第4話
朝食は昨日買った菓子パンと野菜ジュースだけ。
とは言え、俺にとってはこれでも精一杯な方である。
こんなにも質素な食事でも美羽は文句一つ言わずに嬉しそうに食べてくれていた。
食べ終わったら、歯を磨いて初出勤である。
正直なところ、本当に俺に務まる仕事なのか不安はある。
美羽を抱っこしながら片道40分くらいの道を歩いていく。肩には中身の入っていないバッグ。
昨日は美羽の荷物を優先したから、俺の着替がまだ姉貴の所に置きっぱなしになっているのだ。
そして、職場について抱っこした美羽を降ろすと他のスタッフさん達に、「今日からお世話になります。長瀬智也です。よろしくお願いします」と言って頭を下げる。
「あら、すっごく大変だと思うけど若いんだから気合で何とかしてね」
そう言ってくれたのはやや背が低く小太りなおばさんで胸に付けたネームプレートには佐藤と書かれていた。
「来て早々、猫ちゃん拾ったんだってね。やっぱ持ってる人はちがうわ~」
何がそんなに嬉しいのか笑みを浮かべているのはやや細身。年齢は俺より少し上くらいの女性でネームプレートには早川と書かれていた。
「で、この子が美羽ちゃんなのね」
しゃがみこんで美羽と視線を合わせようとしてるのは平均よりもやや背の高い女性。年齢はたぶん彼女も俺より上だろう。
ネームプレートには水島と書かれていた。
美羽は、面識のない人達に囲まれた恐怖からだろう。目をぎゅっとつむって俺の服を強くつかんでいる。
一応、美羽は俺と一緒に職場に居ていい事にはなっている以上――早くこの3人には慣れてほしいものだ。
そして診察時間がやってくると、ほぼ同時だった。
職場には付き添いの家族と小さな犬や猫達が溢れかえっていた。
みんな予防接種に来た子供達。予約して来てくれてるはずなのに泣きわめいたりしてる子まで居たりして、なかなかのカオスである。
「注射やだ~!」
「痛いのやだ~!」
「ねぇ、お母さん帰ろうよう!」
家族に交じって佐藤さん達も子供たちをなんとかして落ち着かせようとしているが全然進まねぇ!
とにかくこの子達に順番に並んでもらって姉貴が注射するという流れになればいいんだよな?
俺は手パンパンとたたいて声を上げる。
「はい注目~! これからこの子が注射して見せるからみんなも嫌がらないで注射しちゃおうなぁ」
「ミウ⁉」
ビックリした顔してる美羽にとっては予想外なんだろうが、どうせ注射してもらわなくっちゃいけないんだし。
なによりも、このままじゃ客が増える一方になりそうで不安だった。
「良いよな、姉貴?」
「あぁ、この際だ、なんでもいい!」
やはり姉貴もとにかく回転率を上げたいみたいだ。
「じゃぁ、美羽。お姉ちゃんらしくしっかり注射出来るとこ見せてやってくれ」
「ミウ!」
強い意志のこもった目で頷いてくれた。これは期待できそうである。
パーカーの腕をまくると火傷の痕が目立つが気にした様子もない。
子供達は、みんな美羽が泣かないか気にしてるようだった。
思った以上にあっさり注射は終わる。
「よくできたな美羽。えらいぞ」
俺はしゃがみこんで、美羽と目を合わせ。パーカーのフード越しに優しく頭をなでてあげる。
「ミゥ~~~」
美羽はとても嬉しそうにしていたのだが――ここで予想外に流れが変わった。
「じゃぁ、次はボクの番!」
「違うよ! 私が先だよ!」
子供達が、急に姉貴の前に並び始めたのだ。
これ幸いにと姉貴が注射すると、「よく頑張ったな偉いぞ」ご褒美代わりに俺が子供達の頭をなでてあげる。
そのたびにふんにゃりとした笑みをうかべては、「またねお兄ちゃん!」と言って手をぶんぶん振って去っていく。
回転率は激変し、当初はどうなることかと思った予防接種は、余裕をもって終わっていた。
「なぁ、姉貴……俺、こんなんで給料ホントにもらえるのか?」
なにせ、子供達の頭をなでていただけである。
「こんなんも何もあるか! 奇跡が起きたかと思ったわ!」
「ですよねぇ。今までの苦労はいったいなんだたのかしら?」
佐藤さんまで奇妙な者を見る目で俺を見ていた。
「いやぁ~。話には聞いてましたけど、いるんですねぇ、こういう人」
「ホントびっくりしたよ!」
早川さんも水島さんも俺を見て不思議そうな顔をしている。
「なぁ、美羽。俺に撫でてもらうのそんなに嬉しいか?」
「ミウ!」
目をキラキラさせながら頷いてくれた。どうやら俺の体質は人型の犬や猫であっても有効らしい。
*
あそこの病院に行くと子供達が注射を怖がらないのよ――
そんな噂が広がったそうで、月曜日は予防接種のお客さんでいっぱいだった。
しかも、俺が居れば回転率が上がると見越して過剰に受け入れたため別な意味でカオスになっていた。
俺に撫でてもらいたくて子供達が順番を取りあおうとしはじめちゃたのだ。
「はいはい。良い子にしてくれた子には特別にいっぱいなでなでしてあげるから、いい子で順番まとうなぁ」
信じられないくらいぴしゃっと収まり、みんないい子で並んで順番を待ってくれている。
なでなでの時間が伸びた分回転率はやや落ちるがしかたがない。
って、ゆーか、姉貴が客を受け入れ過ぎたのが悪い!
