不安な果実

藤光

不安な果実

 午後七時。約束の時刻きっかりに我那覇がなははホテルのロビーにやってきた。やや丈の短いチェスターコートに細身のズボンを若々しく着こなしている。


「どうも」

「はじめまして」


 似鳥にたとりは、我那覇から笑顔の素敵な好青年といった印象を受けた。


「似鳥先生とお会いするのは、ぼくが小説をオファーするときだとばかり思い込んでました」

「いやあ、なんだか申し訳ない」


 初対面の挨拶が奇妙なことになるのにはそれなりの理由がある。似鳥は小説家、似鳥が取材しようとしている我那覇は書籍編集者だ。


「でも、いいんですか。先生のような作家の方が、ぼく編集者なんかをインタビューして」

「もちろん。だってきみは今、話題のベストセラーを世に送り出した人なんだから」


 似鳥はそのベストセラー『不安な果実』を手にしたときの驚きを忘れられない。鞄からその本を取り出して目の前のテーブルの上に置いた。


「でも、なんだか変な感じです。作家の先生から編集者のぼくが取材を受けるなんて。いつもなら本を作るため取材に出かける立場ですからね。まるで逆さまだ」


 我那覇は自分の作った本に視線を落とすと目を細めた。


「いや、実際この本は画期的だよ。こういう形で世に送り出した人はどんなことを考えているのかと思ってね。取材のメールを入れさせてもらったんだが、迷惑だったかい」


「とんでもない。似鳥先生の作品は読ませていただいてますし、インタビューを受けるなんて光栄です。……今日の取材は新作への構想に繋がったりします?」


「たぶんね」

「しっかり答えなくちゃ」


 広いロビーに二人の控えめな笑い声が響いた。日の落ちた屋外は真冬の寒さである。ホテルに人影はほとんどなかった。


「さっそくだけど、ここ10年余りで雑誌や書籍といった紙媒体からWebメディアへと文字情報の発表媒体のシフトが劇的に進んだよね。小説に関していうと、いまや総発行点数の82パーセントが電子媒体での発行で、売り上げに至っては99パーセント以上が電子媒体によるものだ」


「そうですね」

「そこにきみはを出してきた」


 似鳥は、物思わしげな表情を浮かべている男が描かれた単行本『不安な果実』の表紙をそっと撫でた。


「よくこの企画が出版社の編集会議を通ったね」

「そこはそれなりに苦労しました」


 費やした苦労の片鱗も見せない笑顔だった。


「でも、ぼくはフリーの編集者ですし、やりたいって感じたことを実現するために力を尽くすだけですよ。金銭面でのリスクをとるのは結局出版社なんですから、ホントに偉いのは出版社かもしれません」


「でも、企画がない限り出版社もリスクのとりようがない。この本はやはりきみの手柄だよ」


 ありがとうございますと、我那覇は似鳥の言葉に照れている。


「インタビューの作法としていっておきたいんだけど、この本について知らない人も大勢いるわけだ。我々には自明のことを重ねて聞くことになるかもしれないけど、そのつもりで答えてほしい」

「本格的ですね」


 愉快そうに我那覇は笑った。


「まず、この『不安な果実』を開くと読者は皆驚くと思うんだ。なかはこうなっている」


 似鳥はテーブルの『不安な果実』を手にとってページを開いた。表紙をめくり、扉、目次、中扉とごく普通の単行本の体裁だ。しかし、中扉をめくった先、小説の本文にはいるとこの本は異様な姿を現す。


 小説の本文ページはマスが切られて原稿用紙になっており、当たり前だが整然と文字が並んでいる。しかし、並んでいるのは印刷用文字フォントではない。明らかに人の手による書き文字だ。


「見てのとおり、この本は原稿用紙を製本した体裁だ」


 口元に笑みを浮かべたまま我那覇は似鳥の話を聞いている。


「しかもこの文字は活字じゃない。手書きの文字だ。マス目の印刷はもちろん。紙の質感や手ざわりは原稿用紙そのもの。書き込まれた文字のインクの匂いまで香ってきそうだ。これは、まるで作家が書き上げた小説の原稿をそのまま製本したのかようじゃないか!」


 似鳥の口調がだんだんと熱を帯びてきた。


「しかも、ペンで描かれたこの稿が美しい。決して達筆というわけじゃないが、繊細で均整のとれた筆はこびだ。これは書道――いや、「」を鑑賞するのと似ている。しかし、「書」とは明らかにちがう。読んで心地よく、眺めて楽しい小説だ。ここには物語が描かれている。


 これは発見だよ、我那覇さん。こんな小説は読んだことがない――というか、読むと同時に、筆はこびを鑑賞して楽しむことができる作品だ。ありきたりの電子書籍に飽き飽きしていたわたしが待っていたのはこういうものだったのかもしれない! このアイデアは、きみが思いついたものなのか?」


「そうです――といいたいところですが、元々こういう形にしたいと考えていたのは、作者の小長谷貢さんなんです」


 そういって我那覇は『不安な果実』の表紙に書いてある著者名を指し示した。


 小長谷貢おはせみつぐ。似鳥もこの本の著者は気になっていた。見たことのない、未知の作家だったからだ。


「小長谷さんはもう10年以上小説を書いていますが、この本が書籍デビュー作です」

「10年?」

「はい。ネット上の小説サイトが小長谷さんの作品発表の場です。『ココカラ』というサイトですが、ご存知ですか?」


 ああ、小長谷貢はインターネットの小説投稿サイトで活動するアマチュア作家だったのか。どうりで知らないわけだと似鳥はうなずいた。


「いまの時代、サイトに小説を投稿し、Web作家を自称する人は何万人もいます。そのなかでも『ココカラ』はマイナーなサイトですが、そこには、おもしろい小説を書いている作家が何人もいます」


