四十五日目:剣の道に生きる魔女 第五話

 亜耶が廊下を駆けていくと、視線の先にある道場には多くの観衆が集まり、歓声が飛び交っていた。

 人混みをかき分けて前へ進み、ようやく試合が見える武道場の出入口まで近づいた。

 すでに試合は始まっているようだった。

 畳敷きの道場の真ん中では、竹刀を構えた両者が一気に駆け寄る。

 周囲の女生徒の大半が木下を応援するなか、亜耶は精一杯の声をあげた。

「がんばれぇっ! よういちぃーっ!」

 り合った竹刀を払った木下が鋭く突きを放つが、それを間一髪で避ける洋一。

 しかしそれでバランスを崩してしまう。

 がら空きの胴へ向けて木下が狙う。

 洋一はぐっと踏みとどまり、手首を素早く返して、かろうじてそれを受けた。

 そのまま下から相手の竹刀を払い上げると、空いたところへ一気に打ち込む。

 だが、それよりも早く。

 道場に鳴り響く竹刀の乾いた音。

 洋一が払い上げた竹刀の反動を利用した木下は、両手に力を込めると頭上から一気に振り下ろしたのだった。

 それは洋一の面を捉えた。

 主審と副審の教員たちが、一斉に旗を上げる。

 二本先制した木下の勝利宣告だった。

 洋一は茫然としたまま立ち尽くしていたが、教員に促されて一礼する。

 一斉に歓声を上げる木下の応援団の女子生徒と、敢闘した未経験者の惜敗にねぎらいの拍手を送る男子生徒や剣道部員たち。

「うそっ? 洋一、負けちゃったんだ……」

 亜耶もまた、目の前の光景を信じられないといった様子だった。

 木下は右の小手をはずすと、手を差し伸べてくる。

 洋一もそれに促されるように、小手をはずして握手する。

 勝利してもスポーツマンシップを忘れない紳士の木下くんに、女生徒たちが黄色い声を上げた。

 木下はわずかに顔を近づけて、洋一に囁く。

「剣道の試合には勝ったけど、僕はいつも君に負けてばかりだ。そして今日も負けたよ。でも勝負で負けるつもりはない。まだ諦めるのは……これからだよ」

 なにかを言い含んだあと、笑顔で去っていく木下。

 だが彼の発言よりも、試合の結果に洋一は頭の中が混乱したままだった。

 副将、大将の剣道部員どうしの試合は、残念ながら洋一チームの敗退となった。

 空いた時間は、昨年のようにリレーの応援団として校庭に陣取っていたが、亜耶の出番以外の時間はまったく声も出せず動きもせず、膝を抱えて静かに地面を眺めていた。


 全ての競技を終えて、スポーツ大会の閉会式と表彰式が行われた。

 生徒たちは、長い一日が終わりやれやれと安堵する者、口惜しさに唇を噛み締める者、応援する生徒の活躍を惚れっぽく振り返る者など、悲喜こもごもに帰宅していった。

 力無く歩く洋一に向かって、ドロッチャがふわふわと降下していく。

「お疲れ様でしたわね。残念でしたが、良かったですわよ」

 だが、洋一の様子を察した雪がドロッチャを制止した。

 すっかり燃え尽き、ぼんやりと足元を見る洋一のそばに、亜耶が駆け寄る。

「洋一の試合、ちょっとだけ見れたよ。惜しかったけど、良かったじゃない。次鋒と中堅に勝ったんでしょ? すごいよ」

「全然すごくないじゃないか……けっきょく練習しても頑張っても、こうやってダメな結果になる自分が情けなくて、どうしたらいいのか……」

 落胆して瞳を潤ませながら、西日に照らされる洋一の顔を見て、亜耶も言葉もなく彼を見守る。

 頼りない足取りで歩いているうちに、これまでの練習の疲労感か試合に負けた虚脱感からか、洋一は足をもつれさせて転倒した。

「ちょっと、だいじょうぶ? 洋一!」

 亜耶もかがんで、へたり込む彼の背中に手を置いた。

 洋一の両目から、我慢しなければと思うほどに、堪えきれない涙が溢れてくる。

「なんだっていうんだよ……こんなに頑張ってもダメなら、最初から頑張らなければよかった」

「男の子はすぐ結果とか気にするけど、そうじゃないよ。結果に向かってこんなに頑張ったってことが大事なんだから」

「悔しいな、ホントに悔しいんだよ……」

「悔しいのはわかるけどさ。洋一ひとりで二回戦にいけるわけじゃないし、チーム対抗なんだし……もしかして、木下くんに負けたから?」

「カッコ悪いとこ、亜耶に見られちゃったもんな……」

