シド・フィールドの脚本術

『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』第1章 映画脚本とはなにか

『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』シド・フィールド=著



第1章 映画脚本とはなにか


「あなたが事務所にいるとしましょう。そこへ、見覚えのある美人の速記者が入って来る ……黒い手袋を脱ぎ、取り出した財布の中身をテーブルにぶちまける……10セント硬貨二枚 と5セント硬貨一枚、マッチが一箱。彼女は、5セント硬貨をテーブルに残して、10セント硬貨二枚を戻すと、ストーブに黒い手袋を放り込む……その時、部屋の電話が鳴り、彼女が 受話器をとって話し始める――聞き入る――『黒い手袋? そんなもの、生まれてこのかた、一度だって持ったことなんかないわ』 そう言って受話器を置き……その時あなたは突然部屋を見渡し、男がいることに気づく。男は、彼女の一部始終を見守っている……」

「続けて」とボクスレーは微笑んだ。「それから何が起こるんだい?」

「分かりません」スターは答えた。「僕はただ、映像を思い浮かべただけです」

『ラスト・タイクーン』(F・スコット・フィッツジェラルド)


 フィッツジェラルドの悩み


 1939年の夏、F・スコット・フィッツジェラルドは、酒におぼれ借金にまみれ、自信喪失のなかで喘いでいた。新しいスタートを切るためにハリウツドにやって来た著名な小説家である彼は、救いを求めていたのである。


 ハリウッドでの2年半の間、フィッツジェラルドは、脚本の技術を真剣に学ぼうとした。その努力は、涙ぐましいものであった。フィッツジェラルドはすべての脚本依頼に対して小説家として、アプローチし、会話を書き始める前には、キャラクターの精緻な履歴を作成した。


 そのような入念な準備にも関わらず、彼の心には、ずっとある疑問が引っかかっていた。


「脚本をよくするには何が必要か?」


 彼は、その答えを探すことに躍起になった。


 ビリー・ワイルダーはかつて、フィッツジェラルドを、配管工事を任された偉大な彫刻家に例えた。


「彼は、どのようにしてパイプをつなげば水が流れるのか、分からなかったのさ」


 ハリウッドフィッツジェラルドは、常に、話される言葉と映像のバランスを考え続けた。だが、 彼の名前は、ハリウッド映画にたった一度しかクレジットされなかった。その作品は、エーリッヒ・マリア・レマルケの小説『Three Comrades』を脚色した『三人の仲間』(監督フランク・ボーゼージ)であった。しかも、フィッツジェラルドが書いた脚本は、結局、ジョセフ・L・マンキウィッツに書き直されてしまった。その後フィッツジェラルドは、『風と共に去りぬ』などいくつかの脚本の描き直しに参加したが、プロジェクトはすべて失敗に終わった。そして、 1941年にこの世を去った。未完成の小説『ラスト・タイクーン』が遺作となった。 彼は脚本家としての自分の才能に失望しながら死んでいった。


 私はかねてより、フィッツジェラルドに興味を持っていた。彼がずっと、脚本にとって何が重要かということを探求していたことに共鳴していたからだ。フィッツジェラルドを取り囲んでいた状況は悲惨だった。妻ゼルダの統合失調症、借金癖と自堕落な生活、過度の飲酒。それらは、フィッツジェラルドの脚本執筆にとって、大きなマイナス材料であった。


 しかし間違ってはいけないが、脚本技術は学ぶことができるものだ。フィッツジェラルドは非常な努カをし、しっかりとした規律をもち、責任感を持っていた。


 にも関わらず、望んだような結果を得ることができなかったのだ。


 それはなぜか?


