異都奈良の琥珀食堂

蒼翠琥珀

異都奈良への足取り

♬1 住み込みアルバイト募集中

 窓の外を鶏の卵が転がり下りていく。


 今となっては見慣れた光景を見送って、思いっきり欠伸をする。ここに来てから目覚まし時計が要らなくなった。夜明け前から囀り始める鳥たちの声を煩わしく感じることはないし、微睡みから掬い上げられるように、清々しく目覚めるから不思議だ。


 良い夢を視るには裸で眠るのが一番。


 これは『無色茶論』という本で出会った言葉。

 身体を開放してやることで、意識から解放された無為自然の中で過ごすことができる、と嘘かホントか、まことしやかに囁かれているが、いつの間にか下着一枚でシーツに潜り込む心地よさに馴染んだ自分がいるのは確かだ。


 するりと寝床を抜け出してTシャツを被り、窓を開けると、春の涼やかな空気が部屋の温もりと混ざりあった。

 冷たい水を顔に引っ掛けて、柔らかいタオルを頬に額に押し付ける。匂いを誤魔化すための香りを纏っていないことが有り難い。吸い込むと、息苦しくなってむせてしまうので、どうにも苦手なのだ。

 ここにある一つひとつが自分のものではないから、些細なことでもほっとする。


 壁に掛けられた楕円形の鏡を覗き込むと、短い髪がはねていたので、水で濡らしてくしゃくしゃとやる。少し癖のある黒い猫っ毛は、数日前まで伸ばし放題だった。仕事のために切ることにして、さっぱりした風貌になった自分の姿を少なからず気に入っている。


 歯を磨いてから、テーパードシルエットの黒い九分丈パンツに脚を入れ、杢グレーのフードパーカーを被った。いつも通りの格好は楽だ。何も考える必要がないし、馴染んだ着心地も安心感がある。

 最後に細身のフレームの丸眼鏡をかけ、これで準備万端だ。


 部屋を出て、螺旋階段をくるくると下りた。



   *



 此処ここへ来たのは一週間前。木曜日の昼下がりだった。摩訶不思議な、としか言いようのない、なんとも説明が難しい経緯いきさつに居る。

 奈良の餅飯殿商店街もちいどのを歩いていて、ある貼り紙が目についたのだ。


【募集! 住み込みアルバイト 琥珀食堂】


 近鉄奈良駅から東向商店路ひがしむきを南へ抜け、三条通りを猿沢池方面へ数歩……

 そうそう。興福寺のすぐ近くにある、あの人の為せる技ではないような〈高速餅つき〉のお店。その角を曲がったところに、餅飯殿商店街もちいどのの入口がある。

 東大寺の南大門から仁王像が抜け出してきたような、餅つきの兄さん達の残像を想いながら、ぷらぷらと商店街を中心に奈良町をそぞろ歩きしていた。……はずが、気がつくと、のんびりした人の往来を背に、小さな店舗の入り口に貼られた紙と向き合っていた。

「住み込みの、バイト?」

 そう呟いた途端、周囲の音がどこかへ消え、代わりに鳥の囀り声と甘い香りを感じた気がした。だが、はっと気がついた時に目の前にあったのは、人一人がやっと通れるという程度の、ドアの幅しかない店の入り口だ。

「なんだろ? 今、大きな樹が……」

 見えたような……

 いや、有り得ない。所狭しと家や商店が詰め込まれたこの界隈にあんな大きな樹が生えているなんてことは。春日山の原始林にしたって少し離れている。


 その時、足元を何かが駆け抜けてヒヤッとした。気配を目で追うと、二メートルほど離れたところに一匹の白い……

「えっ、犬……?」

 立ち止まってくるりと振り返ったその白い生き物は、前足を片方上げてこちらを見ていた。首輪をしていなければ、飼い主らしき人も見当たらない。何より行き交う人の目には留まってさえいないように思えた。