 すっかり落ち込んだ幼馴染を見ているうち、急に男の子らしく頑張っていた最近の彼の様子を思い返すと、亜耶も心を激しく揺さぶられて瞳を潤ませた。

 どちらかが気落ちしていたら、どちらかが慰める。

 これまでもずっとそうしてきたから。

 だから、今は自分が彼を助けてあげる番だというのは、すぐにわかった。

 突然に亜耶は、洋一の頭をぐっと両手で抱きかかえる。

「だいじょうぶだよ……泣き虫の洋一が頑張ったんだもんね。カッコよかったよ」

 一方の上空では、こちらも興奮して抱き合う雪とドロッチャ。

「ロッティは何をしているのかしら! もうこれは、契約達成の査定でもよろしいんではないですの? わたくしは嬉しくて、ヨーイチに長い夜のご褒美を差し上げたいわ!」

「洋一も頑張った、三枝亜耶も頑張った! めでたいではないか!」

 抱き合う互いの顔を見た途端、魔女たちは冷静になり身体を離す。

 それからは、いつもの登校と同じように並んで帰るだけだが、洋一と亜耶の距離はわずかに近くなった。

 それは二人を知らない者にはわからない、物理的な距離ではなく、互いを認め合う心の距離がぐっと縮まっていた。


やがて、二人は自宅の前までやって来る。

「じゃあまた、月曜日にね」

 亜耶が別れを告げると、洋一はおずおずと声を上げる。

「ちょっと、亜耶。その前に渡したいものがあるんだけど……」

 雪にシュシュをプレゼントしたその日から、渡せずじまいでカバンに入れっ放しになっていたクタクタの包装紙に入った商品を手渡す。

「これさ、剣道部の仮入部でわかったことなんだけど……運動部ってやっぱり汗かいたり大変じゃん。だから、良かったらと思ってさ……」

 本当は全校スポーツ大会や仮入部よりも前のテストの時に買った物だが、そこは誤魔化す洋一だった。

「えっ? なにそれ。あたしの誕生日でもないのにくれるの?」

「そう、あの、えっと、テスト前の看病っていうか、ジョギングのお礼っていうか、まぁそんな感じのやつだよ」

 亜耶が包装紙を開けると、メッシュの袋にプリザーブドフラワーやハーブの葉が入ったアロマポプリだった。

「運動部なら、こういうのをロッカーに入れておくといいかなって」

 亜耶は黙って洋一が渡した商品をじっと見ている。

「気に入ればいいな、って思ったんだけど……」

「それってあたしが陸上部だから、いつも汗臭いっていう意味じゃない?」

 ムッと頬を膨らませて、洋一の鼻先をつんと突く亜耶。

「違うって! 女子ならそういうの気にするかなって思っただけで……ごめん」

「ふぅん……せっかく洋一がくれるなら、いただいとくけど。でも女の子の繊細な気持ちはまだまだわからないみたいだから、そこは要修行ね」

「だから、ごめんって……」

 洋一に注意すると、ぷいと亜耶は自宅の中へと入っていった。

 玄関の扉を閉めると、洋一から貰ったアロマポプリを嗅ぐ。

「すごい、いい香り」

 嬉しそうにメッシュの袋を抱えて自室へと戻っていった。


 それよりもわずかに時間は戻る。

 人の気配が減り、すっかりと静かになった学校。

 武道場で、木下が居残りをして自分の防具の手入れをしていた時だ。

「木下くん、おめでとう。木下くんチームが優勝したんでしょ?」

 学級委員の有栖川が静かに語り掛ける。

 学内での異名『氷の姫』とは思えないほどに、優しくしおらしく言葉を紡ぐ。

「有栖川さん、ありがとう。でも有栖川さんのバレーチームも優勝したじゃないか。僕なんかまだまだだよ」

 視線を有栖川から防具に戻して、また丁寧に磨き始める。

「木下くんのそういう真面目なところ、すごいと思うわ……尊敬できる」

 だが、彼はほんのわずかに苦い顔をして、目を閉じた。

「いや、むしろ僕が尊敬するのは……」

 その先の言葉を待つように、有栖川は瞳を揺らす。

 次に彼が発するのは、自分の名前であると。

 しかし、それは空頼からだのみであり、彼女を激しく落胆させるものであった。

「榊原くんだよ。短期間であんなに剣道に打ち込んで、テストで成績も上げた……彼には頑張った姿を見せたい人がいるみたいだ。それが素直に羨ましい。僕はどれだけ頑張っても彼には……彼を応援してくれる人には届かない」