 いくつかの理由があるだろう。この時の彼の書いた本や、文章、手紙を読むと、彼は、“脚本が何であるか”ということに確信を持てなかったのだ。“自分がしていることが正しいのか? 素晴らしい脚本を書くために従うべきルールがあるのか?”ということに常に悩んでいたのである。


 私は、カリフォルニア大学バークレー校で英文学を学んでいた時、『夜はやさし』の初版と第二版を読んだ。それは、 精神科医の男が治療にきた患者と結婚して、身を滅ぼすというストーリーである。当時のフィッツジェラルドの最新作であったが、失敗作という評価が下されていた。


 初版の第一部はローズマリー・ホイトの視点から書かれていた。彼女は若手の女優で、ディック・ダイバーと妻のニコールがフランスのリビエラ海岸でピクニックをしているのを見かける。彼女の目には、ダイバー夫妻は理想的な夫婦のように映っている。金持ちで、美しく、知的である。彼らは、すべての人が望むものを持っているように見える。


 第二部では、物語の焦点はダイバー夫妻の生活に当てられる。ローズマリーの視点を通して見えてきたものは、実際とは違っていて、本当は彼らが大きな問題を抱えており、それによって、精神的にも感情的にも夫婦関係が渇ききっているという事実であり、結局はそれが命取りになってしまうのである。


 初版の売れ行きは芳しくなく、フィッツジェラルドは、酒の飲み過ぎで、自分の頭の中が混乱してしまったのではないかと悩んだ。しかし、ハリウッドでの脚本家としての経験から、主要なキャラクターを早い段階で登場させなかったのが問題であったと考えるようになる。彼は、「主人公のディック・ダイバーを中盤あたりまで隠していたのは、大きな間違いであった」と編集者に語った。


 第二版では、最初のセクションと第二セクションを入れ替えて、ディック・ダイバーのストーリーから小説を始めることにした。それによって、戦争時のことや、結婚に至るまでのふたりの関係性を説明できるからである。だがそれでも売れ行きは伸びず、フィッツジェラルドは再びショックを受けた。


 このエピソードで私が驚いたのは、フィッツジェラルドが初版を評価しなかったことだ。


 最初のセクションで、ローズマリーがダイバー夫妻を観察することに焦点が当てられているのは、小説的というよりもより映画的であるといえる。映画的にはすばらしいオープニングであり、他者の目を通して主要キャラクターを設定していくという見事なエスタブリッシング・ショット(場面の場所や状況を説明するショット)である。


 初版で、フィッツジェラルドは、“世間的には理想的な夫婦だが本当はずいぶん違っている” という表現方法を使っている。改訂にあたってこのオープニングを変えてしまったのは、フィッツジェラルドが脚本技術に自信が持てなかったからではないか、と私は思う。


 フィッツジェラルドは、文字通り二面性をもつ芸術家であった。作家としての才能には恵まれていたが、脚本ではその才能を発揮できないという不安を常に抱えていたのである。


 映画脚本とは、映像で語られるストーリーである


 脚本は技術でおり、芸術である。私は、数千もの脚本を読んでいくうちに、常にいくつかの点をチェックしながら読むようになった。


 まず、ページがどのような状態であるかを見る。

 余白部分がじゆうぶんにあるか?

 パラグラフの密度が濃すぎることはないか?

 会話が長過ぎないか?

 またその逆もしかりで、ト書きが短かすぎないか?

 会話の内容が薄すぎないか?


 そうしたことをチェックしたうえで読み始める。単なるページ上の見え方を、まずチェックするのである。驚くかもしれないが、多くの脚本は、まずはこうした見た目だけでゴーサインが出されている。見た目だけで、プロとアマの判別ができるのである。


 現在、運転手、医者、弁護士、レストランのウェイターなど、あらゆる人々が脚本を書いている。


 昨年一年間で、そうして書かれた7500本以上の脚本が、アメリカ脚本家協会に集められた。そして、そのうち4、500本ほどしか製作されていない。


 よい脚本のポイントとは何だろう?


