第六膳『初めてのハンバーグ』

 図書館は情報の宝庫だ。


 料理の本もたくさんある。

 幼馴染の亀石飛鳥あすかが図書館に来てからずっと眺めているのは、使い込まれた『終末の手料理』。要は「最後に食べるなら、コレ」という趣旨でまとめられた料理本だ。

 まあ『最後』などと言われても、中々その時を想像しにくいものだが、マンネリ対策の奇抜なレシピというよりは、素朴でスタンダードな料理が名を連ねている。

 ちなみにYou研出版が誇る〈あなたと料理を科学する〉がコンセプトのシリーズで、充実したラインナップがウリだ。『茶色弁当を超えてゆけ。自ずとキマる真黒弁当のアイデア』だとか『スパイシー関川のカレーなる日常と襲撃』とか『薬膳』などなど。

 亀石は相変わらず『終末の手料理』を抱えて、次々にページをめくっては熱心に眺めている。


「なにか食べたいものはあったか?」


 亀石は小さく頷くと、白い皿に鎮座する肉の塊が載った見開きをこちらに向けた。偶然かもしれないが、それは俺が今食べたいと思っているものと同じだ。

「決まりだな」

 別に終末というわけでもないけれど、俺たちが今食べたいのは〈ハンバーグ〉だ。

「じゃ、行くか。六科ムジナんとこへ」


 俺は〈桜井鉄兎てつと〉と名の入ったカードを取り出し、貸し出し手続きを済ませた。亀石のやつが自分のカードを忘れてきたからだ。


 こんな風にして、俺たちはよく料理本を持って六科の店に行く。

 いつだって写真通りにはならないけれど、すごく優しい味がする。六科が常連に出すのはそういう皿だ。即興のパフォーマンスに、意外な展開。生きるために食べる、その先の一手。

 俺たちが料理の楽しさを知ったのは、まさに六科あってのことなのだ。

 そこでひらめいた。


「あんなぁ。このハンバーグ、自分らで作ってみぃへん?」


 あ? 俺の頭の中が一瞬だけ白くなる。すぐに戻って来れたものの、想定外すぎて思考がパンクしたのだ。

 この亀石ってやつは、普段のんびりしているくせに、こういう肝心な時はハイパー速い。

 それは今、俺が言おうとした台詞だ。


「前に六科がうてたやん。料理は食べるだけやなくて、作るんもオモロイって。それに、この本の通りに作れば、ちゃんと美味しなるやろ」

 亀石の話し方そのものはおっとりしていて、行動もそれにしっくりくるような速度だ。だが、コイツはどこか時間を超越したようなところがある。

「まあ六科は本の通りに作った試しがないけどな」

「六科はムジナやろ」

 そしてこんな風に、真理のような、そうでもないようなことを言う。

 俺がひとつ頷くと、亀石の腹がぐぅぅぅりゅりゅぅと鳴った。いつもながらじっくり余韻を残す虫だ。

「あかん。お腹空きすぎて無理や。今日は六科んとこ行こ」




 そんな風にして、六科の店【BAR古都奈良】で、ビーフ100%のハンバーグに舌鼓を打ってから、かれこれ……随分経った。

「なあ、鉄兎てつとぉ」

「あん? なんだ」

「よお考えたら、ちょうど一年やな」

「……」

「あれやん。自分らでハンバーグ作ってみよ、てゆうて、結局六科んとこ行った日ぃから」

「ああ。そのことか。そうだな」

 別に覚えていたわけではない。が、否定する理由もない。亀石がそう言うのなら、そうなのだろう。


 俺たちは今、霧野ヶ峯に居る。


 ホームマウンテンの三輪車山とは違って、少しばかり険しい山だ。現に俺は、さっき茂みを適当に抜けようとして、洗礼のごとく、しなった細枝に打たれたばかりだ。

 実に厳しい。

 いつも霧がかっていて、晴れている方が珍しいこの山には、しっとりと艶めいた空気が漂っている。

 そして訪れる者を泰然と受け入れているようでもあり、何びとにも心を許さぬようでもある。

 この山はまさに、気高い女なのだ。


 山の楽しみ方は人それぞれであるが、此処ではピークハントやタイムトライアルよりも、じっくりと地を踏みしめ、対話しながら身を委ね、その湿度や柔らかさを堪能するのがよろしい。


