カミよ

蝶つがい

カミ

 カミよ。

 唯一にして全能なるカミよ。

 何故我を見捨てたもうたか。


 カミよ。

 おお、カミよ。


「紙よ……」


 尻を拭く紙よ……。


 紙がなかった。


 現在の居場所。

 高校のトイレ。


 現状。

 脱糞後。


 用を足したあと、尻を拭こうとしたが紙がなかった。


 蛮勇を奮い立たせ、フルチンで外へ出て、掃除用具入れ、隣りの個室へと特攻を仕掛けたが、俺を満足させるものは用意されていなかった。


 そんなわけで、俺は今、とても困っていた。


 ウォッシュレットはなし。

 携帯もなし。

 他に人もなし。

 脱出方法なし。


 進退ここに極まれり。こうなると、


「拭くべきか拭かざるべきか……」


 それが問題だ。


 パタパタパタ


「む?」


 廊下から足音が聞こえてきた。

 足音の主は、止まることなく男子トイレへと方向を変え、俺の隣りの個室に入り、鍵を閉め、ベルトを外してズボンを下ろし、


「ん!」


 いきむ声と共に排泄音を室内に響かせ、


「ふ〜」


 安堵の息を吐き、


 カラン……


「あ……」


 悲しげな声を漏らした。

 許せ、同志よ。

 止める間もなかった。


「あ、あの〜……」


 隣りからの声。

 言いたいことはわかっている。


「悪い。こっちも紙切れで困っているんだ」


「あ、そうなんですか」


「ちなみに、このトイレ内に紙はもうない。さっき俺が確認した」


「そ、そんな……」


 声のトーンが沈んでいる。

 絶望に打ちひしがれているのだろう。


「脱糞前に止めることができず、すまない」


「い、いえ、いいんです」


 不甲斐ない俺を許すというのか。

 できたやつだ。


「俺、ポケットティッシュ持ってますから」


「なんと!」


 こやつ、ただ者ではない。

 まるで、平和な時代になってからも、有事に備えて軍備を整えることを怠らなかった井伊直孝のようじゃないか。


「俺、これでお尻拭いて、トイレットペーパー取ってきます」


「恩に着る」


「え~っと、確かこっちのポケットに………………あ」


「どうした?」


「……ティッシュ、一枚しか残ってなかった」


「……一枚でいけそうか?」


「……やってみます」


 ガサガサ


「全然無理でした」


 だろうな。

 薄紙一枚ではぬぐいきれまい。


「こうなったら……」


 聞こえてきたのは覚悟を決めたような声。


「どうするのだ? まだ何か手が?」


「ええ、手がありますよ」


「ほほう。それは一体どんな手……」


 手?

 いや、まさか、そんな。


「左だけで十分かな」


 こいつ、やる気だ。


「ささっと拭いて、すぐにトイレットペーパーを取ってきます」


「ま、待て! 正気か!?」


「もちろんです」


「よせ! けがれをもらうぞ!」


「このままだとお尻がかぶれてしまう。俺、いきます」


「それなら俺が」


「ふんっ」


 気を吐く声。

 彼は、その手を茶色く染めてしまったのだろう。


「……うわ……まだ……もうちょい……」


 勇者のつぶやきが聞こえてくる。

 彼は、今まさに戦っているのだ。


 ハチミツの入っていたプラスチック容器を逆さにしてもなかなか垂れ落ちてこない最後の一滴を、焦れた幼子が柔い舌で舐めとるように、己の尻穴に指を這わせているのだ。


「くっ……」


 何もしてやれない自分の無力さに、一筋の涙が頬を伝った。


「これで良しっと」


 ハンドウォッシュが終わったようだ。


「……すまない」


「そんな、謝らないでください。自分の意思でやったことですから」


 なんて気持ちの良い男だろうか。


 ズボンを上げ、水を流す音が聞こえ、男が個室から出た。

 洗面台で入念に手を洗い、


「じゃあ、紙持ってきます」


 男は、走ってトイレを出て行った。


 その姿はきっと、セリヌンティウスを救わんと駆けるメロスのように美しかろう。


「ありがとう、俺のメロス」



 ……



 メロスは、すぐに戻り、俺に立派なトイレットペーパーをツーロールも渡してくれた。


 尻を拭き終え扉を開け、礼を言おうとしたが、トイレにはすでにメロスの姿はなかった。



 ◇◆◇◆



 放課後。

 昇降口。


「ふぅ……」


 俺は、後悔の吐息を漏らしていた。

 メロスに礼を言えなかったことが、後悔の原因だ。


 相手に礼も言わせず立ち去るとは、絵だけを残していつの間にか姿を消す山下清のような男だ。


「ふぅ……」


 どこにいるのだ、俺の清よ。


「さっき教室出る時、先生がさ――」


 そんなことを考えていた時、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。


 この声、清では?

 いや、清だ。

 戦友であり恩人でもある清の声を聞き違えようはずがない。


 そうと気づき、声のほうへ顔を向けると、そこには柔和な表情の男がいた。


 彼が清であったか。

 顔を見てみればなるほど、いかにも優しそうな男である。


「ハハハ、それわかるよ」


 清が友人と話しながら、靴を履き替えるため上履きを脱いだ。


「!」


 俺は、思わず声を上げそうになり、あわてて口を手で塞いだ。

 なんと清は、左足だけ靴下を履いていなかったのだ。

 その姿を見て俺は、全てを察した。


 そうか。

 そうだったのか。

 『左だけで十分』、とはそういう意味だったのか。

 『手がある』と言ったのは、文字通りの意味ではなく、手段だったのだな。

 それを俺は、ハンドウォッシュと勘違いして。


「フ、フフフ……」


 己の浅慮がおかしくて、笑ってしまった。

 それに比べて、彼はなんという知恵者か。

 その頭脳は、孔明を超えるだろう。


 さぁ、清に礼を言おう。

 彼と、その身を捧げた靴下にも感謝の言葉を述べ、そして、彼に似合う靴下を買いに行こう。

 清にプレゼントするのだ。


「おーい、清ー」


 大勢の生徒でごった返す昇降口。

 俺は、生徒たちの間を縫うようにして歩き、清のもとへと向かったのだった。

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カミよ 蝶つがい @Chou_Zwei

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