 答えは山ほどある。なぜなら脚本のスタイルは自由だからだ。だが、もし本格的に脚本を書こうと思うならば、まずは脚本が何なのかということを知らなければならない。脚本のあるべき姿とは何かを。


 脚本は小説ではない。戯曲ともまったく違う。


 小説の特質はストーリーが主人公の目を通して展開されるという点にある。読者は主人公の考え、気持ち、感情、動作、思い出、夢、望み、野心を理解し、感情移入することでそれらを共有する。そして、主人公と読者は一緒に物語の 中を進んでゆく。主人公がどのように動き、感じ、反応し、理解していくかということが手にとるように分かるのである。


 そこへ別のキャラクターが登場すると、ストーリーには視点が増えることになる。しかし、主眼は常にキャラクターに置かれている。キャラクターがストーリー自体なのだ。小説では、アクションはキャラクターの頭の中で行なわれるのである。


 演劇はまた別である。アクションやストーリーの流れは、ステージ上ですべて行なわれる。そして観客がそれをのぞき見るのである。キャラクターは、自分の役どころ、感情、過去などをすべて語る。演劇におけるアクションは、ステージの演劇空間の中だけで行なわれる。感情やアクション、気持ちなどは、台詞として言葉で話されるのである。


 映画の脚本は、 小説や演劇とは違う。映画は基本的なストーリーをドラマにする視覚的な媒体である。映像と音で語るのである。


 時計がかちかちと進んでいる。

 窓が開いている。

 誰かがバルコニーに横たわっている。

 タバコを吸っている。

 背後では電話が鳴っている。

 赤ちゃんが泣いている。

 犬が吠えている。

 カーブを曲がってくる車の中で、ふたりが笑っているのが見える。


「ただ映像を思い浮かべただけです。」(フィッツジェラルド)


 脚本の本質は、映像を扱うという点にある。ストーリーを語る会話とト書きが、劇的な構造を持つ文脈の中に、映像によって配置されたものであると言えよう。


 これがもっとも重要な本質である。


 なぜなら、脚本は、映像で語られるストーリーだからだ。


 そこで、新しい疑問が湧きあがる。すべてのストーリーが持っている共通点は何か?


 それは“発端”“中盤”そして“結末”があるということである。


「その通りの順番である必要はないが」とジャン=リュック・ゴダールは言ったが、脚本は、そのかたちを作り出す基本的で直線的な構造を持つ。それによって、個々の要素やいろいろなものが、一つのストーリーラインにまとめられるのである。


 脚本の構造の原理を理解するために、言葉を分析してみよう。


 構造という言葉は、そもそも、それぞれ関連性のある二つの意味を指している。


 一つ目の意味は、「築く」や「何かを一つにする」である。


 二つ目は、「部分と全体との関係性」という意味である。


 部分と全体。これは重要な特徴である。


 部分と全体との関係性とは何か?


 それぞれどのように分類されるのであろうか?


 チェスを例にしてみよう。チェスは四つの部分からなる。


 駒。

 プレーヤー。

 盤。

 ルール。

 これらの四つの部分によってはじめて全体になる。部分と全体の関係によってゲームとして成り立っているのである。


 この考えはストーリーにたいしても当てはめることができる。ストーリーを全体と仮定すると、ストーリーを構築するいくつかの要素があることに気づく。


 その要素とは、動き、キャラクター、葛藤、シーン、シークエンス、会話、アクション(行動)、第一幕、第二幕、第三幕、出来事、ェピソード、事件、音楽、場所などである。


 これらの要素が部分となって、ストーリーという全体を成立させている。これが関係性である。


 よい構成は、氷と水のようなものだ。氷は結晶構造を持っている。水は分子構造である。


 氷が溶けてしまったら、どの分子が氷のものであるのかを示すことはできない。


 構成とは、ストーリーを一つにしておく糊のようなものだ。構成は、ストーリーにとって基礎であり、土台であり、骨格である。構成という関係性によって、脚本は一本にまとめられているのである。これが物語構造のパラダイム(見取り図)である。