 と、これが亀石の持論だ。

 まあ、こいつはどんな山であっても、そのように向き合うのだが。


 今俺たちの前にあるのは、じうじうと音を立てる挽き肉の塊だ。石を組んで造った即席の炉に、亀石が持参した小さな鉄板を乗せて、赤みの肉が次第にその色を閉じ込めていくさまを見つめている。

 拾ってきた松ぼっくりはどれも湿気ていて、なかなか灯らない火に心が折れそうになりながらも、ようやく此処までこぎつけた。

 亀石は登山、俺はトレイルランニング。似て非なる楽しみ方ではあるが、俺たちは山で過ごすことが多い。今日もそうだ。

 拓けた山頂にぽつんと佇む月光桜。その幹にタッチして下ってきた俺は、ゆるゆると登ってくる亀石に遭遇した。

 いつものように、おおよそ五合目あたりで、こうして昼飯を共にする。

 身軽な俺は日帰り、亀石は大きな荷物を担いで山頂ないし好みの場所で一夜を明かす。ご苦労なこった。そして下山後に六科の店で落ち合い、各々の山での時間について駄弁って過ごすのがお決まりだ。


「あ、しもたぁ」

 項垂れた亀石を見て、俺は「しもたぁ」の原因がわかった。何もせずに待つのも飽き飽きしていたところだ。さっと立ち上がって、周辺で目当てのものを拾ってきた。

「これで、どうだ?」

「うわ、めっちゃえぇやん! 絶対いけるわ!」

 俺から二本の小枝を受け取った亀石は「ま、あるあるやな」と言いながら、ぱっぱと砂を適当に払って、よく焼けた平たい挽き肉の塊を器用にくるりと返した。

「そういえばあん時……」

 随分間が空いたけれど、十中八九、六科のハンバーグの話だろう。

「おもろかったなあ。『お客様、お待たせいたしました。ご注文の〈ホルスタイン牧場〉です』とかうて。急に丁寧な口調になったかと思たら、なんやねん〈ホルスタイン牧場〉て。ふざけてばっかりやんか」

 やっぱりな。その時の六科の生真面目な口調を真似た亀石は、ニヤニヤと口元を緩めた。そう。俺たちは、まずそのことで呆気にとられたのだ。

「ああ、相変わらずだ。アイツは」

 出てきた白い皿には、豆苗やベビーリーフといったグリーンがぐるりと散りばめられ、その真ん中には丸くて大きなハンバーグがどんと乗っていた。更にその上には、大根おろしが山のように盛られ、散らされているのはフライドガーリックだった。

「あれで白黒のホルスタインやて。で、鉄兎が『なんで乳牛やねん。俺らは肉食いに来たんじゃ。こんなお花畑食えるかい!』とかうてなぁ」

 俺はそんな話し方ではないが、確かにグリーンの中に黄色やオレンジ色の花が添えられていて興味を唆られた。

 なんだったか。茄子ではないが、六科に教えてもらったのはそんな名前だった。


 亀石は小枝を肉の塊に刺して、透明な肉汁が染み出すことを確認した。そしてシュレッドチーズをかけて蕩けるのを待ち、よしっと小声で言ってから、小枝をこれまた器用に鉄板の取っ手に引っ掛けて、火からはずした。そうして思い出したように、小振りのミルを取り出してコリコリと回し、ブラックペッパーを振りかける。

 その間、俺は丸いパンを水平に半分に切り、そのナイフを火で炙ってから、ひとすくいしたバターを切断面に塗りつけた。

 ついでに炉の中からアルミホイルを巻いた塊を取り出して開き、中から現れた小振りの皮付きじゃがいもを一口サイズに切り分ける。同じく適当に取ったバターを乗せた上に、ナイフで岩塩を削った。

 バターと塩が溶け合っていく光景を目の当たりにした俺は、我慢できずにその一欠片をナイフで突き刺して口に運んだ。それを見た亀石も「あ、ずるう」とか言って、小枝を箸のようにして伸ばす。

 熱すぎて同じ目にあった俺たちは、暫くの間ハフハフと息をもらしながら、じゃがいもを咀嚼した。

 

「そしたら『乳牛専用に改良される前のホルスタインは、乳肉兼用種やねんで』とか自慢げにうてたな。で、皿の上のブロッコリーやらカリフラワー指差して、『お前らの好物は花やないか』って」