「そんなことないわよ。わたしもずっと木下くんを見てたけど、一生懸命に頑張ってるじゃない。だからわたしは、木下くんのことを……」

 有栖川の想いもむなしく、木下は寂しげに彼女の言葉に小さく首を振る。

「ごめん、有栖川さん……でも僕は榊原くんに言ったよ、『まだ諦めるのはこれからだ』とね。これは男どうしの約束だから」

 防具を片付けると、木下はそのままロッカールームへと歩いていく。

 有栖川は去っていく彼の後ろ姿を見ていた。

 唇を嚙みしめ、両手にぐっと力を込める。

 それは想いを寄せる木下へ向けられた感情ではない。

 会話にでてきた者への嫉妬と憤怒。そして憎悪。


 洋一が部屋のドアを開けると、途端にドロッチャが飛びついてきた。

「ヨーイチ、頑張りましたわ! さっ、はやくパンツまでぜんぶ脱いでっ!」

「やめろ! というか、会話はせめて洋一と付き合いの長い私からだろ!」

 雪はドロッチャを脇に避け、あらためて洋一に向き合う。

「スポーツ大会の結果は残念だったが……わずか二週となくここまで上達したとは、大したものだぞ。よくやった、洋一よ」

「いや、お雪のおかげだよ。指導が上手かったから、ここまでいったんだ」

 校庭で不甲斐なく泣いてしまったのを魔女たちに見られたかはわからないが、洋一は照れ隠しのように頭を掻く。

「しばらくはゆるりとするが良い。それとも、これで運動の楽しさを覚えたか?」

「いやっ! もういいよ。運動はこりごりだね」

 疲労困憊で、どさっとベッドに倒れ込む洋一。

 すると、ドロッチャが指を鳴らした。

「では、アヤと親密になる次のステップは、ベタに夏休みの旅行か、文化祭ですわね!」

「いま六月上旬だよ? 夏休みはまだ先だよ。文化祭は秋だし」

ベッドで横になる洋一の隣に腰をかけたドロッチャは、なにかを思案するかのように、わざとらしく人差し指を口元に当てる。

「あらまぁ、それだとヨーイチが死んでしまいますわね」

 洋一は、はたと雪との契約内容を思い出す。

 スポ根の青春群像劇のようなことをしているうちに、十日以上の時間を消費していた。

「そうだ、百日って言っても、もう残り半分以下になっちゃったじゃん」

「ですから、わたくしに身を委ねなさい。ユキとの契約が切れたら、もうわたくしの声や姿も感じなくなるし、触れることもできないのですわよ……」

 そっと洋一の胸元に手を置いて囁くドロッチャに、雪も呆れて頭を抱える。

「あのなぁ、ドロちゃん……」

 だが、彼女を制止しようと歩いていた雪の身体は突然に動かなくなった。

 洋一の全身もベッドに横になったまま、自力では微動だにできずにいた。

「ちょっと、お雪! 身体が動かないんだけど!」

「ドロちゃんめ、また妙な魔法を使ったな! 規約違反も何度目だ!」

 妖艶な笑みを浮かべたドロッチャは黒帽子を放り投げると、マントをゆっくりと脱ぐ。

「もしヨーイチとアヤが『本番』になっても恥をかかなくていいように、このドロッチャ様が教えて差し上げますわよ、さぁ」

 洋一の上にまたがると、彼のシャツのボタンを順に外していく。

 すると、なぜか途端におとなしく黙ってしまう洋一。

「それこそ、貞操は三枝亜耶のために取っておけ! これ、ドロちゃん!」

 ドロッチャが自身のワンピースのフックを外そうと手をかけた時。