 脚本のパラダイム(見取り図)を知ろう


 パラダイムとは、物の見方であり、概念的枠組みである。


 例えば、テーブルのパラダイムは四つの足がついている天板である。そのパラダイムの中では、背の低いものも高いものもテーブルだ。丸、長方形、八角形の形をしていてもテーブルに変わりはない 。ガラス、木、プラスチック、といった素材の違いに関係なく、テーブルというパラダイムは変化しない。脚本の見取り図のようなものを描いてみると図1のようになる。


 これが脚本のパラダイムである。分解して説明していこう。




 第一幕状況設定


 脚本は映像によってストーリーを語るものであり、共通して“発端”“中盤”“結末”の三つの部分を持つ。


 画像で語り、会話とト書きで表現していく。それらはドラマ構造の文脈内で行なわれる。


 アリストテレスはドラマのこの三要素を、時間、場所、そしてアクションであると言っている。


 ほとんどのハリウッド映画は2時間ほどの長さである。外国語映画はそれよりも短くなることが多い。しかし、多くの場合、2時間を少し過ぎるか、それよりも短いかという長さだ。これが標準的な長さで、今日、製作者とプロデューサーの間でかわされる契約書には、映画は2時間8分以内で納入されなければならないと書かれていることが多い。脚本では128ページの長さになる。


 なぜか? それは経済的な理由からである。映画の時間が短ければ一日で上映できる回数も増え、しかも製作費を抑えることができる。興行的には、そのほうがメリットが多い。映画はショービジネスであるが、製作費の高騰とともに、ショーというよりもむしろ、ビジネスの側面が強くなってきた。


 これを頭に入れて、分析していこう。


 脚本の1ページはスクリーン上では1分になる。アクション主体か会話主体か、またはその二つを折衷した脚本であるのかということは関係ない。ページ数と時間はほぼ一致する。分かりやすい目安である。もちろん例外もある。『ロード・オブ・ザ・リング』の脚本は118ページしかないが、本編は3時間を超えている。


 第一幕(発端)は、20から30ページの長さである。そしてここでドラマの文脈の設定が行なわれる。文脈とは、ものごとが進行するための一つの枠組である。


 たとえば、グラスの中の空間が文脈である。それは中身を一つに保っている。中身が変わろうとも、グラスの中の空間は変化しない。


 文脈は中身を一定に保つ役割をする。


 ドラマ構造の中で、第一幕は、ストーリーを立てて、キャラクターを設定し、ドラマ上の前提を示す。そして、状況を説明し、主要キャラクターとその他のキャラクターとの関係を設定する。


 脚本家は10分程度で、これらを組み立てなければならない。なぜなら、観客は往々にして、10分程度でその映画が好きか嫌いかを決めるからだ。何が起こっているのか分からなかったり、オープニングが漠然としていて退屈であると、観客の集中力は途切れてしまう。


 映画に行った時に、何分でその映画を評価するか、ということを考えてみるといい。目安は、ジュースでも買ってこようかと思い始めたり、座り方を変えたりし始めたら、製作者の負けである。


 10分は10ページである。この最初の10ページが脚本上最も重要な部分である。


『アメリカン・ビューティー』(アラン・ベイル)では、娘のジェーン(ソーラ・バーチ)と彼氏のリッキー(ウェス・ベントレー)の短いビデオシーンから始まる。そしてすぐに、レスター・バーナン(ケヴィン・スペイシー)が住んでいる通りが映る。ナレーションで、彼の最初の声が聞こえてくる。


「私の名前はレスター・バーナン。42歳で、1年以内に死ぬ。とはいえ私はもうすでに死んでいるのだが」


 そして、レスターの一日が始まる。起きて、自慰をする(一日で最高の瞬間だと彼は言う)。次に家族関係が描写される。これらは、最初の数ページ内で組み立てられている。


「妻と娘は、私のことを負け犬だと考えている。確かにそのとおりだ。何かをなくしたのだ。それが何かは分からないが、何かを失なったのだ。この脱力感は何なんだ。でも、それを取り戻すには、まだ、手遅れということはないのだ」


