♬2 そこは曖昧な場所
窓の向こう。
螺旋階段を移動する時に見えるその丘は『和香草山』と呼ばれているそうだ。多様な野草が繁茂していて、香草・薬草となる種も多いことからそう呼ばれている。その山頂付近に高木はなく、見晴らしがいい。
そして、その麓を横切る京都から南都へ至る奈良街道、の途中。
螺旋階段に添えられた、年季の入った滑らかな木製の手すりがツヤツヤと手に馴染む。階段の上り下りは、まるで巻き貝の内部を歩いているような気分だ。
グウゥ……
螺旋階段に沿って下り、図書室を過ぎ、露樹の部屋を過ぎ、腹が鳴った。
件の住み込みアルバイトは食事付き。与えられた部屋は個室で快適。服をとっかえひっかえする趣味がなければ、衣食住に、つまり生活するためにお金を使う必要がない。こんなにもぴったりと自分が求めていた環境に出会えるなんて夢みたいだ。しかもご飯が格別に美味しい。
目の前にあるのはやはりツヤツヤとした質感のキッチンの扉。鍵はかかっていない。ノブを回して手前に引き、隙間から身体を滑り込ませた。
朝食の時間だ。
「おはようございます」
「おはよう、リュカ。早いね」
キッチンで朝食の支度をしていた露樹が、気づいてこちらに視線を寄越した。
露樹は目が合うといつも微笑む。客商売ゆえに板に付いているのだろうけれど、ごく自然で好ましい。
そう思うと同時に、自分も身につけるべき所作なのだと思い至って、少し憂鬱になった。この店で働くのだから必然のはず。けれど露樹のように自然に振る舞えるのか、今更ながら一抹の不安が過る。
コミュニケーションを取るのが、というよりは、愛想を振りまくのが苦手なのだ。
露樹はそんな心の内を知ってか知らでか、喉を潤すための水をグラスに注ぐ私の隣で、フライパンに手際よく溶き卵を流し込んだ。今日の朝食は炊きたての白米に豆腐と生ワカメの味噌汁、そして、出汁巻き玉子らしい。
いそいそと窓際のテーブルを拭き、急須に茶葉を入れ、卵焼きの仕上がりに合わせて、味噌汁とご飯をよそう。それがこの一週間で覚えた朝ごはんに関する私の仕事だ。
露樹は卵焼きに大根おろしを添え、柴漬けと作り置きの菜の花のおひたしをそれぞれ小鉢に盛って、菜の花には鰹節をまぶした。テキパキと盆に茶碗と汁椀、小鉢を並べるのを横目で眺めながら、私は湯を注いだ急須と湯呑を席に運ぶ。
もう随分と、こういった食事の支度をしていなければ、食事そのものもおざなりになっていた。
「色んな土地を転々としながら小説を書いて過ごしたい」なんて夢見て、ぷらぷらと根無し草のように生きていた。が、現実はそう甘くはなくて、特に意欲的に書けるわけでもなく、ただ無情に貯金が泡沫のように消えていくだけだった。
居場所を確保するだけで、日々の食事を賄うだけで、生きているだけでお金がかかる。何をするにもお金、お金、お金。
取材旅行だなんて格好つけて、実際は資金が底をつく日を怯えながら待っていた。
【募集! 住み込みアルバイト 琥珀食堂】の貼り紙に釘付けになったのは、なんでもいいから
これまで節約のために選んだ安宿は大抵ドミトリーだったが、住み込みとなると、下手をすればそれ以上にプライバシーは皆無。最も大きな出費だった宿代を浮かすことができても、プライベートな時間もあってないようなものかもしれない。
それに、もし雇い主がトンデモナイ奴だったとしても、逃げ場は無い。
極めてシンプルな文言の貼り紙の前でいつまでも佇んでいたのは、そういった思考の渦に飲まれていたからだ。
いつまでも踏み出せない性分を変えたい。そう思いながらも変わらないのは、結局のところ、現状維持という最も楽なところに甘んじている証拠だ。
きっかけをくれたのは……
「すっかり慣れたみたい」
私が急須から緑茶を注ぐのを眺めながら、露樹が嬉しそうに言った。
「大した作業じゃないですから。流石に」
顔が赤くなっている気がして、置いた湯呑から目線を上げられない。
「ここの暮らしはどう?」
目を伏せ、いただきますと手を合わせる露樹に倣って、慌てて手を合わせて箸と茶碗を手にとった。艷やかな白米はしっかりと水を吸ってふっくらと仕上がっている。
「快適です。この空間がクスノキの中だなんて、未だに信じられませんけど」
甘い味噌汁が沁みる。豆腐は滑らかで生ワカメの歯ごたえが頼もしい。
「ただのクスノキじゃないしね」
露樹はふふっと笑って、菜の花のおひたしを口に運んだ。
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