美羽はずっと羨ましそうな目で俺に訴えてくるし。
それが、休憩時間になっても続いていた。
なんとか午前中の分は片付いたが、まだ午後がある。
俺は、美羽の頭を優しくなでながらも文句を言う。
「姉貴。いくら何でも受け入れ過ぎだろ!」
「反省はしている。反省はしているが稼ぎ時でもあるんだよ!」
姉貴の目は金になっていた。
「なぁ予防接種ってそんなに儲かるのか?」
「あぁ、儲かる! 特にこの街ではな!」
「だったら、バイト代上乗せしてくれよな」
「もちろん考えている。智也が居れば最低でも倍以上さばけるからな。あははははは」
ダメだこれは、いくら言っても聞いてくれそうにない。
とはいえ、俺も同じなのか。予防接種の一番多い時期だからこそ重宝されているが、それがなくなり『また来年頼む』なんて事になったら生活が出来なくなってしまう。
そうならないためにも、他のスタッフさん達がやっている仕事だって覚えなきゃな!
*
午後の順番待ちもすごかった。
姉貴は金に目がくらんで変なテンションになってるし。
俺は、ひたすら子供達の頭をなで続けていた。
本来なら診察は夜7時までとなっているにもかかわらず順番待ちは途切れず。
最後の子が「おにいちゃんまたね~!」と言って去って行ったのが8時過ぎだった。
ただなでなでするだけが、こんなにも疲れるとは思わなかった。
アイドルの握手会とかもこんな感じなんだろうか?
「んじゃぁ、姉貴。荷物持って帰るからな」
「あぁ、明日もよろしく頼むぞ。ぐへへへへ」
ダメだ、今日の売上見て危ないお姉さんになってしまっている。
深くかかわるのはよそう。
美羽を抱き上げて他のスタッフさん達に「お先に失礼します」と言って職場を後にする。
夜の街は少し肌寒いが、美羽を抱っこしているせいか胸のあたりがポカポカしていてそれほど嫌じゃない。
「と……」
美羽から話しかけてくるとは珍しい。
「どうした?」
「と、…も……」
何かを一生懸命に伝えようとしているのだけはわかる。
だから、しばらく様子を見ながら歩いていた。
「と…も…、や」
え、あれ、なにこれ。なんか名前呼ばれてる?
