十九日目:恋の影武者大作戦 第三話

 翌日、いつもの登校の時間。

 なんとなく以前のように背を丸めて、ふにゃりとした頼りない洋一に戻っていることを察知した亜耶が、朝のあいさつをする。

「どうしたの? テストが終わったら緊張がとけちゃったの?」

「うん、そうかもしれないな。まるで長い風邪をひいているようだったよ」

 テスト実施期間を過ぎ、学校は通常のカリキュラムに戻る。

 授業を終えて、亜耶は陸上部の部活へと向かった。

 洋一はいつものように、電算部に顔をだしていた。


 彼が電算部から退出すると、校門の脇に亜耶が待っていた。

「遅かったね、洋一。一緒に帰ろ」

「あれ? 陸上部はついさっきまでそこで練習してなかったっけ?」

「もう片づけも終わったからだいじょうぶだよ」

 亜耶と合流した後は、二人で自宅へと向かう駅に歩いていく。

 このテスト期間の亜耶の反応が気になるが、それは雪たち魔女が行ったものだとバレないように、洋一も亜耶の発言に対してはどんな言い訳をしようかと、頭の中であれこれとシミュレーションしていた。

「たぶん来週には採点が返ってくるけど、洋一のテストはどうだった?」

「なんだろ、病みあがりのせいか自分でやった記憶もないけど、ちょっと今回は成績が下がるかもしれないなって思うよ」

 亜耶はくすっと笑うと、くるりと洋一に向き合う。

「でも良かったよ。あの時の洋一。なんかすごいおさむらいっぽくて別人みたいでカッコよかった」

 笑みを浮かべる亜耶に対し、洋一はわずかに苦い顔をする。

「……それはやっぱ、病気のせいっていうか、普段の僕じゃないからよかったのかな?」

 突然に落ち込む彼の顔を見て、一体どうしたのかと亜耶が覗く。

「情けない話だよな。でもそうなりたいなって思うよ……あの、病気のせいじゃなくて、いつもしっかりしなきゃって思う」

 緊張と照れで顔を赤らめつつ、洋一もきちんと伝えねば、と亜耶の顔を見返す。

「亜耶と一緒にいると、そんなふうに思うんだ」

「そんなの気にしなくてもいいのに。あたしはいつもの洋一も、ちょっと変な洋一も好きだよ」

「すっ、好きって……」

「いつもと違くて面白いよって意味」

「……そっか」

 妙な会話で意識しすぎたか、無言になったまま亜耶とともに歩いていく。

 洋一はこの気まずい時間を潰そうと、なにか楽しい話題でもないか、なにかトピックがないかと視線をきょろきょろと周囲に送る。

 ちょうど視界の先に、書店があった。

「あっ、悪いけどちょっと寄ってもいいかな? テストも終わったし欲しいコミックを買おうと思ってたんだ」

「いいよ、入ろ」

 二人が書店の自動ドアの前に向かっていくと、先にドアが開いて店から出てきたのは、学級委員の有栖川だった。

「あら、榊原くんと三枝さん。偶然ね」

「あれっ、有栖川さんも本を買うんだ。奇遇だね」

「もちろん、本くらい買うわよ」

 有栖川は肩からさげた通学カバンをしっかり抱えたまま、二人が入店するのを見守っている。

「あっ、じゃあ僕らはこれから買い物するから、それじゃ」

 障りない無難なあいさつをして、頭を掻きながら店に入っていく洋一と亜耶。

 手を振って見送る有栖川は、わずかに頬を紅潮させて小さく息を吐いた。

 店内に吸い込まれていった彼らの姿をみて、かすかな笑みを浮かべる。


「洋一のマンガ好きは子供の頃から変わってないね」

「そのくせ亜耶だって、すぐ貸してくれって言うじゃないか」

 最新刊を何冊か購入した洋一は、ふたたび亜耶とともに歩きだす。

 間もなく互いの自宅に到着するというあたりまで来た時。

 亜耶が洋一に向かって、ふたたび問い掛けた。

「ねぇ、あたしってどう思う? なんかスポーツばっかりで洋一みたいに勉強はできないし、たまに自信なくしちゃうんだよね」

