第七膳『春の訪れと天ぷら』

 素朴な土気色の徳利に生けられた、濃いピンク色の花が目に鮮やかだ。


「今日は天ぷらにしようかと。どうでしょう?」

 急速に引き締まった空気と鋭い視線が、その返答なのだろう。

 六科ムジナは、揚げ物だけは自分で作らない。

 その理由は「外で食べた方が美味うまいから」らしいが、実際は揮発した油の粒子がこじんまりとした室内に染み付き、油臭くならないようにするためだろう。

 口は悪いが、人が集う空間に、それも誰も見ていないような細部に気を遣う人だ。きっとそうに違いない。

 「……行ってやってもいい」と、予想通りの快諾だった。


 そして今、ここに居る。


 勉強熱心なことに、店の空間づくりや用意された器や箸置きなどに目を走らせ、ごくさり気なく、しかし抜け目なくチェックしているらしい隣の六科に声をかけようとしたところで、目の前の簾がさっと上がった。

 今まさに揚げ上がったばかりの天ぷらを、店主がカウンターの向こう側から手早く皿の上に盛る。そしてすぐにまた簾が下りた。


 天ぷらには旬がある。それはまさしく今だ。


 ひとつ取ってそのまま齧る。すると芳醇な甘みが口の中に広がった。玉ねぎの尖った部分が水とともに抜け、油が糖を抱きかかえている。

 油、そして糖。どうしても美味いと感じてしまうのは、遺伝子に刻み込まれた記憶のせいだ。エネルギー変換効率の高いそれらは、貯蔵という意味でも、代謝という意味でも生き物に都合が良い。

 ゆえに神経節の親玉である脳は騙されている。

 だが解っていても、それに甘んじたい。

 残りの半分は天つゆにつけた。出汁が滲みた衣を前座に、やはり素材それぞれの味わいと食感が面白い。かぼちゃのホックリ感も、レンコンのしゃくっと感も。きのこの旨味は極限まで凝縮されている。


 六科を連れ出すなら、揚げ物に限る。

 中でも、天ぷらと言えばご馳走だ。しかも今味わっているのは、完璧な『揚げたて天ぷら』なのだ。

 それを今日は一緒に食べたいと思った。


 わたしたちは黙々と食べた。

 六科もまた、それぞれを噛み締め、食材の特性を楽しみつつも緻密に分析していることだろう。彼女の場合はわたしとは違って、直観的なものを高めていると言った方が合っているだろうけれど。


 蕎麦をつゆにつけて啜っていると、再び簾が上がって店主が現れた。空になった皿に、揚がったばかりの天ぷらを次々に乗せていく。

 顔までは見えないけれど、その手捌きはまさに職人。今朝方打ったというこの蕎麦も、あの手から生み出されたのだ。そして簾が下りる。


 大根おろしを加えると、褐色味の強かった天つゆが黄金色に転じた。

 さっそく浸けてみる。

 さっきのししとうも良かったが、今度のオクラも最高だ。タケノコにズッキーニ。スライスするように切り込みを入れたナスの天ぷらと、大根おろしのさっぱりとした天つゆは出会うべくして出会った。

 

 天ぷら。しかも『揚げたての天ぷら』。それはどれもが最高においしい。心の底からそう感じることこそ、一番の滋養強壮剤となる。


 まったくもって人生とは不思議なものだ。

 共に食べることを楽しめる日が、再びやってくるなんて思いもしなかった。六科と出会ったあの日から、熾火だった想いははっきりと明るさと熱を取り戻した。

 もっとも昔のような燃え盛る炎ではない。ただし簡単には消えることのない、静かな熱量を持った炎だ。

 改めてわたしは自分の望みを知った。だから今日はちょっと特別。


 と、六科がわたしを見ているのに気付く。

 表情かおに出さずとも、六科にはわかってしまう。そういった感覚も、本当に久しぶりのことだ。

 「飯を食うために誘ったわけじゃないだろ?」と、そう言いたいのだ。

 