 そういって我那覇が挙げた職業作家だという数人の名前を似鳥はひとりも知らなかった。似鳥は自身の無知を恥ずかしいと感じるよりは、よくそんな泡沫サイトの作家までチェックできるものだと、編集者としての我那覇の仕事ぶりに感心した。


「なかでも小長谷さんは変わり種です。書きはじめた当初は、普通の――テキストデータだけの小説を発表していましたが、数年前からテキストデータに替えて画像をサイトに発表するようになったんです」


「画像?」

「ええ、『ココカラ』は、テキストデータだけでなく、画像データや音声データ、ゲームプログラムと、利用者がつくるさまざまな創作データを自由に発表することのできるプラットフォームを採用しているんです。


 そんな『ココカラ』で、小長谷さんが小説の原稿を画像データとして発表するようになったところ、それまで少なかった作品の閲覧数PVが急激に伸びたんです。当時、小説サイト界隈ではちょっとした話題になりました」


 似鳥はまったく知らなかったが、広大無辺のネット空間では、まま起こることなのだろう。手のなかの『不安な果実』の本文ページに目を落とした。


「すると、これは作者の直筆原稿ということか」

「ぼくもおもしろいと思いまして、サイトに公開されていたSNSのアカウントを通じて彼女と連絡をとりました」

「彼女?」

「そうです。小長谷貢は女性作家なんですよ」


 改めて『不安な果実』の原稿をみる。均整のとれた文字の配置、華奢で繊細な筆はこび、淀みなく流れるようなリズム。いまこの書き手が女性と知らされたからだろうか、原稿用紙に並んだ文字から彼女のひととなりが匂いたってくるような錯覚におちいる。


「そうなんです。いま似鳥先生が手書き文字から感じとった作者の息吹。作り手と読み手の距離感。それこそが『不安な果実』最大の魅力なんです。この魅力を感じてもらうため、この本はとても凝った作りにしています」


 話し始めると我那覇も興奮してきたのか、似鳥に問われずとも自ら語り出した。


「手にとる触感が感動の源と感じたので、書籍での出版にこだわりました。筆跡はすべて小長谷さんの生原稿からデータを取っています。本文ページの紙も小長谷さんが使用した原稿用紙と同じもの。手書き文字を印刷するインクも、小長谷さんが使っているペンのインクと同じものを使用しました」


 似鳥が原稿用紙が製本されていると感じたのも道理。徹底したこだわり具合である。


「現代の印刷技術は、もう魔法です。小長谷さんの原稿と寸分も違うことのないこの本が出来上がりました」


 製本されたページとページのあいだに顔を近づけて匂うインクに香りが、これ描いた作者のもつ生原稿と同じものだというのは、奇妙でありながらも温かな感覚だ。


「なにもかもがデジタルデータに変換される世の中じゃないですか」


 我那覇は続けた。


「便利ですよ。携帯端末でなんでもできるのは。でも、動画はデータ、音楽もデータ、小説も文字データです。だれが書いても、結局は同じ文字データの連なりだ。送信され、複写され、保存される実体のないデータの集まり。


 もうデータの小説はたくさんだ――って感じてしまったんです、ぼくは。たしかな実体のあるものがほしいって。データじゃない小説を読みたいって。


 そこに出会ったのが『不安な果実』でした。ぼくは小長谷さんと会うとすぐに企画を出版社に持ち込みました。そこからが大変でしたけど、同じように感じてたのはぼくだけじゃないとあるときわかって、出版は現実のものとなり、この本は売れてくれました。似鳥先生もきっとそうなんでしょう?」


 そのとおりだった。ネット世界に境目なく広がるデータ領域。そこへ苦心と葛藤の末につくりあげた小説を投げ入れるときの寄るべなさは、小説家ならだれもが味わう不安だ。


 ――こんなデータとなってしまったわたしの思いは、だれかの心に届くのだろうか。


「小長谷さんは、普段パソコンで小説を書いているそうです」

「でも、これは……原稿用紙に書いているのではないのか」


「パソコンで書いたテキストデータをプリントアウトしたものを下書きに、稿。なんだか順序が逆さまなような気もしますが、手で文章を綴ってはじめて『わたしの小説が書けた』と感じられるらしいです。


 似てますよね。この本を読んだときの感覚と。小長谷さん手書きの文章を読むと『あなたの小説をたしかに受けとった』と感じられますから」


 こうしてささやかなインタビューは終わった。満足に話せたからなのか、やってきたときよりもさわやかな笑顔を浮かべた我那覇と似鳥は握手を交わした。


「今日はありがとう。いいものが書けそうだよ」


 似鳥が編集者にぶつけたさいごの質問はこうだった。


「ほかのどんな小説とも違うこの作品を作った、小長谷貢は他の人にない特別な才能を持っていると感じたかい?」

「特別なものはなにも。あえていうなら、たくさんの好奇心とほんの少しの勇気をもっている、ですかね」


 たしかにそうだった。遠ざかる若い編集者の背中を見送りながら小説家は思った。

 



 ――好奇心と勇気こそ、わたしたちに必要なものさ。

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不安な果実 藤光 @gigan_280614

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