第5話婿殿

 寝室でアザミの帰りを待つ親父殿は、熊のような風体で、あっちにのしのし、こっちにのしのし、なにやら心配そうに歩いていた。

「…………遅い!」

 突然立ち止まると、拳を握って叫ぶのだった。

「道場に向かえば、シグレ殿の居場所など一発で分かるはず。のんびりやっても、とっくに帰って来ている頃合いだ。なのに、なぜ……」

 ドクン、ドクン……と。

 熊の如く大きな心臓が、嫌な音を経てて鳴る。

「まさか、あのアルドとかいう若造の身に、何かあったのでは……」

 なにかあったのでは、ではない。普通なら、免許皆伝の侍と本気の腕比べをすれば、無事で済むはずなどない。そんな事は、分かっていた親父殿である。

 が……。

「いやいや。相手はあのシグレ殿だぞ。巷ではうつけものなどと呼ばれているが、侍の刀の振るいどころを心得た、立派な若者だ。剣術指南で手合わせした際も、わしの面子を立てる為、わざと引き分けてくれたではないか。そのような御仁が、無意味な殺生をするなど、考えられん……」

 同じように、シオンもまた、親父殿の認めた侍だった。ゲンシン様の密命を受けて汚れ仕事をやっていると、場内ではあれこれ仄暗い憶測が飛び回っている。不器用なシオンは否定するでもなく、なにを考えているのか分からぬ顔で澄ましているせいで、悪い噂は広まる一方だ。けれど、幼少の頃から彼を知る親父殿は、シオンが妹想いの優しい兄で、自分が辛い時に友を励ます、猫好きの男だと知っている。そんな彼が、アルドを叩き斬るとは、本気では思っていなかった。

 腹立たしいが、一応は、娘の選んだ男である。

 あれこれと嫌がらせをしてしまったが、そのくらいの配慮は心得ていた。

 はずなのだが……。

 なにせ、相手はあのアルドだ。

 その辺の若者なら、とっくの昔に音を上げて、アザミの事を諦めている所を、そんな素振りは欠片も見せず、頑張っている。この親父殿の事だって、いい加減愛想が尽きて、悪態の一つでも吐いてもいいはずなのに、心から具合を心配し、病に負けるなと言ってくれた。

 そんな男だから。シオンに勝てずとも、もう一度、あと一度としつこくせがみ、シグレ殿も本気で向き合わねば男が廃ると、心を鬼にし、バッサリやってしまったなんてことは、あり得なくはないのではないだろうか……。

 そう思うと、親父殿の肝はコチコチに冷えて、ずーんと重くなる。

「……わしは、とんでもない事をしてしまったのかもしれん」

 後悔先に立たず。

 今はただ、アザミとアルドが二人仲良く帰ってくる事を祈るばかりだ。

「……父上、戻りました」

 噂をすれば影なりと、襖を開いて、娘が戻ってきた。

「アザミか! よくぞ戻った!」

 浮かぬ顔に、嫌な予感が走る。

 娘の隣には、あの、殺しても死にそうにない、しぶとい快男児の姿はなかった。

「あ、アザミよ……アルド殿の姿がないようだが……」

 渇いた口の中で、もつれた舌が転がった。

 アザミは中々答えなかった。畳の目を数えるように、じっと足元を睨み、無念そうに拳を握っている。

 親父殿の背を、つぅーと、冷たい汗が流れた。

「……アルド殿は、もう戻って来ません」

「ほ、ほう……そうか。やはりな! シグレ殿に恐れをなして、ついに諦めおったか!」

 声が震えた。そんな玉ではない事は、短い付き合いの中で、嫌という程理解していた。

 だからこそ、自分の招いた最悪の結末を認めたくない。

 ふるふると、力なくアザミを首を振る。

「そうではありません。アルド殿は、シグレ殿の手に掛かり……ぐすっ」

 アザミが涙を拭った。

「そ、そんな、馬鹿な! シグレ殿は、そのような無益な殺生をするような御仁では!?」

 アザミが頷く。

「シグレ殿も、拙者も、止めたのです。しかし、アルド殿は、シグレ殿に勝つまでは、絶対にあきらめないと、何度も、何度も立ち上がり……終いには、シグレ殿も、本気で応えねば侍の義に反すると……」