 あの時もそうだった。



 二人でおなじみの散歩コースを通って、いつもの涼月堂へ。天気は快晴。空気はまだ肌寒いけれど、春は間近だ。桜もちらほら咲き出していた。

 これからもっともっと、たくさんの時間を共に重ねてゆくのだろう。

 そんな風に思っていた。だから、あの時のわたしは気づいていなかった。


 春は出会いと同時に、別れの季節だったことに……




   *




「ねえ六科。一緒にやりませんか」

「何を?」

 解っているくせに、そうしてはぐらかすのが六科だ。暫く西陽に染まる街並みを眺めた後、あらためて向き直る。

「慈善団体の立ち上げです。この都を拠点に。腹を空かせた者たちを救いたい」

「ああ、前に言ってたやつか」

 六科は陽を飲み込もうと待ち構える山の頂きを見つめたままだ。

「そう。何をするにも身体は根源。だから医食同源の思想も取り入れたいのです」

「そのためにオマエは熱心に勉強してたんだっけな。和香草山の植物を片っ端から口にしたんだって?」

 六科は呆れたように言う。

「美味しいものが全てが薬になるとは限らない。また苦いものが毒とも限らない」

「だからって、自分を実験台にするなんてな」

「己の身に何が起こるかわからぬものを、人に与えることなどできません」

 太陽が山々の向こう側へと旅立ってゆく。それに追い縋ることなど叶わず、街は徐々に暗がりへと引きずり込まれようとしていた。


 生きるためには食べねばならない。

 だが腹を満たすだけでなく、栄養のバランスも大事だ。もっと言えば、気血水を整えることで邪気を跳ね除け、病に侵されぬ心身を維持することこそ、明日への活力となる。

「真面目だな」

 六科はふうっと溜息をついた。

「貴女の、六科の腕が必要なのです」

 わたしが蓄えた知識と貴女の才能があれば――

「誰にでもできることだ」

「ただ調理するだけならば、そうかもしれません」

 互いに引かぬまま、辺りは闇に包まれた。下方に明かりの灯った灯籠が小さく見える。その上に、桜の花びらや膨らみきった蕾が、ほのかに浮かび上がっている。

「なあ、薬師如来メディカ

 長い沈黙を破ったのは六科の方だった。その言葉の続きをじっと待った。

「俺は……他の奴のことなんて考えられない。オマエみたいに広くは見通せない」

「ならば、補い合いましょう」

 ようやく六科がこちらに向き直る。深い陰影の中では、その表情がよく見えない。それでも、呂色ろいろに艶めく瞳が、僅かに淋しげな色を帯びた気がした。

「俺は自分さえ良ければいいんだ。自分が楽しければそれでいい」

 呆気に取られたわたしは、ようやく、声を絞り出した。

「そう、ですか」

 話はこれで終わりだとばかりに、六科は闇に包まれた街に背を向け、来た道を戻り始めた。わたしも黙ってそれに続く。


 心にも無いことを言わせてしまった。


 いつもそうだ。

 貴女は、自分がワルモノになれば事が済むと思っている。自ら己を刺し、何でもないような顔をする。そんな眼をしてまで――

 と、そうさせたのは自分であったことに、ようやく思い至って愕然とする。友の意を汲まず、自分の理想を押し付けた。

 颯爽と前を歩く六科の背中に向かって、そっと右手を立てる。合掌、とはいかない。合わせる手がないのだから。

「無念(超訳:ただ悔しい)」

 溢れそうになる想いを噛みしめるように独り言ちた。そもそも、わたしのやろうとしていることこそ、ただの欺瞞ではないのか。

 人知れず飢え苦しみ、病気がちのままに消えてゆく。それが自然の摂理と言ってしまえばそれまでだ。そういった存在を救済し、この共同体を活気づかせる力となるよう支援しようなど、ただの夢物語ではないか。


 トボトボと歩いていると、不意に視界から六科が消えた。いや、危うくぶつかりそうになった。それまで無音だった世界に、控えめな喧騒が戻ってきた。 

 いつの間にか、鋼鉄奈良駅の噴水広場まで来ていたのだ。


 琵琶法師シンガーの弾き語りが聞こえてくる。

 『流れる石のように』のアレンジらしいその曲に、どこかセンチメンタルを感じてしまうのは、わたしの気の持ちようだろうか。まるで……

「俺は俺のやりたいようにやる。だから薬師如来メディカも」

 唐突に六科が言った。

「自分の役割を果たせばいい。その瑠璃の瞳は万物のことわりを掌握する。だから本当は、どの植物が薬に、そして毒になるのかなんて、全てお見通しなんだろ?」

 絶句した。最後の言葉はそのままお返しする。

「しかし、口にした時にどう感じるかまでは……。その苦味を知らぬ身で、人に与えるなど――」

「オマエに見えている世界は実現する。強くそう願うなら。元より人望も厚い。力になってくれる奴なんて、いくらでもいるだろう。俺のお膳立てなんて必要ないんだ、はじめから」