 六科もそんな話し方ではないが、再び喋り続ける亀石は楽しそうだ。そして手を止めることもない。「はい、草敷いたって」と言いながら、レタスを手渡してくる。

 俺が土台側のパンに適当に千切ったレタスを乗せて差し出すと、亀石はそこに慎重な手付きで、いい色に焼けた肉を乗せた。

 緊張の瞬間だった。

 ハンバーグに関する初めての共同作業を終えた俺たちは、それぞれの前にあるタワーの屋上チーズに、思い思いにケチャップやマスタードをかける。


 こうした細々とした材料や道具を全て背負ってくるのはいつも亀石だ。俺はほとんど身一つで山を駆けるため、水と非常食のエナジーバーくらいしか持っていない。

 そのことについて、前に一度、申し訳ないというようなことを言ったことがある。亀石の反応は予想通りだった。「えぇねん、えぇねん。おもろいからやってんねん。それにまだ野営すんねんから、夜も朝もどうせまた使うて」と。


 亀石のそういうところは、六科に少し似ている。

 人と過ごす時間に対して、手間暇そしてエネルギーを惜しまない。少なくとも亀石は、俺が知る限り、その一人で過ごす夜と朝の食事はかなり適当だ。

 六科にしても、店で見かけるのは料理を作って客に振る舞う姿だけだ。その背景には、どんな暮らしがあるのだろうか。

「あ、そうか」

「ん? どないしたん?」

「ナスタチウムだ」

 俺は亀石が手にした花を指差した。

「あー! そんな名前やったな! そうやそうや! ナスタチウム。よう思い出したなあ。やるやん、鉄兎!」

 亀石は大喜びだ。その花は俺がここに下ってくる途中で見つけ、一人に一つずつ摘んできたものだ。

 六科の〈ホルスタイン牧場〉に咲いていた色鮮やかな花。あの時、『エディブルフラワー』という言葉を知った。

 そして、ハーブになるような植物は素朴なものが多い中で、ナスタチウムのように華やかなものは珍しいのだ、と語る無邪気な六科の表情かおが印象に残っている。


「鉄兎は気ぃ利くなあ」

 オマエには負けるけどな。そして思ったことを、気兼ねなく口にできる亀石を羨ましく思う。

 俺も亀石も、赤いケチャップと黄色いマスタードをたっぷりとかけたその上に、オレンジ色のナスタチウムを添えた。それを亀石と共にしみじみと眺めた後、蓋側のパンをそっと乗せ、花を隠した。


 これは俺たちだけが知っているお楽しみなのだ。


 心の中で手を合わせ、顔を見合わせた俺たちは、それを合図にハンバーガーに齧り付いた。その手に腕に、染み出した肉汁が滴り落ちる。

 「あっつ」と音にならない声で叫び、俺は自分の腕に舌を這わせた。見ると亀石もはみ出したケチャップとマスタードにまみれた指を舐めている。

「「うまっ」」

 少し霧が晴れた空に向かって吼え、俺たちは懲りずにその断層に立ち向かう。


 作るのに要した時間は、食べきる時間よりも圧倒的に長い。


 俺たちはあらためてそのことを思い知った。

 料理を作ってくれる人は、その味覚だけでなく、大事な時間までも惜しまずに振る舞ってくれていたのだ。

「いつもは湯を沸してラーメン食うとか、即席の味噌汁入れて、おにぎりの足しにするとかやけど、たまにはこういうんもええなあ」

 俺は少し冷めたじゃがいもを、もう一欠片、口に放り込んだ。


 もしかすると六科も、俺たちの知らないところで本を読み漁ったり、『秘密の花園』のような場所を持っていて、料理だけでなく食材の研究でもしているのかもしれない。


「なあ、六科ってさぁ。ナスタチウムとか、育ててるんかなあ。そんなことまで密かに楽しんでそうや」

 そうやな。

 頷いた俺は心の中で亀石の口調を真似てみる。


 そして、朝陽を浴びて咲き誇るナスタチウムの鉢に、丁寧に水をやる六科を思い浮かべた。手が汚れることなどまるで厭わずに、土の湿度や柔らかさを確かめるであろう六科は、まるでこの霧野ヶ峯みたいに剛気で雄大なのだ。

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