咄嗟の判断が、悲劇を招いてしまったのですね。
でも、鉄兎さんは、前をむくことができた。これも六科さんのおかげかな。
「もしもあのとき……」って思う悩むことってたくさんあります。私だったら、六科さんのチョコレートの誘惑に勝てないかもしれません。
作者からの返信
一帆さん、なんとこのような背景がありました。
「もしもあのとき……」
そんないくつもの選択肢を切り抜けて、今がありますもんね。
どの道筋が正解だったかなんて誰にもわからない。
きっと鉄兎は六科のチョコレートを食べたんじゃないかなと。
深すぎる悲しみや、自分を傷つけてしまいそうなほどの罪悪感といった、前に進むための足枷になるものは忘れ、事実としての記憶だけが残っているのだろうと。チョコレートにも色んな種類のものがありますしね。
人の脳の忘却という機能も、都合が良いとも、自己防衛手段であるとも考えられます。チョコレートはそういった機能的なもの、もしくは暗示的なものかなと考えています。
もちろん、美味しそうなチョコレートの誘惑なら、私も勝てません。笑
壮絶なお話でした…
「鉄兎」という名前そのものの義足。
普通とは違う意味の「出世」や、超訳の「往生!」など、琥珀さんの言葉マジックがここでも効いています。
豚肉のキャベツと生姜ロールも、お話を読んだ後ではちょっぴり違う味わいがしそうです。でも美味しそう(笑)
作者からの返信
友香さん、そうなんです……
登場人物の名前自体が、実は伏線でもありました。
視点の切り替えや新しい解釈は、創作で力を入れたい部分なので、言及していただけて嬉しいです(人´∀`).☆.。.:*・゚
「往生!」に関しては、実は神寺さん(僧侶さまの顔もあるそうですね)からヒントをいただきました。はじめに超訳を出したエピソードで反応をいただいて(*´▽`*)
このエピソードでは、なんというか『噛みしめるようなメニュー』をと考えました。伝わりにくいかな。でも、間違いなく美味しいはず。
亀石さん、亡くなったわけじゃありませんよね?
まさに旅立ったのだ、分岐の瞬間だったんだなぁと思ったのですが。間違っていたらごめんなさい。
キャベツと紅しょうがの豚肉ロール、美味しそうです。でも、朴葉の香りってどんなのだろう。ただフライパンで焼くだけだと、再現は難しそうですね……食べてみたいな。
作者からの返信
霧野さん、これが前回と紐づく事の真相です。文字通り、亀石は旅立ちました( ´∀`)これまで共に過ごしてきた彼らの分岐点でした。
たこ焼きやお好み焼きでも、紅しょうがが効いてると美味しいんですよね(о´∀`о)
でっかい朴葉の味噌焼き。私も食べたことはないという。笑
フライパンでも全然問題ないと思いますよ〜。
ここではそのまま皿がわりにしています( ´∀`)
味噌焼きや塩おにぎりに、もう一振りのしょっぱさを足した塩梅。とても心に染み入ります。数奇な運命とか、苦しい経験をしてきておりませんが、愛宕もなんだか救われた気持ちになりました。往生する時は、こういったエピソードを記憶に残して逝きたいなぁと思いました☆
往生!(超訳:ごちそうさま!)
作者からの返信
愛宕さん、山でおにぎりです。そして汗と共に消失した塩分の補給。心身に沁みるのですよね。
こうした苦い経験は誰にでも起こるものではありません。でもどこかにはきっと存在する。それに対してどのような救いを生むか、これには正解がないでしょうけれど、考え続けることはできるかもしれません。
往生する時に持ってゆく記憶。大事にしたいものです☆
蒼翠琥珀様
なんてこと! 鉄兎さんと亀石さんは、こんな別れ方を経験していたのですね。
亀石さんの方が長生きで鉄兎さんを思い続けるのかと思っていたら、反対になってしまったなんて。しかも、助けようとした結果が、逆に突き落とす結果になってしまった(T_T)
辛いし悲し過ぎますね(ノД`)・゜・。
でも、ちゃんと向き合って二人の思い出を大切に生きて行くことを選択したのですね。そして、亀石さんを供養する食事を共に。
フーゲンさんの苦悩もまた結論が見えませんね。あくまでも自然に、余計な手を出さないように。でも、それで悲劇が起ればやはり後悔してしまいますよね。
どちらも、辛くて救いの無い悩みですが、二人とも前をしっかり向いていることが救いですね。一緒にご冥福を祈ります。
作者からの返信
涼月さん、実は悲劇の展開でした。そうそう、まるで亀石の方が鉄兎を置き去りにしたような。また、守ろうとすることが本当に守ることになるかどうかはわからない、という悲しい側面でもありました。
腹を満たすことで、それぞれの道を歩んでいく糧とする。そう解釈して、あの場所で食事を共にしたのでしょう。フーゲンが居てくれたことは、鉄兎にとって心強かったかもしれません。
またフーゲンは悟りを拓くため修行中ですが、迷いや悩みが尽きず、藻掻いているようです。一体何が救いになるのか。考え続けることこそ、その存在意義なのかもしれません。
彼らへの祈りをありがとうございます。
きっと届いていることでしょう。
ごきげんよう、前回の鉄兎さんと飛鳥さんの別れ、飛鳥さんの旅立ちは、文字通りこの世からの旅立ちだったのかと思うと、残された鉄兎さんの胸に残る傷痕、その傷痕を取り囲むように広がる大きな、ぽっかりと開いた空白が見えるようで、どれほどの悲しみを抱えているのだろうかと震えてしまいました。
ましてや、このような事故の状況下で、いくつものふたりが現世に留まれるであろう「if」を、そのifを選択しなかったことを己の罪だと責めながら生きていくことの辛さ。普賢菩薩さまもまた、同様に罪を背負おうとしていらっしゃいますね、その後悔の深さと悲しみもまた、大きな重いしこりとなって胸の奥に沈んでいるのでしょう。
「あの時、ああすればよかった」「もっとしてあげられることがあったのではないだろうか」、そんな風に思うのは、きっと、そのひとの優しさと愛情の深さ、相手への想いの大きさのせい。だからそれは罪ではなく、そのひとを想う心への弔いなのかもしれないな、と。
ムジナさんの温かい言葉、そしてそれをきちんと飲み込み消化し、明日へ向かって歩くためのエネルギーに昇華させることのできた鉄兎さん、そして普賢菩薩さまが、これからも美味しいものをたくさん食べて、笑えますように。
作者からの返信
しのぶさん、沢山の温かいお言葉をありがとうございます!