「えっ? 亜耶もそういうこと考えるんだ」

 彼女の自宅の前に着いても別れるでもなく、二人はそのまま立ち話を始める。

「あたしのことバカにしてるの? だって洋一はなんかいろいろ悩んでいるみたいだけど、それって言い換えると、ちゃんと将来とか先のことを考えてるってことでしょ?」

「僕は臆病なだけだって……むしろ亜耶のほうがうらやましいよ。自分に自信が持てればもっと頑張れるのに」

「ねぇ、それって、あたしのことも頑張ってくれるの?」

 ぐっと顔を覗き込んでくる彼女の瞳を見返すと、途端に洋一の心拍が上がる。

 自分が臥せっている間にした魔女たちのせいで、亜耶の自分への心象が完全に変わってしまったのかと困惑しながら、視線を彼女の瞳から反らしてしまった。

 幼少の頃は、互いの目を見ても照れも恥ずかしさもないのが普通だったはずなのに。

「どういう意味だよ……亜耶のことって……」

「あたしが悩んだり落ち込んだりダメになったりした時に、助けてくれる?」

「当たり前だろ、小さい頃からずっと一緒だったんだから、僕らは」

 亜耶は洋一の両手をぐっと握ると、さらに顔を近づけてくる。

「ホントに?」

 洋一は顔を真っ赤にして、彼女の瞳を見つめ返す。

「ホントだって。子供の時も僕が困ってたら亜耶が助けてくれたし、亜耶が困ってたら僕が助けてただろ。これからもそうだって」

 洋一は大きく息を吐いてから、やや力を込めた明朗な滑舌で語る。

「僕がずっと一番に助けたいのは、亜耶だから」

 だが、途端に亜耶は大きく笑い出す。

「ほら、聞いた? だからヨーイチの言った通り、気持ちも大切なんだってば。ヨーイチは単にアヤと恋人になったり、アヤの前で強い男の子で居たいだけじゃなくて、アヤを大切にしたいのよ。ユキもドロちゃんも、契約担当なのにぜんぜん召喚主の想いが見えてないから、お先真っ暗闇はダークネスになーるです、ってこりゃぜんぜんダーメです、てなもんで」

 それを聞いた洋一はすぐに事態を把握した。

「おいっ、これってロッティだろ! また三人してなにやってるんだよ!」

 くすくす笑いながら亜耶がぴょんと飛び跳ねると、白煙とともに魔女たちが姿を現す。

「どう、ヨーイチ? あたしの勧誘用のお喋りは。すっかり騙されたでしょ?」

「違うのだ、洋一! 私はやめておけと言ったのだが、ロッティが聞かず……」

「でもユキもドロちゃんも聞いたでしょ? 魔法とか契約だけでなく、アヤに対して素直に想ってるヨーイチの本気ぃトークこそ、恋のホンキートンクミュージックなのよ」

 勝手に盛り上がっていた三人の魔女は、沸々と怒りを湛える洋一の顔を見て危険を察知し、ほうきや竹刀に乗り、ゆるりと上空へと浮かんでいく。

「二度とくるな! もう僕と亜耶に絡むな!」

「でもあと七十四日で死にますわよ!」

 屋根より高い上空から声を掛けるドロッチャを威嚇するように、洋一は地団駄を踏む。

「余計なことで恥かいてばっかりで、もう死んだようなもんだし、死にたいくらいだよ! 勘弁してくれって!」

 乱暴な足音とともに自宅へと入る洋一を、ふわふわと漂いながらも視線を交わし合う三人だった。


 その日の夜遅く、不機嫌そうにベッドに寝転んでスマートフォンを眺める洋一のもとに、雪だけが単独で部屋に戻ってきた。

「洋一、いま良いか?」

 だが彼は敢えて無視して、雪の声も聞こえないかのように振る舞う。

「すまなかった……ロッティもドロちゃんも悪気があったわけではない……かと言って私の入れ知恵でもない。単純に私の成績がよくないので魔女をクビにされるのでは、と心配してくれてのことだ。だが洋一の気持ちに寄り添っていなかったのであれば、それは間違いであったのだろう、許してくれ」

