第二膳『カレーの冷めない距離』

 まさか懐かれちゃうとは。


 料理のせい……とか?

 目の前には鼻をひくひくとさせる、あどけない笑顔。背には唯一の安寧の地たる僕の住処。


「まぁ、上がって」

 などと言うつもりは端からなかったが、彼らは僕の脇をすり抜け、スパイスの香りが広がる部屋の中に駆け込んだ。そこに遠慮という概念は存在しない。

「なあ、フルク! 今日はカレーだな?」

「カレーなのね!?」 

 僕はちょっとびっくりしたような表情をしてみせる。ささやかな抵抗だ。

 ここで引き下がっていいのか。遊び場もとい根城にちょうどいいと彼らはこのまま居候にでもなりそうな勢いで、弱腰の僕はまるで親戚の子にでも押し切られるような心持ちだ。

 ここでまんまともてなしてもよいものか。

 そんな僕の内なる葛藤など、どこ吹く風。彼らは図々しくも僕のお気に入りのソファにダイブしてテレビを見始めた。カレーはまだ仕込みの段階だからとでも言いくるめて、茶漬けでも出して帰ってもらおうか。


 その時グーと鳴る地響きのような音が……もちろん僕の腹の悲鳴だ。カレーの誘惑に勝てる者はそうそういない。

 僕は諦めてさっさとキッチンに戻った。


『一人で食べるより二人で食べる方が美味しいと思う』


 この言葉をあの人に手向けるために、僕も料理をするようになった。なんでもしてもらうばかりではいけない。願わくば一緒に……


 そんな幸せな妄想を繰り広げていると、不意に両脇に気配を感じた。

「オムカレーがいいなあ」

「おい、卵はあるだろうな」

 幼子二人がグイグイと詰め寄ってくる。僕は大人しく卵を取り出して手早く溶いた。どうも言いなりになってしまう。

 とはいえ溜息を料理に込めるようではいけない。

 皿に盛った炊きたての古代米を愛情を込めて卵で包み、その周りにこっくりとしたカレールウを回しかけた。


 そして食卓を三人で囲う。

 墨黒すみくろの皿の真ん中に黄色い丘。そのてっぺんはルッコラと赤いパプリカで彩りを添えておいた。彼らは意外にも待てができる性分のようで、どちらかというと時間をかけてもいいから美味いものを食わせろというスタンスのようだ。

 だからあれこれと付け合わせを乗せた白い豆皿を並べる間も、物珍しそうに眺めていた。


「フルク! これは何だ!」

「なんなの、コレ!」

 双子のようにそっくりな容姿の彼らは息がぴったりだ。

「えーっと、左から順にスパイスパウダー、らっきょう、福神漬、干しレーズン、そして刻み奈良漬」

 クミンやシナモンをブレンドした僕の特製スパイスパウダーは是非使って欲しい。

 目の前の恐ろしく愛らしい二つの顔は、ワクワクと惜しげもなく高揚感を滲ませている。圧倒されつつも僕はじゃあと言って合掌する。幼い彼らも小さな合掌を作る。


「「「いただきます」」」


 ハグハグ、がつがつ。皿からレーズンが弾け、着衣が黄色く染まり、頬にはご飯粒が……なんてことはなく、彼らは器用に黄色い丘をほぐし、ルウと絡め、上品に口に運ぶ。時に奈良漬けをコリコリと咀嚼し、スパイスパウダーで味を調整する。一口一口、確かめるように大切に食べる。


 この業界で彼らを知らぬものは居ない。


 あどけなくも端正な顔立ちに、シワひとつ無い整った着衣。絹ごし豆腐のような頬に真っ直ぐな髪がさらさらとこぼれ落ちる。所作の一つ一つが美しい。

「フルク」

「な、何かな?」

 見惚れていたことを取り繕うように、僕は止まっていたスプーンを皿に向けた。


「残すなよ」


 翡翠ひすいは厳かな声で言った。もうひとりの翠嵐すいらんはミントの葉が浮かぶ蜂蜜レモネードを吸ってご満悦だ。

 彼らは夫婦つがいであり、この業界で最高位の『始祖鳥』に鎮座する。何事も見た目で判断してはいけない。一方『蒼竜』である僕の方がよほど若造で、下っ端もいいとことろだ。


翡翠ひすい、おかわりは?」

「いや、もう充分。腹八分目というやつだな」

 すでに五回も皿を空にしておいて何を言うのだ。その小さな身体の一体何処に?

 最後の一口とともにその言葉を飲み込んで、僕も蜂蜜レモネードで喉を潤した。

 山肌で生産された山桜の蜂蜜は、可憐な桜花のイメージとは違って野性的で、ガツンとインパクトのある味わいだ。明日の朝食は蜂蜜チーズトーストにしよう。


「ねえフルク。空腹が怖いのはなぜだと思う?」

 早くも現実に引き戻される。甘やかながら凛とした声は翠嵐すいらんのものだ。

 空腹が怖い理由、か……。黙祷でもするかのように押し黙った『始祖鳥』を前に、僕は頭を捻った。そして腹八分目の真意に思い至る。


「満腹を、知っているから?」

 僕が恐る恐る言うと、目を閉じたままの翡翠ひすいの片眉がピクリと上がる。

「満たされた状態を知っているからこそ、そこからの喪失感が大きくなるほど恐怖が増すのかな、なんて」

 重苦しい雰囲気に耐えかねて、僕はポリポリと頭をかきながら冗談めかしてハハッと苦笑するしかなかった。

 彼らは直々に勅令ミッションを告げに来たのだ。この僕に。とんだ手土産だ。


「察しが良いじゃないか、フルク」


 僕があの人に一歩近づくのは、まだ先になりそうだ。

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