 その光景は、ありありと目に浮かんだ。

 すとんと、腰が落ちる。

「そんな……わしは……なんてことを……」

 つまらぬ嘘が膨らんで、ついには将来有望な若者の命を奪ってしまった。それも、娘の選んだ、愛しい男を……。

「……すまぬ。アザミよ……。わしは、わしは……」

 いくら父と娘の仲とはいえ、これ程の仕打ちをしてしまってはお終いだ。そう思って、恐る恐る娘の顔を覗く。

「いえ……父上のせいではございませぬ。婿選びは、飛燕天昇流の将来を決める、一大事。生半可な事では決まらぬと、元より覚悟は出来ておりました。アルド殿もただ、父上の御期待に応えようと、必死だっただけの事。誰が悪いかと申せば、選ぶ婿を間違えた、拙者が悪いのでございまする……」

 アザミの顔に、父を責める色は微塵もない。それどころか、怒りも、悲しみも、絶望も、一切の感情が消え失せていた。ただ、漂白したような、青白い空虚さだけが、寒々しくしく広がっている。

「そんな事はない! アルド殿は立派な御仁であった! わしだって、その事は本当はわかっておったのだ! それだと言うのにわしは……お前を取られるのではないかと、つまらぬ嫉妬に駆られ、試練だなどと馬鹿な事を! あぁアザミ! 本当にすまなかった! わしは、そんなつもりではなかったのだ!」

 では、どんなつもりだったのだ? 己の内で、もう一人の己が問いかける。最初から、邪魔者を消したいと思っていたくせに、この期に及んでまだ綺麗ごとを並べるとは、ほとほと呆れた男であろう! 自責の念が、沸々と湧き上がり、男の胸を締め付ける。

「そうでござるか。遅すぎたとは言え、最後の最後に父上に認めて頂けて、アルド殿もあの世で喜んでいる事でございましょう」

 つらつらと、紙に書いた文字を読むように、無感情にアザミは言う。

「して、父上。拙者としましては、自分の為に命を散らしたアルド殿を、一人で逝かせるのは忍びなく。この期に及んでは、侍らしく、潔く腹を切ろうと思いまする。親不孝は百も承知。娘の最後の願いと思い、どうか介錯をお頼み出来ませぬでしょうか……」

「は、腹を切るだと!? だ、駄目だ! そんな事、許せるはずがなかろう!?」

「しかし、拙者の気持ちは既に決まっております。アルド殿が斬られた時、拙者の命も散ったのです。父上が介錯をして頂けないのであれば、シグレ殿にお頼みするまで。短い一生ではございましたが、今までお世話になりました。こんな時に言うのもおかしな話ではございますが、父上。病に負けぬよう、健やかにお過ごしください……」

 生気の抜けた声で言うと、アザミは背を向けた。

 ふらふらと、幽鬼の如く足取り去り行く娘を呼び止める。

「待て! 待ってくれ!」

 転がるようにして襖の前に立ちはだかると、親父殿は畳に額を押し付けた。

「すまなかった! すべては、わしの嘘だったのだ! お前が恋しい一心で、危篤などと嘘を言った! アルド殿の事だって、本当は認めていたのだ! 今更詫びても遅いのは分かっている。散ってしまったアルド殿には、詫びのしようもない! 償いならなんでもする! お前が望むなら、喜んで腹を切ろう! だから頼む! この通り、お前だけは生きてくれ!」

 額がこすれ、血がにじむのも構わず、親父殿は頭を下げた。もはや、己の名誉、父の威厳など、無い物と同じ。娘を逝かせるくらいなら、なんだって差し出そう!