亀石の旅立ちを「飛鳥の」と名の方で書いてくださる辺り、フルクが書いていた絵で「竜が鳥に変化して飛び立っていく」という描写を拾ってくれているのかなと密かに嬉しく思っています。
(あ、勘違いかな。いやしかし、しのぶさんならきっと)
様々な別れの形がありますが、悪意のない悲劇という「結果」に自らを恨んでしまうのは、自他共にやりきれないでしょう。どうやら六科はその辺りを緩和してくれる存在のようです。普賢菩薩もまた、見守る立場でありながら、その有り様に思い悩んでいます。まだ修行中の身ですからね。悟りを拓くとが、その悟りは何を持ってして良しとすればよいのか、やはり正解は存在しないでしょう。
でも、いかなる「旅立ち」も、やはり爽やかであって欲しい。これは私自身のわがままかも知れません。
異都奈良の主人公リュカが綴る、この『暁の物語〜俺とオマエのお膳立て』は次回が最終話です。締めくくれるよう頑張ります。
彼らへの祈り、あらためてありがとうございます!
なんだかスゴい世界観に圧倒されました。
ふたりの物語はこの後どう続くのでしょうか?
再び出会えた時にふたりがどんなにか経験を積んでどんなことを語るのか、とても気になります。
あと一回でお話しが終ってしまうのが寂しく思えます。
作者からの返信
小鳥さん、ありがとうございます!
お話の終わりを寂しいと思っていただけるのは、これ以上ないほど作者冥利に尽きます。
この『暁の物語〜俺とオマエのお膳立て〜』は本体である『異都奈良の琥珀食堂』の主人公が作中で書いている小説という位置づけです。しかも私が書いている全ての作品は繋がっています。(というか、実は私は一つの話を、作品を分けることで断片化して書いています)なので、この話の世界観は、実はほんの一部だったりして。
分岐してしまいましたが、この二人の話はまた別のお話ということになります。ですが、このお膳立てのお話は、次回が最終話。収束に向かって書きたいと思います。
何という、前回の鉄兎の孤独が、このような理由だったなんて!
フーゲンと鉄兎との再会だけではなく、料理を通じて亀石との再会だったとは。
でも、六科に心を救われ、前に進めたんですね。
再会のメニューも美味しそうでした。
きっと、亀石も別世界で味わったことでしょう。
往生!(超訳:ごちそうさま!)
作者からの返信
出っぱなしさん、なんとこれが真相でした。
前回は亀石視点で置き去りにしてきた鉄兎の話を、今回はフーゲンの視点で見送る鉄兎の話を。ハンバーグ回は鉄兎視点で亀石について。六科の位置づけも随分明らかになりました。
腹ペコのまま離れ離れとなっていたので、互いの腹が満たされるよう願いを込めて、あの時作るつもりだった朴葉焼きを。これが、本当の意味での分岐点なのかもしれません。
きっと亀石にも届いていますよね。ありがとうございます!
蒼翠琥珀 様
>人の道に、無闇に介入するのは不自然なことだ。
宿命とはいいつつ、難しいですよね。自分がした行動が正しかったか間違っていたか、事あるごとに悩んでしまいがちです。
悲しいお話でしたが、それでも前を向いて生きていく強さを感じました。
作者からの返信
空草さん、ありがとうございます。
正解などそもそも存在しないのに、迷う・悩むということの繰り返し(輪廻)を続けている。でもそれは同じことの繰り返し(永劫回帰)とも言えそうです。
個人的には、迷ったり悩んだりしながら色んな試行錯誤をすることこそ人間の存在意義だと解釈しているので、大いに結構なことだと思っています。
死生観に触れるならば、生き物の生きようとする本能が死に抗うのでしょう。そういった本能から逃れて、死に向かって生きているのだと死をも受け入れ、どう生きるのか。そんな風に自由になることを解脱と言いますね。
「死」が登場するシーンこそ、爽やかな風を感じられるような描写ができるよう精進したいと思います。