めちゃくちゃ嬉しい。
「あぁ、智也だぞ。美羽の智也だ」
おれの首にぎゅっと抱き着いた腕にさらに力がこもった。
もしかすると、やきもち焼いてたのかもしれないな。
ずっと他の子なでなでしてたから。
経緯はどうであれ、また一歩前進出来たことが嬉しくてしかたがない。
きっと、そのうち普通に会話できる日がやってくるだろう。
*
次の日も、その次の日も姉貴の目は金だった。
噂を聞きつけて、予想外の犬までやってきた。
三上さんのところのリクである。
「なるほどなぁ。これは確かに魔性のなにかと言う他ないな」
注射したついでに撫でてみてくれと頼まれてやってみたところかなりの高評価だった。
「だろう。がはははははは」
金に目がくらんだ姉貴がとてもうれしそうに笑っている。
一応、今は昼休みなので他にお客さんは居ない。
その一方で美羽は少しすねている。
「と、とも、やは、わ、わた…しの」
「安心しろ美羽。リクは私の物だから誰にも渡さん」
「ほ、ほん、とに?」
「あぁ、本当だ。それに、よくこの短期間でしゃべれるようになってきたな」
三上さんの言うとおり、本当に美羽は頑張って色んなことを伝えようとしてくれている。
なにより、こうして俺以外ともしゃべれるようになってきたのは大きい。
「はい。これって喜んで良い傾向ですよね?」
「あぁ、嫉妬が絡んでそうで若干不安はあるが、今はまず普通に会話出来る事が優先されるからな。上の方にも回復は順調だと伝えておくよ」
「よろしくお願いします」
なにせ、ここで俺と居ても回復の兆しなしってされると美羽との生活が終わっちゃいかねないのだ。
これも金のない者が不釣り合いな事をしているがためである。
「それじゃ行くぞリク! いつまでも呆けているな!」
「あ、はい! すみません倫さん! つい……」
これは、俺も悪い。リクの毛並みがあまりにも良かったのでつい撫で過ぎていたのだ。
その分、美羽の反感も買ってしまったわけだが。
「と、もや。だ、っこ!」
「よし! じゃあ昼飯買いに行くか」
「ミウ!」
「ぐへ。ぐへへへへ」
姉貴の分は……まぁ、適当に買ってきて置いておけばOKだろ。
*
予防接種で最も儲かる季節が終わり。
姉貴が『ぐへへへへ』といやらしい笑いをする日が減ってきた頃。
美羽の痣はすっかり消え。火傷の痕もだいぶ良くなってきて、肉付きもよくなっていた。
お金が出来たら、普通の女の子が着て喜ぶような服を買ってあげようと強く思う。
それには、先ず俺が普通のスタッフとしても役に立つようにならなければならない!
しかし、そう思っていたのは俺だけで――姉貴も、他のスタッフさんも特に今以上を求めていなかった。
病院嫌いの子供や注射が苦手な子が、ほぼ確実に毎日やって来るからだ。
それらの子供達に対して、頭なでながら「頑張ろうな」とか「よく頑張ったなえらいぞ」なんて言いながら頭をなでる。
それだけで場が和み、次も使ってもらえるようになったとかで利益率が上がっているそうだ。
むしろ、他の仕事はじゅうぶん手が足りてるから余計なこと考えないで神の手を存分に使ってくれと言われてしまっていた。
しっかりバイト代も払ってもらってるし、少なからず借金も返済できている。
ある意味、特殊能力に対する報酬だと思えば……これでいいのか?
「なぁ。美羽。俺に撫でられるのってそんなにも嬉しいか?」
「わかって…ないの、ともや、だけ」
いつもの帰り道に聞いた質問には、予想外に冷たい声色で返されていた。
言葉に感情が乗ってるのは嬉しいが、こうして冷たくされるのはやはりどこか寂しい。
「そうか……」
「だか、ら…あく、よう。しちゃ、だ、め」
「じゃあ、ご機嫌取で美羽の頭なでるのも反則か?」
「それは、ゆる、して、あげてる」
「そうか、だったらこれからも許し続けてくれ」
じゃないと、俺の価値がなくなってしまう。
なにせ、仕事終わった後はいっぱいなでなでしてあげないとご機嫌わるいからな。
そのうち、浮気者とか言われそうで怖い。
*
朝っぱらから元気に蝉が鳴く季節――
暑い夏がやってきた。
剝げていた頭もだいぶ良くなってきたので思い切って髪を切ってもらうことにした。
美羽に聞いたところ、特にこだわりとかはないみたいだったので全て佐藤さんにおまかせした。
何度もカットしてるの見てるので安心して任せられると思ったからでもある。
やはり美羽の事をよく知っている佐藤さん。全体的にバランスが良くなるように切りそろえられたヘアスタイルは短めでボーイッシュな感じだが、これはこれで良いと思った。
知ってる人が見なければ美羽の頭に、まだ火傷の痕があることは分からないレベルである。
「どうかな、智也?」
「あぁ、可愛いぞ美羽」
思わず頭をなでる手に力がこもる。
それを、ふんにゃりととろけた顔でされるがままになっている美羽。
姉貴の治療もよかったんだろうけど、本当に凄い回復力だ。
涼しげな空色のワンピースが良く似合う。売れ残っていた安物だったが、美羽は喜んで見せてくれている。
腕や足を出しても誰にも変に思われない身体になったことを。
そして、今があるのは間違いなく姉貴のおかげであり。感謝だけでなく憧れにもなっていた。
だからだろう、本気で勉強し始めたのは――
人型の犬や猫を診る専門の獣医になるために。
これからも、この街で美羽と一緒に暮らしていくために。
おしまい
ねこ拾いました 日々菜 夕 @nekoya2021
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