 こうして、ストーリーがどのようなものなのかということが分かってくる。レスターは、諦めて捨て去った人生をやり直そうとする。そして、人間として立ち直ろうとするのである。


 最初の数ページ以内で、キャラクターの説明があり、ドラマの前提が示され、状況が明されている。


『チャイナタウン』(ロバート・タウン)では、1ページ目で、主要キャラクターのジェイク・ギテスが、私立探偵で、秘密裏に事を運ばなければならない種類の仕事のプロであることが示される。カーリー(バート・ヤング)に、カーリーの妻が公園でセックスをしている写真を見せることでこのことが分かる。そして、ジェイク・ギテスがこのような調査を得意としている、ということもよく分かるのである。2、3ページ後で、モーレイ夫人(ダイアン・ラッド)が登場し、ジェイク・ギテスに「夫が誰と浮気しているのか」を調べて欲しいと依頼する。これがドラマ上の前提になる。つまり、この問いの答えを求めてストーリーの中に入っていくからである。ドラマ上の前提とは、これは何に対する脚本なのかという提示である。これによってドラマの主眼が生まれ、ストーリーを結末まで運ぶのである。


『ロード・オブ・ザ・リング』(フラン・ウォルシュ、フィリッパ・ボウエン、ピーター・ジャクソン)では、最初の6ページで指輪の歴史が語られる。そして、それが恐ろしい魔力を持っていることも示される。3つのストーリーを設定するきれいなオープニングである。ガンダルフがホビット庄に到着した時にも、ストーリーの設定が行なわれる。ここで、フロド、ビルボ・バギンズ、サムが登場する。こうして、彼らがどんな暮らしをしているのか、指輪がどのようにストーリーに登場するのか、ということが語られる。中つ国の様子もここで知ることになる。このオープニングで、『旅の仲問』の残りの部分と、二つの続編、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』と『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』の状況設定がなされる。


『刑事ジョン・ブック目撃者』(アール・ウォレス、ウィリアム・ケリー)では、最初の10ページで、ランカスター郡でのアーミッシュの生活が描写される。脚本は、レイチェル(ケリー・マクギリス)の夫の葬式の場面から始まり、次にフィラデルフィアに移動して、彼女の息子が、覆面捜査官が殺されるのを目撃してしまうシーンになる。そして、主人公であるジョン・ブック刑事(ハリソン・フォード)とレイチェルの関係が築かれる。


 第一幕の全体を通して、ドラマ上の設定と状況が明らかにされ、アーミッシュの女性とタフな都会の刑事の関係が設定される。


 第二幕葛藤


 第二幕はおおよそ60ページで、第一幕の終わり20〜30ページから、第三幕が始まる直前である85~90ページまで続く。そこには、葛藤というドラマ上の要素が組まれる。この第二幕において主人公は、脚本の中で、達成しなければならない目標の前に立ちはだかる障害と対決しなければならない。主人公の邪魔となる障害を作り出せば、それを乗り越えて達成するというストーリーになる。


『コールドマウンテン』(アンソニー・ミンゲラ)では、インマン(ジュード・ロウ)は故郷までの二百マイルもの道を必死に戻っていく。戦争に参加するのではなく、大切な故郷にもどりたいという欲求が、内面的にも外面的にも主人公の目的となる。コールドマウンテンは、主人公が育った山であり、そして、愛するエイダ(ニコール・キッドマン)が住んでいる場所であるからだ。彼の欲求は、障害と戦い続けても薄れることはないが、結局は悲運で終わってしまう。


 文字通り、映画全体は、戦争という障害を乗り越えることと、生きたいという内面の願いを描いている。『チャイナタウン』は、探偵物語である。第二幕では、ジェイク・ギテスは、ホリス・モーレイの死の真相と水力事業汚職の黒幕を守る者たちと対立する。そして、ジェイク・ギテスが対立し乗り越える葛藤が、ドラマを形作る。


『逃亡者』では、妻殺しの真犯人に法の裁きを受けさせたいという主人公の欲求によって、ストーリーが進んでいく。第二幕では、葛藤に直面させ、主人公はそれを乗り越えていく、ということが行なわれるのだ。

 何が主人公をそうさせるのか?

