 最後はどうなるのか? その答えを考えていくうちに、しだいにテーマが明確になり、ストーリーラインも決まってきた。そして完成した『テルマ&ルイーズ』は実に見事な作品であり、世界中どこの脚本術のセミナーでも、私はお手本として使っているほどだ。
結婚一週間前にサンタバーバラへワイン試飲の旅に出る二人の親友、なんていうシンプルなテーマでもよい。これは『サイドウェイ』のテーマである。いったんテーマが決まったら、自問自答してみる。二人とは誰なのか? いつからの知り合いか? 仕事は? どんな出来事が旅の最中に起きるのか? 最後に二人はどうなるのか? 旅によって二人は変化するのか? 旅の始まりの二人はどんな状態で、なぜワイン試飲の旅に出るのか? このストーリーでは、二人は旅をするうちに人生、友情、そして夢を模索するチャンスを得る。
テーマという出発点がはっきりすれば、ストーリーは明確になり、独創的な広がりをみせる。
テーマの設定は執筆の出発点である
脚本の執筆は、プロセスである。一歩一歩段階を踏み、着実に準備することが肝心だ。まずはアイデアを考え、テーマと主人公とアクションに分けて考えてみる。テーマが決まったら、それにしたがって、結末、発端、プロットポイントⅠ、プロットポイントⅡを決め、構成する。それが終わったら、主人公の年表を書き、必要なリサーチをしながら、具体的に肉付けしていく。それから第一幕(第二幕、第三幕も)のシーンやシークエンスを14枚の5×3情報カードに書き入れ、バックストーリ――ストーリーが始まる前日や一週間前にがあったか――を考える。これらの段階をすべて完了してはじめて、実際に脚本を書き始めることができるのである。
そして脚本の第一稿が完成したら、書き直しをくり返し、読むに値するまで完成度を上げていく。脚本の執筆は、日々変化する生き物のようなプロセスだ。今日書いたものが明日には時代遅れになることもあるし、明日書いたものでも、翌日には古くさくなるかもしれない。だからこそ、何を書くのか、何を書いているのかを明確に意識しながら進まなければいけないのである。
同じジャンルや題材の作品であっても、テーマによってストーリーの描き方は大きく変わる。だから、テーマが明確かどうかがとても重要なのだ。たとえば『プライベート・ライアン』(ロバート・ロダット、フランク・ダラボン)、『シンドラーのリスト』(スティーヴン・ザイリアン)、『突撃』(スタンリー・キューブリック)、『地獄の黙示録』(ジョン・ミリアス、フランシス・フォード・コッポラ)などは、戦争が払う犠牲について興味深い視点を提示した作品であり、『スリー・キングス』(デイヴィッド・O・ラッセル)は、勝者と敗者に人道的な視点から光を当て、人命や物理的な損失だけでなく、精神的ダメージや文化の崩壊も伴う、という戦争の本質をえぐった素晴らしい作品となっている。
『スリー・キングス』のストーリーは、湾岸戦争休戦協定成立の翌日から始まる。3人の兵士(マーク・ウォールバーグ、アイス・キューブ、スパイク・ジョーンズ)と上官(ジョージ・クルーニー)は捕虜のイラク兵から手に入れた謎の地図を解読し、数百万ドル相当の金塊がシェルターに隠されていることを知る。宝探しに出発するところからストーリーは始まるのだが、待ち受けていたのは必死に助けを求めるイラクの人々だ。彼らに出会ったことが、肉体のみならず精神に及ぼす戦争の影響というテーマの出発点となっている。
ケネス・ロスの戯曲を映画化した『英雄モラント/傷だらけの戦士』(ジョナサン・ハーディ、ブルース・ベレスフォード)では、オーストラリア人の士官モラントが、ゲリラ戦という野蛮な、方法で敵と戦った罪で軍法会議にかけられ、有罪となり銃殺される。実はこのゲリラ戦はトップにいるイギリス将校たちの命令だったのだが、彼らは関与を否定する。そ知らぬ顔でモラントに罪をきせ、自分たちの行動の正当性を世間にアピールする英陸軍。似たようなストーリーがよくあるではないか。
どんなストーリーを語るにしても、出発地点は必ず白紙である。
どんなジャンルの脚本を書くにしても、何について書きたいのか曖昧だと、それが脚本に表れる。逆に、テーマが明確に把握できれば、アクションと主人公が決まり、ドラマとしてのストーリーラインがはっきりと見えてくる。これが出発点だ。
そして、次は構成にとりかかろう。
EXERCISE 練習問題
自分のアイデアをもとに、ストーリーにかかわるアクション(何が起きるか)と主人公(誰に起こるのか)を考えなさい。いい考えが浮かんだら、メモしなさい。そして、何についての、どんなストーリーを書きたいのかを明確にして書きなさい。何ページになってもかまわない。
それが終わったら、書いた文章を3つの段落(発端・中盤・結末)に分ける。主人公を決め、どんなアクションが起き、それが主人公にどんな影響を与えるかを具体的にしながら、各段落を数行にまとめなさい。
テーマについては、TVガイドのログラインを参考にしてもよい。主人公を決めるのはさほど難しくないかもしれないが、アクションは少しやっかいかもしれない。結末はどうなるか? 結末もテーマの中に組み込みなさい。ただしこの段階では、アクションは細かく考えすぎず、大まかに説明できれば十分だ。
忘れないで欲しい。何について書くのか(=テーマ)を明確にするのに、何ページも書いてみないとつかめないこともある。その際には、きちんとした文章にする必要はない。メモでも箇条書きでもかまわない。重要なのはそのプロセスである。いろいろ書いたメモや文章の中で、主人公やアクションを決定するヒントになりそうな箇所にアンダーラインを引く。具体的なイメージをつかむために主人公に名前をつけてもよい。思う存分時間をかけて、漠然としたアイデアを、二行程度の文章で、明確で具体的な形にまとめなさい。書けたら声に出して読み、さらに推敲を重ね、簡潔なテーマにする。
これが脚本執筆プロセスの第一歩である。
(ぜひ本編も併せてお楽しみ下さい)
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