 そう思っていると。

「……ぅ、ぁ、ぅ……これ以上は、もう、限界でござるよ!」

 泣き出しそうな声が頭上から降ってきた。

「父上ぇ! どうかどうか! 顔を上げて下され! そのようなお姿、拙者は見たくありませぬ!」

「なにを言う! わしは、外道ぞ。もはや、お前に父と呼ばれる資格もない! いっそお前に斬られて、死んでしまいくらいだ!」

 親父殿の目から、熱いものが流れた。

「あぁ、わしはなんという事をしてしまったんだ! すまぬ、アザミよ。すまぬ、アルド殿よ! おぬし等こそ、飛燕天昇流を託すに足る、最高の夫婦であったろうに!」

「あわわわ、め、夫婦だなんて、ききき、気が早ようございます!?」

 真っ赤になって叫ぶと、アザミは玄関に向かって叫んだ。

「アルド殿!? 上手くゆきました! いい加減、出て来て下され!」

「なにを言う。アザミよ。そんな風に呼んでも、死んでしまった者は蘇ったりは……」

 顔を上げた親父殿の顔が凍り付く。

 振り向いた先には、あの、癖毛の快男児が、申し訳なさそうな顔で立っていた。

「騙すような事をしてすみません。でも――」

「ででで、でたぁぁあああ!?」

 飛び退いて、親父殿は部屋の隅まで逃げていくと、両の掌を合わせて、アルドを拝み倒した。

「ナンマンダーナンマンダー! わしが悪かった! 頼むから、成仏してくれ!」

「うーん。シグレの言う通りにはなったけど、少しやりすぎたみたいだな……」

 困ったようにアルドが呟く。

「父上! 気を確かにお持ちください! あれは幽霊などではございません。ほら、この通り、足もついているでござるよ!」

「ナンマンダーナンマンダー……へっ?」

「ごめんなさい。お父さん。シグレの所に行ったときに、仮病の事に気づいたんですけど。普通に言っても聞いては貰えないと思って。悪いとは思ったけど、一芝居打たせて貰いました」

 アルドとしては、内心冷や冷やしていた。シグレが言うには、アルドは立派な男だから、死んだふりでもすれば、親父殿も自分の愚かさに気づくだろうと。ついでに、アザミが後を追う振りをすれば確実だと。アルドとしては、余計に火に油を注ぐ事にならないか、不安である。

 さて。事実を知って、親父殿はどう反応するか。

 おっかなびっくり見守っていると。

「……な、な、な、んなぁぁあああああああんだとう!?」

 ばっと立ち上がり、拳を握った。

「しまった! やっぱり怒らせちゃったか!?」

 そう思っていると、親父殿は目にも止まらぬ摺り足でアルドへと突進した。

「アルド殿! 危ない!」

「うわぁあああああああ!? ……ぁ、あれ?」

 殴られる。そう思って身構えていたアルドだが、一向に衝撃は訪れない。

 目を開けると、目の前に親父殿の胸板が広がっていた。

「うぉおおおおおん! アルド殿! よくぞ生きて戻られた! これまでの非礼の数々、なんと言って詫びたらいいか! わしに出来る事と言えば、ただただお主を抱きしめる事だけよ!」

「いや! 抱きしめないでくれよ! 苦しいし! ひ、髭が当たって、チクチクする!?」

 熊のような膂力で抱きしめられ、逃げたくても逃げ出せない。これなら、殴られた方がよほどマシだ。

「おぉ! あれは、父上の最高の愛情表現! アルド殿、ついにやったでござるな!」

「いいから、アザミも、止めてくれ~!」


 †


 そのような騒動が過ぎ、一通り冷静になった頃。

「改めて、此度の事、心より謝罪する。アザミよ。そして、婿殿。本当に、すまなかった」

 熊の抱擁から解放すると、アザミの父は、今一度深々と頭を下げた。

「いいんだ。アザミのお父さんが元気なら、それが一番だし。俺は全然気にしてないよ」

「おぉ……これ程の仕打ちを受けて、まだそのように言ってくれるか。まったく、婿殿の優しさと言ったら、底の抜けた桶の如しよ!」

 どこかで聞いたような例えで親父殿が感激する。

「その事でござるが……実は拙者も、父上に一つ、嘘をついていたのでござるよ……」

 今が言い時と、アザミは恐る恐る切り出した。

「かまわぬ。此度のワシの嘘に比べれば、可愛い物であろう」

 すっかり丸くなった様子で言う。きっと、こちらが本来の姿なのだろう。

「はい。実は、アルド殿はまだ、拙者の婿殿ではないのでござる」

「まだ、とな。それは一体、どういう事ぞ」

「兼ねてより、拙者がアルド殿に好意を寄せているのは事実なのですが、どうしても、アルド殿の答えを聞く勇気が出ず。拙者の心の準備が整うまで、答えを待ってもらっているのでござるよ」