 主人公は何を欲しているのか?

“ドラマ上の欲求”はなにか?


『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』では、映画全体で、フロド、サムそしてほかの旅の仲間の苦闘が描かれ、クライマックスのヘルム峡谷の戦いに進んでいく。


 すべてのドラマは葛藤である。

 葛藤なしでは、アクションは生まれない。

 アクションがなければ、キャラクターを作ることができない。

 キャラクターなしでは、ストーリーが生まれない。

 ストーリーがなければ、脚本は存在しない。


 第三幕解決


 第三幕は、おおよそ20〜30ページの長さで、第二幕の終わり85~90ページから、脚本の最後までである。第三幕は、解決という流れを脚本に持ち込む。解決は、エンディングとは別のものである。


 脚本上の解決とは何か?

 主人公は、生きるのか死ぬのか?

 成功するのか失敗するのか?

 レースに勝つのか、負けるのか?

 脱出できたのか、できなかったのか?

 夫と別れたのか、そうではないのか?

 故郷に無事に帰り着けたのか否か?


 第三幕はストーリーに解決を与える役割を果たす。ただし、エンディングとは違う。エンディングは、脚本の最後の特別なショットかシークエンスなのである。


“発端”“中盤”“結末”

 第一幕、第二幕、第三幕。

 状況設定、葛藤、解決。


 これらの部分が合わさって、全体を形作るのである。


 この関係性によって全体の形が決まる。だが、ここで一つの疑問が浮かんでくる。


 これらの三つの部分が脚本全体を形作るとしたら、どのようにしてそれぞれをつなげていけばよいのだろうか?


 その答えが、物語の転換点、プロットポイント(物語の転換点)である。プロットポイントを、第一幕と第二幕の最後に置くのである。プロットポイントとは、アクションを起こさせ、物語を違う方向性に向かわせる事件やエピソードなどを指す。


 プロットポイントⅠは、第二幕に向かわせる分岐点、プロットポイントⅡは第三幕に向かわせる分岐点である。


 プロットポイントⅠは、20~25もしくは30ページのあたりに置かれる。


 プロットポイントは、主人公に関する出来事である。


『ロード・オブ・ザ・リング』では、プロットポイントⅠは旅の始まりである。フロドとサムがホビット庄を離れ、中つ国に飛び出していくところが、プロットポイントⅠである。プロットポイントⅡは、旅の一行がロスロリアンに到着し、ガラドリエル(ケイト・ブランシェット)がフロドにホビット庄の運命を明らかにして、リングをモルドールの死の山に持っていくのをやめるように言う部分である。フロドはこうして、気の乗らない指輪の保持者になる。これは、『マトリックス』(ラリー、アンディ・ウォシャウスキー)でも同じことで、ネオ(キアヌ・リーブズ)が“the one”としての運命を背負うところが、プロットポイントIであり、これがストーリーの本当の始まりである。


『マトリックス』では、プロットポイントⅠとⅡが明確に書かれている。プロットポイントⅠでは、ネオは赤い錠剤を選び、第二幕が始まる。彼は文字通り生まれ変わる。プロットポイントⅡでは、ネオとトリニティ(キャリー=アン・モス)はモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)を救出し、ネオは、自分が“the one”であることを初めて受け入れる。


 プロットポイントは、脚本において必要不可欠な目的を持っている。それらによってストーリーは前に転がり、ストーリーラインは一つに保たれる。


『チャイナタウン』では、ジェイク・ギテスが、有力者の妻に、夫の浮気を調べてほしいと依頼される。ギテスは、その夫を尾行し、彼が若い女と一緒にいるところを突き止める。これが「状況設定」である。


 プロットポイントⅠは、新聞記事がモーレイ氏の不倫スキャンダルを書き立てた後にやってくる。本物のモーレイ夫人が弁護士を伴なって現われ、ジェイク・ギテスを訴えてライセンスを取り消させると脅す。ここがプロットポイントⅠである。


 彼女が本物の夫人だとすれば、最初に現われてジェイク・ギテスを雇ったのは誰なのか?