 いつも棘をまとって歩いているような六科だが、今、目の前にいるのはまるで別人だ。いや、これが本性なのだ。この日、はじめて六科の柔らかい声を聞いた。

 普段は封印しているそれを、惜しみなく解放したのは、紛れもなくわたしの背を押すためだろう。

 自惚れていると、言われてもいい。

「おい。オマエみたいな偉丈夫を泣かせたなんて、周りの奴が俺のことを一体どう思うんだ」

 そんなことは微塵も気にしないクセに。

 だがその言葉が、体内の水分が雫となって溢れ出すのを留めた。


 六科の視線は鋼鉄奈良駅に注がれている。駅といっても地下へと続く階段が大きく開いた口に飲み込まれていく、その入り口を囲う壁と天井だけがそこにある。

 それは色に満ちていた。

 一人の青年が、一心不乱に立ち向かうその鋼鉄の壁には、グラフィティというよりは、絵画が描き出されている。

「なんと。フルクサス、ですか」

「フルクサス?」

「ええ。それが彼の名であるのか、あの作風を指すのかはわかりませんが」

 当の本人は、遠巻きに眺める群衆のことなど、まるで意に介さないようだ。もしかすると、一種のトランス状態と言えるのかもしれない。

「あの絵は動くそうです」

 六科は怪訝そうな顔をする。

「視る角度を変えると、違った表情を見せるそうです。それに時間を経るにつれて変化する。彼が上書きをしているのか、それとも作者の手を離れた絵が一人歩きをしているのか。ひとしきり様々な光景を魅せた後、まるで成長した渡り鳥が巣立つように、跡形もなく消えてなくなるのだそうです」

「へえ。『立つ鳥跡を濁さず』ってわけか」

「ええ、わたしも初めてお目にかかりました。ましてや、今まさに描いているところなど」

 目の前で世界が創造されてゆくさまに圧倒される。

「俺も見つけた」

「何を、ですか?」

 それまで一度もその光景から目を離さなかった六科が、「自分のやりたいことを」と言って、唐突に立ち去ろうとする。

「最後まで見てゆかぬのですか? せめてもう少し。このような機会は滅多に――」

 慌てて声をかけると、くるりと踵を返した六科は「それはオマエに任せる!」と声を上げた。その呂色ろいろの瞳は、期待に溢れていた。夢見る少年のようでもあり、同時に、どこか手の届かぬところへ行ってしまうようで、切なくもあった。

 

 そして、その予感は的中し、以来、六科を街で見かけることはなかった。




   *




 名残惜しくも最後の一つを頬張ると、爽やかな香りの後にほろ苦さが残り、そうか、と合点がいく。

 奇しくも、あの日最後に食べたのも、同じくタラの芽の天ぷらだった。この風味は、これまで上手く言葉に出来なかった六科の魅力そのものではないか。

 苦味と、それ以上に香りが強く記憶と結びついているせいか、あの日の出来事がより鮮明に色付いて想起された。

 その言葉は時に苦々しくもあるが、颯爽と己のペースで駆け抜けてゆく後に来たるは、春を呼ぶ風だ。少し肌寒いその空気は、誰にも媚びず、追随も許さない。

 ただ眠れる者たちの頬をそっと撫で、知らずに呼び覚ましてしまうのだ。

〈蒼竜は春をもたらす東風こちを吹かせる〉

 そんな噂を聞いたことがある。


 ふと、あの日見た絵が頭をよぎった。


 猛々しい蒼竜の爪が切り裂いた空間のひずみ。その向こう側に見え隠れする、どこか別の世界。


 あの絵は一体何なのだろう。



 最後にそば湯を口に含む。

 そばつゆで割ってさらに一口、薬味の山葵を加えてもう一口。これにて蕎麦から摂れる栄養素を網羅した。


 店を出ると、わたしたちの足は自然と涼月堂の方へ向いた。

「帰って、いたのですね」

「知ってたんだろ」

 六科は無愛想に言い放つ。そしてさらに続けた。

「この間、どう見てもオマエんとこのだろう奴らがうちに来た。なんだか妙にチャラチャラしていたが、俺のシチューを美味いと言っていたから大目に見てやる」

「彼らはまだ修行中の身なのです。着飾ったりするのは、まだ内なる自分を見つけておらぬゆえ。ですが、貴女のところでの体験は良き学びとなったことでしょう」

「いや、腹を満たしに来ただけだろうよ」

「ひとまずは、それで良いのです」

 わたしの頬が自ずと緩んだ。

「まあ、いいや。じゃ、今日はじっくり聞かせてもらおうか」

「何をです?」

「あの時の、竜の話だ。どんな絵が仕上がって、どんな風に変化したか。それに」

「どう飛び立っていったか?」

 いつも人を騙してばかりの六科が、ただ無邪気に笑った。この姿を見せてくれるのは、古くからの馴染みだからだろうか、とふと思う。

「長い、夜になりそうですね」

「望むところだ」


 何が好きか、何が苦手か。そんな会話をすることはない。でも、もう自己満足だけの創造に興味はない。皆が、創ることを楽しめる世界。

 明確な紐付けなどなくとも、互いのしていることが、どこかで繋がればいい。


 いつか。そう、いつか。

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