 それでも、洋一は雪を見ることなくスマートフォンを見続ける。

「魔女として、このお雪、洋一に悪いことをした。あらためてすまぬ」

 正座をすると横に竹刀を置き、深々と頭を下げる。

 そのまま数秒も経たないうちに、洋一が上半身を起こして声をあげた。

「もういいって言ってるじゃん。放っといてくれって。女の子に土下座させるなんて、それこそ僕のほうが悪者みたいになるじゃないか!」

「お、女の子って……洋一は優しいな。なぜにそれほど優しいのにおなごにモテないのか……」

 涙目で恨みがましく睨み返す洋一に、雪は慌てて取り繕う。

「そういう意味ではない! 他意はない! 洋一の良さを再確認しただけなのだ」

 洋一はまた雪を無視してベッドに横になると、独り言のようにつぶやく。

「どうでもいいや。もう寝るか」

「洋一、あとひとつだけ良いか?」

 雪は彼の様子を窺いながら、静かに語る。

「確かに私はやり過ぎたかもしれぬ。それはあらためて詫びる。だが、洋一と三枝亜耶、どちらにも化けて思ったのだが、お前たちは間違いなく付き合うことができる。魔女との契約期間もあるが、互いを信じて時を待つのだ」

 そして、竹刀にまたがると窓ガラスに向かって構える。

「ではまた、落ち着いたらな。洋一」

 そのままガラスを通り抜けて去っていった。

 雪もドロッチャもシャルロッテもいない、ひとりの夜。

 洋一はベッドの上で悶々とした気持ちを払うように、寝返りを打った。

「なんだよ、急にひとりってつまんないじゃん……」

 頭までふとんにくるまって、目を閉じた。


 週末を経て、翌週の朝。

 すっかり姿を消した魔女たちのせいで、静かな休日ではあったが、突然にひとりになったことで、洋一も何とも言えない鬱々とした気持ちで登校した。

 亜耶と顔を合わせると、雑談の内容は先週のテストになった。

「たぶん今日あたりテストの結果が出るよね。毎回ドキドキしちゃうよ」

「別に、上位の優秀なやつ以外の順位は掲示されないんだから、いいじゃん」

「なにそれ。別に洋一だって勉強できるって言っても、発表されるほど上位なのは数科目だけなんだから関係ないでしょ。あたし自身の順位を心配してるんだから」

 学校に着くと、教室の掲示板の前には人だかりができている。

 そこにはテストの上位成績者がさっそく貼り出されていた。

「うそっ、やだ! 洋一、ほらっ!」

 各科目の上位成績者が五人まで書かれた貼り紙を見ると、洋一は自身の独力で受けた前回よりも、どの科目も名前が明記されている頻度が高かった。

 特に魔女たちが得意とした国語、古文、歴史、数学、英語、化学などは常に男子上位の木下に肉薄したり、科目によっては逆転するほどであった。

 ちなみに、その後のホームルームでテスト結果の詳細が配布されたが、歴史以外の社会科と物理は、魔女たちが苦手らしく逆にランキング外へと落ちた。

「すごいじゃん、洋一! やっぱ病気になるくらい死ぬ気で頑張った成果だよ!」

 亜耶はまるで自分のことのように、彼の背中を叩いて喜ぶ。

 しかし、自身の努力でテストを受けていない洋一は、微妙な顔で掲示を見た。

 周囲の生徒の中には、テスト期間中だけ武士のような落ち着きを見せて取り組んだ結果、成績を上げた榊原くんに対し、称賛する者もいた。

『おいおい……これじゃ次のテストで成績を落とせなくなったじゃないか……』

 困惑したまま、自分の名前を何度も見返す。

 その時、掲示物を囲う生徒の空気がさっと変わったのを察知した。

 そこには『氷の姫』、学級委員の有栖川がいた。

 眉間にある眼鏡のフレームを指先で戻すと、掲示板の紙を見る。

「凄いじゃないの、榊原くん」

「えっ? はぁ、ありがとう、有栖川さん」

 まさかの有栖川からのねぎらいとはいえ、亜耶の前でもあるのでぎこちない笑みを返して礼を述べた時だった。

 洋一を見る有栖川の瞳の奥には、好意とは異なる奇妙な色を感じた。

「もっと頑張ってね……その調子でね」

 そのまま、自分の席へ戻る有栖川。

『頑張って、って言ったくせに、お雪たちがなんか嫌われるようなことしたかな?』

