♬3 樹齢千三百年を超える楠木
そう。文字通り、私の部屋になったのだ。これはもう、そういうものだ、と受け入れるしかないのだけれど……
琥珀食堂は生きている。
奈良街道に鎮座する樹齢千三百年を超える御神木。この
どんなに摩訶不思議で信じがたいものでも、目の当たりにしてしまうと信じざるを得ない。それほどまでに目に映る光景の威力は絶大だ。
初めてここへ来た日、露樹に連れられて上った螺旋階段は、図書館を過ぎた先まで続き、無意味に途中で途絶えていた。所謂、超芸術トマソンかな、などと呑気に構えていたところ、目の前の光景がみるみるうちに変化した。
先細りの空間が歪んで見え、目をこすっているうちに、広がってみせた空間に螺旋階段がさらに伸び、先程までトマソンの終着点だった位置には……扉が。まるで、はじめからそこにあったかのような佇まいだ。
「鍵は君が持っているはず」
「鍵……?」
訳が分からず呆然としていたところ、にこりと微笑みかける露樹が私の胸元を指差し、その時初めて覚えのない感触に気がついた。
首元に下がった細身の紐をパーカーから引きずり出すと、小さな鈍色のスケルトンキーが現われた。単純な構造の先端に対し、持ち手部分には複雑な装飾が施されている。
「一体、いつの間に……」
「これは
信じられない面持ちで手のひらの
*
この楠木は、つまり
その証拠にそれまで存在しなかった部屋が一つ、あっという間に目の前で形作られた。しかも鍵を開けて踏み込んだ先は、驚くほど自分におあつらえ向きの空間だった。
「あの部屋、すごく気に入りました」
ちょっと広めの清潔な寝床に読書灯。明るい窓際には物書き机と椅子。あとは私物と衣服を収納できる小さなクローゼット。
充分だった。むしろこれ以上のものはあって欲しくない。落ち着いたトーンの薄いベージュの壁紙にグリーンをはじめとしたアースカラのファブリックも好ましい。
「本当に無意識の願望まで汲み取ることができるんですね」
「それが
一口サイズに割った卵焼きに、出汁醤油を垂らした大根おろしを乗せながら、露樹はしみじみと言った。
「部屋はその人を表すものだけど、君の部屋はシンプルでいいね」
言葉に詰まり、小さく頷いて味噌汁を啜る。
――勘違いするな。部屋の話だ。
そう自分に言い聞かせた。
*
「卵焼き、美味しかったな」
片付け終わって部屋に戻り、寝床に腰掛けたところで、はたと気づいた。
伝えていない。
露樹は私が現われてから卵焼きを作り始めた。それは出来たてを食卓に乗せるためだろう。自分がそういった細かい配慮に気づくのは、いつも随分後になってからだ。
間違いなく、出汁巻き玉子は今朝の献立のメインディッシュだった。
ふわふわで出汁が染みていて、それでいて素朴で、今までで一番……
「今日中に……言わなきゃ」
そう心に決めて、ぱたりとベッドに背を預けた。
プライバシーに配慮された快適な自室。
充分なプライベート時間。
美味しい食事。
ただ、完璧過ぎるこの住み込みのアルバイトにも思いもよらぬ誤算があった。
雇い主がトンデモナイ奴どころか、トンデモなく……
露樹は言葉数が少なく、どちらかというとクールだ。かといって話し方に冷たい印象は全く無くて、ナチュラルに向けられる笑顔が視野を明るくする。所作の一つひとつも、どこか品があって目で追ってしまう。
つまり、私は露樹に夢中になりかけている。
どんなに優しく丁寧で、まっすぐこちらを見て柔らかく微笑もうと、露樹は間違いなく〈雇用主〉で、私は〈従業員〉だ。
些細な下心でも見え隠れすれば、露樹の方が居心地悪く感じるだろう。そうなれば追い出されたっておかしくはないのだ。せっかく手に入れた理想の住み込みのアルバイトの立場を失うわけにはいかない。気付かれないようにしないと……
そこまで考えて、再びはたと気づいた。
そのおかげで、客が注文せずとも、欲しているものが自動的に提供されるからこそ、「
植物は根を下ろした場所から移動できないからこそ、センシティブな感覚や記憶領域を発達させ、学習能力も磨いてきた。それは通説として知っている。
つまり、この
こうして自室で過ごしている私の心の内まで、お見通しなんだろうか。
「内緒、ですからね」
寝転んだまま、じっと天井に向き合って、何もない空間に向かって呟いた。
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