 ふたたび室内に響くアラート音。

「最低ですわね……これなら休暇をあと半日、伸ばしておけば良かったですわ」

 魔女の認定証を開くと、またも召喚の通知が来ていた。

 そこで急に、洋一と雪の身体は、ふっと動けるようになった。

「恐ろしいおなごだな、ドロちゃんは。はよう行け」

「では、ユキ、ヨーイチ。ごきげんよう」

「あっ! ちょっと、せめて口でっていう約束は……」

 ドロッチャが足元に置かれたマントを大きく広げると、白煙とともに消える。

 室内をたゆたう煙を見ながら、洋一も静かにボタンをかけ直した。

「ところで、洋一。いま言ってたのはどういう意味だ?」

 若干、不潔なものを見るように雪が睨む。

「ん? あぁ、いやその……アグレッシブなところを僕も見習わないとって……」


 ドロッチャは魔法空間をただよい、召喚される瞬間を待つ。

 出口となる反対側の扉が開いたので、その光の先へと向かった。

 禁断の書に描かれた魔法陣の光の渦から、一気に飛び出す。

「わたくしが全国魔女協会の上位魔女、成績優秀にして容姿端麗、魔女の中の魔女とも言うべき至高の存在! ハンガリー生まれの崇高な貴族の娘! 英語読みのドロシーでおなじみ、ドロッチャ様ですわ! ひれ伏しなさい!」

 自分でつくったお決まりの前口上を述べて、召喚主と対峙した。

 今度はどんな男が召喚したか、契約を達成するためどうやって熱い相談を交わすか、などと期待をしていたが、久しぶりに女の召喚主だったので、やや落胆する。

 召喚主は足元に置かれたノートの魔法陣から出て来たドロッチャを見つめる。

「驚いた……本当に魔女っているのね?」

「あら、驚いたというくせにどっしり構えて、たいした胆力ですわね」

「そうよ。出てきて欲しいから呼んだの。そうしたら出てきた。それだけのこと」

 ドロッチャは何かに気づいたように、召喚主の姿を見る。

「あなた、日本人ですわね。それにその制服……」

「知ってるの?」

「さあ? 魔女と出会い、契約するチャンスは誰にでも開かれてますわ」

 ドロッチャは足元にある禁断の書を拾い、そこに書かれた願いを確認する。

 それを読むや、目を大きく見開くと一瞬だけ瞳を揺らした。

 召喚主に悟られぬよう静かに息を吐くと、禁断の書のページを閉じる。

「あなたの願いはわかりましたわ。これから百日以内にこの願いを達成しないと、あなたの魂を死神が冥府へと送るでしょう」

「えぇ、理解しているわ。そのためにも魔女らしい働きを頼むわよ」

 全く動じず素直にうなずく召喚主に、ドロッチャも彼女の覚悟と恐ろしい程の冷徹さを感じた。欲に駆られたごく普通の者や、根っからの小悪党は数多く見てきたが、この手の召喚主はたまに現れる。自身の破滅も辞さない者が。

「ではあらためて、わたくしはドロッチャ。あなたの名前は?」

「わたしは……」

 召喚主の女は、鼻先の眼鏡のフレームを指で押し戻して、静かに語る。

「わたしの名前は有栖川秋桜こすもすよ、よろしく」

「そう……よろしく、コスモス」

 ドロッチャは手元にあるノートに再び視線を戻した。

 召喚主の彼女が望んだこと。


『三枝亜耶に滅びの運命を与えてほしい』

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