 周囲の生徒は純粋に、『氷の姫』が榊原くんを褒めたことに驚いていたが、洋一はそれ以上に彼女の視線や言葉が、頭に引っ掛かった。

 静かに自席に向かうと、教室内からもうひとつの視線を感じた。

 それはクラス男子トップの成績で、学年一の美男子、木下だった。

 彼もまた、洋一が目を合わせると、すぐに視線をそらしていく。

 今回の視線の先は亜耶ではない。間違いなく自分を見ている。

 以前、亜耶や電算部のメンバーが言っていた学校SNSの恐怖が蘇る。

『お雪たちのせいで、かえって目立つことをしてたら、今このクラスの中にも書き込みをしているやつがいるんじゃないか?』

 疑心暗鬼に駆られて、洋一も机に視線を落とし、静かに授業の開始を待った。


 放課後、洋一はまっすぐに帰宅した。

 もし雪たちが戻っていたら、言い過ぎたことを詫びなければいけないし、テストの礼もしなければ、とも思っていた。

 ふと、洋一は駅前のファンシーショップで足を止める。

 そのまま入店して、あるものを購入した。

 自宅へ戻るが、室内には誰もいない。

 洋一は窓ガラスを開けて、外に呼びかける。

「おーい、お雪。聞こえるかい? どっかにいないのか?」

 その声を聞いて、クローゼットからぞろぞろと出てくる三人の魔女。

「どうしたのだ、洋一。緊急事態か?」

「なんだ、隠れてたのか。こないだお雪が受けたテストなんだけど」

「あぁ、そのことか。あらためてすまぬ」

「なんか、凄い成績になっちゃったんだけど……かなり上位に食い込んでて」

 途端に自慢げな表情を決めて、前に出てくるドロッチャ。

「魔女の頭脳をバカにしてはいけませんわ。それに幸運にもユキがいたので、現国も古文にも対応できたのが、わたくし達の勝利でしたわね」

 つぎにシャルロッテが洋一に向かって親指を立てる。

「これで次のテストからは手を抜けないね。契約終了まであと七十日。命を懸けてアヤとお近づきになら駅近鉄、中筋町なかすじちょう。乗って急行、心は痛快ってなこと言っちゃったりして」

「用事というのは、その件か」

「うん、お雪にお礼言わないといけないと思ってさ……」

 それでも週末に強く言い過ぎたのが気まずい洋一は、ぎこちなく笑う。

「礼などいらぬ。契約中の魔女と召喚主は、対等だからな」

 本当はそれ以外の用事もあるのだが、ドロッチャとシャルロッテがいるせいで、カバンの中にしまった、あるものを取り出せずにいた。

 するとシャルロッテが退屈そうに、両手を後頭部に組む。

「あたしも休暇が終わりか……ユキの査定するついでに魔女の勧誘とか、素質ありそうな子を探してたんだけど、なかなか次の東洋の魔女が見つからないね」

「へぇ、ロッティも例のリクルートしてたんだ」

 洋一に対し、なかば投げやりに肩をすくめる。

「日本はライバルの魔法少女協会ってのが強くてさ、みんな魔女より魔法少女になりたいからね。テレビで堂々と布教してるくらいだもん。全然かなわないよ」

 シャルロッテは洋一に右手を差し出し、握手を求めてきた。

「それじゃヨーイチ。ユキをよろしくね。って普通はヨーイチが召喚主だから、逆なんだけどね。さよなら三角またきて四角ってなもんで。それじゃあね」

 洋一と手を握り交わすと、スカートをつまんで広げ頭を下げ、床を蹴って一気に飛び跳ねた。

「とぉっ!」

 そのまま、白煙とともに空中で消えていった。

 シャルロッテがいたあたりを眺めていた洋一は、室内を指差したまま雪に話しかける。

「あれ、どこかについた時に着地する古いテレビの演出みたいにやるよね、絶対」

「ロッティのことが良くわかってきたな、洋一は」

 苦笑を浮かべて同意する雪。

 その時、室内にアラート音が鳴る。

 ドロッチャが魔女協会の身分証を取り出すと、彼女の顔写真が赤く点滅し、文字が浮かび上がっていた。

「あら、新しい召喚ですの。今回はずいぶん間が空きましたわね。残念だけどお別れですわ。でもユキとヨーイチのことだし、七十日もあるなら、わたくしもひと仕事終えて帰ってくるかもしれませんわね?」