 なぜ、依頼してきたのか? 誰が偽物を雇ったのか?


 本物のモーレイ夫人の登場によって動きが生まれ、物語の行方を違う方向へ、つまり第二幕へ移行することになる。これがストーリーの転がりである。


 ジェイク・ギテスは、彼をはめた黒幕を暴き、その理由を解明しなければならない。その答えが、映画の残りの部分になるのである。


『コールドマウンテン』では、傷が癒えたインマンが、エイダからの手紙を受け取る。そこには、「私のもとへ帰ってきて。私のもとへ帰ってきて。それが私の気持ちです」と書かれてある。インマンは、南軍から脱走して、コールドマウンテンで暮らすエイダのもとへ帰ろうと決心する。


 プロットポイントは、必ずしも、大きくてダイナミックなシーンやシークエンスであるとは限らない。インマンや、フロドとサムのように、静かに決心する場面であるかもしれない。


『アメリカン・ビューティー』においては、娘の高校のバスケットの試合を見に行ったレスターが、娘の友達のアンジェラ(ミーナ・サヴァーリ)を見かける。これによってストーリーは前に転がり、レスターの感情の動きが提示される。


 パラダイムと公式の違い


 パラダイムは脚本の形である。今まで提示してきたページ数はあくまでもガイドラインに過ぎない。どの辺りで、ストーリーを前に進めるのかということを示しただけだ。どのようにしてストーリーを前に転がすかはあなた次第である。脚本の形が重要であって、ページ数が重要であるわけではない。ストーリー上には、ドラマの方向を転換する多くのプロットポイントがあるだろう。ただ、プロットポイントⅠとⅡを強調したのは、この二点が、脚本上、ドラマ構成の土台になるからだ。


 プロットポイントⅡは、プロットポイントⅠとまったく同じである。これによってストーリーがさらに前に進むのである。転がりである。前述のとおり、おおよそ80ページから90ページの問に置かれる。


『チャイナタウン』のプロットポイントⅡは、ジェイク・ギテスが、モーレイ氏が殺された池で、べっ甲縁の眼鏡を見つけるところである。この眼鏡は、モーレイ氏か殺害者の持ち物であることが判明する。


 これによって、ストーリーが解決に導かれる。


『コールドマウンテン』のプロットポイントⅡは静かなシーンである。


 インマンが、サラ(ナタリー・ポートマン)に出会う。そして、彼女と赤ん坊を北軍から守ったあと、ブルー・ブリッジ山が見えるところまでたどり着く。脚本では、「そのどこかに家がある。そしてエイダも。そして旅を続ける」これだけの小さいシーンである。


 しかし、彼がやっと帰ってきたのだという感情を際だたせる。これによって、第三幕の解決に向かわせるのだ。


 よい脚本はパラダイム通りに書かれてある。しかし、よく組み立てられ、パラダイムに合っているということで、よい脚本やすばらしい映画が生まれるわけではない。パラダイムは一つの形であるが、公式ではない。構成は、ストーリーを一つにまとめるだけのものなのだ


 パラダイムと公式の違いは何か?