「なんと!? では、アルド殿は、本当は婿でもないのに、今までわしの我がままに付き合ってくれていたのか!?」

 アルドは頷く。

「アザミは大事な仲間だし。家族の一大事なら、助けてあげるのは当然だから」

「くぅ~。今時珍しい、なんとあっぱれな御仁か! このように立派な若者を試そうとするとは! 一生の不覚なり! どうか、これに懲りず、アザミとは仲良くして頂きたい! この通りだ!」

 と、隙あらば頭を下げてくる父親に、アルドは困惑しっぱなしだ。

「勿論だよ! だから、親父さんも、そんな風に頭を下げないでくれ!」

「うむ。そう言ってくれると、こちらも助かる」

 ほっとすると、親父殿はアザミに耳打ちをした。

「アザミよ。なにを迷うておる。こんな素敵な御仁、他にはおらぬぞ! さっさと想いを伝え、我が物にしてしまうのだ!」

「ち、父上!? せ、拙者だってそうしたいのは山々! しかし、万に一つでも断られてしまったらと思うと、恐ろしくて勇気が出ないのでござる!」

「なにを恐れる事がある。お前は、ガルレア一の美人よ! オマケに強くて、気立てもいい。そそっかしくて、家事が苦手なのは玉に瑕だが。なに、アルド殿なら、笑って許してくれるだろう! さぁ、急げ! 他の女子に取られる前に!」

「むむむ、無理でござるよ! ああ見えて、アルド殿は物凄くモテるのでござる!」

「なんと! それならば、余計に急がねばなるまいて!」

「いやそれが、どういう事か、アルド殿はその全てを、相手を傷つけぬよう、曖昧に躱しているのでござる。このままでは、拙者も同じ目に合うは必須。故に、アルド殿が婿になってくれるよう、自分磨きを続けているのでござる!」

「えぇい、まどろっこしい! かくなる上は、父が直接聞いてやろう!」

「ななな!? 父上! おやめください!」

 アザミが止めるのも聞かず、親父殿はアルドと向かい合った。

「こほん。アルド殿。娘がお主を憎からず思っている事は、もちろん知っておろう」

「あぁ。俺なんかにはもったいないけど、そう思って貰ってる事は知ってるよ」

「そうか。ならば、アザミの父として問う! アルド殿! お主には、娘の婿殿になるつもりがおありか!」

「うあああああ! ちちち、父上!?」

「アザミよ! お前は黙っていなさい! さぁ、アルド殿。返答はいかに!」

 挑むような父親の真剣な目を、アルドは怯むことなく、まっすぐ受け止める。

「……アザミのお父さん。その事なら、俺はとっくに答えを決めてるよ。真剣に考えたけど――」

「う……っ!?」

 その時突然、親父殿の心臓が狂ったように弾みだした。

 ――なんだ、これは? 動悸が、止まらん!? ぐ、ぬぬぬ……この、胸を締め付けられるような感覚は、一体……。こんなに苦しいのは、此度が初めてぞ!? まさか、わしの心臓は、本当に病んでしまったのか!?

「……えっと、なんて言ったらいいのかな。アザミは、オレにとって……」

「ま、待て、婿殿!」

 苦しそうに胸を押さえると、親父殿はぜぇぜぇと息を荒げて後退った。

「やはりその答え、今は聞く時ではないようだ!」

「えぇ!? 突然どうしたんだ!? あんなに知りたがってたじゃないか!?」

 困惑すると、アルドはハッとした。

「なんだか苦しそうだけど……もしかして、驚かせすぎて、本当に具合が悪くなっちゃったんじゃ!?」

 心配そうに、アルドは親父殿に近づいていく。

「ぬぉぉおお!?」

 心の臓の高鳴りに、親父殿は刀を抜いて飛び退いた。

「ち、近寄るでない! 胸の病が、悪化するわ!」

「うわぁ! 危ない!? 突然、どうしたんだよ!?」

「どうしたもこうしたもござらん! 此度の事は、一旦棚上げと致す! わしは向こうで風に当たってくるわ!」

 バクバクと、狂ったように高鳴る心臓を押さえ、アザミの父は出て行った。

「行っちゃったよ。結局あれは、なんだったんだ?」

 アルドが小首を傾げる。

 去り行く父の背中を想い、しみじみとアザミは言うのだった。

「父上……その気持ち、よぉく分かるでござるよ……」

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アザミの里帰り 斜偲泳(ななしの えい) @74NOA

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