「うるさいよ、もっと亜耶のこと頑張るからだいじょうぶだよ」

「最後にうまれたままの姿になって、たっぷりとお別れのあいさつを一晩したかったのですが……残念ですわね、ヨーイチ」

 からかいの笑みで洋一の頬を撫でるドロッチャを、雪が引き剝がす。

「はやく行かぬか! 召喚主が待っているぞ」

「では、皆様ごきげんよう」

 ドロッチャがマントを振ると、白煙があがりその姿を消した。

「なんか急に静かになっちゃったね」

 それきり雪と向かいあったまま無言になると、居たたまれず視線をはずす洋一。

「さて、私は走り込みでもしてこようかな。魔法が必要になったら言ってくれ」

「ちょっ、ちょっと待ってて、お雪!」

 慌ててしゃがみ込むと、洋一は床に置いた通学カバンからラッピングされた小さな紙袋を出す。

「あの、これ、お雪にテストのお礼。たいしたもんじゃないけど」

「わ、私に礼だと……そんな気を遣わなくてもいいのに、贈り物なんて……」

 気恥ずかしそうに固辞する雪に、洋一が強引に手渡す。

「開けてみてよ」

 雪がシールをはがすと、中には紺色のシュシュが入っていた。

「いつもポニーテールを紙だか紐みたいなので結わいてるでしょ。これだとセットするのも楽だし、せっかくだから袴と同じ色のものを買ってみたんだけど……」

総髪そうがみにつかう髪留め……?」

 江戸の頃、おのこたちに囲まれて剣術に打ちこむ日々にあっても、美しい着物と髪飾りで町をゆく同世代のおなごに淡い羨望を向けていたのは否定できない。

 だが、雪は掌に収まるシュシュと洋一の顔を交互に見ながらも、未だ狼狽している。

「だって今は唯一の東洋の魔女なんでしょ? 僕ら日本代表なんだからオシャレしないとさ」

 雪が髪留めをほどいていくと、光沢のある長い黒髪がはらりと垂れる。

 それを見ていた洋一は、思わぬ美しさに心を奪われてしまった。

「なんか、髪をおろしたストレートもいいね。すごい可愛い」

「そっ、そんな可愛いだなんて……手もマメだらけだし筋肉質なのに……」

 それ以外に、照れると堅苦しい話し方でなくなるのも洋一的にはストライクであった。

 雪は髪を手で束ねると、もう片方の手でシュシュをつける。

 すると普段と違い、短時間で難なくセットすることができた。

「これでいいかな……洋一?」

「うん、色を抑え目にしたからお雪にぴったりきたね。すごくいいよ!」

 鏡を見ながら上半身をくるくると回すと、手でシュシュに触れては笑みを浮かべる雪。

「……ありがとう」

 雪は礼を言いながら洋一の手を握っていた自分にはっと気づき、慌てて放す。

 そのまま真っ赤に上気した顔を押さえながら、くるりと背を向ける。

「ちょっと走り込みして頭を冷やしてくるから……」

 混乱しているのか、彼女はドアも壁も突き抜けて走っていった。

 洋一もすぐに後を追って窓から見ていると、雪はおよそ二階の高さの上空をまっすぐ水平に駆けている。

「お雪も、かなり緊張してるみたいだな」

 洋一もほっと腰をおろしたが、カバンの中にあるもうひとつの紙袋を見る。

 これをどう亜耶に渡すかを考えると胸の高鳴りが抑えられなくなった。

 彼にとって至難の業であり遠いゴールだ。

 できれば魔法に頼らずに自分の力で、自分の気持ちとともに渡したい。

 ベッドに横になり、あれこれとシミュレーションをする。

 雪を練習台にしたつもりはないが、素直に喜んでくれた彼女の様子を思い返すとニヤニヤと笑いがこぼれた。

「お雪にもうちょっと、ちょっかいだしてみようかな。あの喋り方いいよな」

 本懐である亜耶と付き合うという契約とは違う楽しみを見出してしまった洋一だった。

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