 コートやジャケットのパラダイムは、二つの腕と、前と後ろの生地である。その形の中ではどんなにバリエーションを変えたり、色を変更しても、形は保たれたままである。


 公式はこれとまったく異なる。公式は変化しない。要素が集められ、一つに合わさると、まったく同じものが出来上がる。コートを工場のラインにのせてしまうと、同じコートが出来上がる。同じ形であるし、同じ素材であるし、同じ色であるし、同じ裁断であり、同じ材質である。コートは、大きさを除いて、変化しない。対照的に、脚本はそれぞれ独自であり、個々に存在するものである。


 パラダイムは形であり、公式ではない。それによってストーリーが一つにまとまるのである。ストーリーの骨格である。そしてストーリーによって、構成が決められてゆくのだ。構成によって、ストーリーが決定される訳ではない。


 脚本上の構成は、ドラマの解決に向かう一連の事件、エピソード、出来事の直線上のつながり、と言い換えることができるだろう。


 どのような構成スタイルを使うかということで、脚本の形が決まる。


「めぐりあう時間たち』(ディビット・ヘア)では、三つの違う時間、年代でストーリーが進む。そして、明確な構成を持っている。


『アメリカン・ビューティー』も同じである。すべて、フラッシュバックでストーリーが語られる。これは、ウディ・ アレンの『アニー・ホール』でも同じである。


『コールドマウンテン』でもフラッシュバックは使用されるが、明確な“発端” “中盤” “結末”がある。


『市民ケーン』もフラッシュバックが使用されるが、それによって形が崩されることはない。


 パラダイムは、例えるならば、モデルであり、概念上の枠組みである。これが、よく構成された脚本のかたちであり、発端から結末まで展開されるストーリーラインの外観である。脚本は、パラダイムに従うことで機能する、実際に映画を見て、自分でその構成を確かめてみるとよい。


 中には“発端” “中盤” “結末”という形を信じない人もいるだろう。芸術は、人生のように、始まりも終わりもなく、いくつかの瞬間によって成り立っているのだと言うかもしれない。カート・ヴォネガットが言うところの「行き当たりばったりの瞬間」を適当にまとめたものであると言うかもしれない。


 しかし、それには同意できない。


 誕生、人生、死。


 これらは“発端” “中盤” “結末”そのものではないだろうか?


 春、夏、秋、冬、これらも発端と中盤と結末ではないだろうか?


 朝、昼、晩。これはいつも同じであるが、またいつも違うものである。


 星もしくは宇宙の誕生と死を思い浮かべてみよ。ビッグバンのような、始まりがあって、そして終わりに向かうのではないのか?


 体の細胞を考えてみよう。どれほど飽和し、蓄えられ、そして再生産されるのか? 7年が体の細胞にとってのサイクルである。生まれて、働き、死んで、また生まれるのだ。


 脚本も同じである。明確な発端があり、中盤があり、そして結末がある。


 パラダイムや、アリストテレス以来の三幕構成を信じないなら、映画を見に行き、それがパラダイムに合っているのかどうか確認して欲しい。


 もし、脚本に興味があり、自分も書いてみようと思うなら、常にこれを心がけておかなければならない。見る映画すべてが勉強になる。映画とは映像で語るストーリーなのだということが、はっきりと理解できる。


 形や、構成をよく知るためには、できるだけ多くの脚本を読むべきである。出版されている脚本も多く、書店にいけば置いてあるだろうし、ネットで注文もできる。今なら、ウェブ上に無料で置いてあることもあるだろうし、中にはお金を払わなければならないものもあるだろう。


 私は、生徒には『チャイナタウン』『ネットワーク』(パディ・チャィフスキー)『アメリカン・ビューティー』『ショーシャンクの空に』(フランク・ダラボン)『サイドウエイ』(アレクサンダー・ペイン、ジム・ティラー)『マトリックス』『アニー・ ホール』『ロード・オブ・ザ・リング』を読み、勉強させている。


 これらの脚本はすぐれた教材である。もし、これらが手に入らなければ、どの脚本でもいい、すぐに読み始めるべきである。多ければ多いほどよい。


 パラダイムとは、よい脚本の土台であり、ドラマ構成の基礎である。


(ぜひ本編も併せてお楽しみ下さい)

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