 ゆったりと左右に揺れる太いふさふさとした尻尾に誘われた気がしてそちらへ足を向けると、その白い犬らしきものが再び駆け出した。つい、なんとはなしに追いかけてしまう。

 時折こちらの様子を振り返る白い影に導かれるように早足で歩を進めるうちに、いつしか知らない路地を抜け、急に視界が拓けた。


【募集! 住み込みアルバイト 琥珀食堂】


 信じられない面持ちで目の前の大樹を見上げ、見覚えのある貼り紙に視線を戻した。ぽっかりと明るい空間に、ぽつんと大きな樹。足元にはくだんの白い毛むくじゃら。

 不思議と混乱していない自分に困惑しつつ、樹の幹に打ち付けられた貼り紙に手を伸ばした。

『あいまいみーまいん』

「え?」

 初めて耳にするような響きに、それがのようなものであることに思い至るまでに暫くかかった。周囲には誰も居ない。自分とこの白い動物を除いて。

 伸ばしかけた手を引っ込めて、こちらを眺める二つの丸い瞳を見つめ返す。

 ぬいぐるみのようなふわふわの白い体毛に、細めの手足。耳の内側と鼻先、そして瞳を縁取る瞼は地肌の色を思わせるピンク色だ。なにより不思議な瞳の色をしている。極めて薄いブラウンの中に朱が混ざり合っている。所謂だろうか。

 犬に似ているが、犬と呼ぶのはどうにもしっくりこない。

 足元からそう遠くない距離でじっとしているソイツの柔らかさを感じてみたくて、しゃがんでそちらへ手を伸ばしかけたところで、すり抜けるように樹の幹の裏側へと駆けていった。

「やれやれ」

 珍しい生き物が自分に気を許している、という解釈が勘違いだと突きつけられてガッカリしつつ、獣が消えていった方へ回り込んでみると、表向きには全く予感させないくらい大きなうろがぽっかりと空いていた。

「なんだ? この中に入っていったのか?」

 なんとか人が入れそうなくらいの空間に足を踏み入れてみる。が……


 急に足元が失われたような浮遊感の後、自分が落下していることに気づくと同時に気を失った。



   *



 コトリ……


 はっと気がつくと、目の前に涼し気な薄い桜色の液体が入ったグラスが置かれていて、カランと氷が揺れる音がした。

 打ち付けたような身体の傷みはなく、ゆったりとした適度な弾力のソファに腰を下ろして寛いでいる自分が居る。

「こんにちは。桜ソーダ、で良かった?」

「えっと、これは……」

「君が今一番飲みたいものだと思う。きっと」

 不意に声をかけてきたその人は、明るいミントグレージュのふわふわとしたボブの髪をひょいと耳に引っ掛けて、にこりと微笑んだ。不思議な色の柔らかな視線とぶつかり、思わず見入ってしまう。これって、シェイクスピアが『ロミオとジュリエット』の中で表現した榛色の瞳ヘーゼルアイってヤツじゃない? ブラウンとグリーンが混ざり合う曖昧な境界が静かな森みたいだ。

「良かったらどうぞ」

「あ、じゃあ……いただきます」

 小さなグラスを呷ると、シュワシュワとした舌触りの後、桜シロップの甘味と桜花の塩漬けの塩分が身体の隅々まで染み渡った。あの白い獣を夢中で追いかけ、思いのほか疲れていたのだろう。

 予言通り、今一番飲みたいものだった。

 

「あの、ここは?」

 明るいリビングのような雰囲気ながら、テーブルや座席が多い。となると、カフェかレストランなのだろう。

 観葉植物が充実した室内をぐるりと見回してから、オープンキッチンのカウンターで静かに作業するその人に声をかけた。

 顔を上げて「ちょっと待ってて」という風に視線を寄越し、バターの香りがするビスキュイの乗った皿と、紅茶の入ったカップを二人分持って戻ってきた。優雅な手付きで食器を並べ、向かいに腰を下ろす。


「ようこそ、琥珀食堂アンブルへ。住み込みのアルバイトに来てくれたんでしょう?」


 そう言われてから、理解するまでに時間がかかったみたいだ。その証拠に皿のビスキュイが既に二つ減っている。

 目の前でサクサクと音を立てながら心底嬉しそうに微笑む顔を見て、断れる者はそうそう居ないだろうな、とぼんやり考えた。


 これが、琥珀食堂アンブルとの、露樹ロキとの出会いだった。

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