『恋情(二)』
戸口から現れた男は青龍派の門人、
「龍悟くん……」
「……がっかりさせてしまったみたいだね」
「あ……、その、ごめんなさい……」
確かに先ほどの自分は、戸口から現れるのは
しかし、龍悟は首を横に振ると、
「僕の方こそすまない。余計な事を言ってしまった」
「そんな事ないわ。龍悟くん、助けてくれてありがとう……!」
凰華がひざまずいて礼をすると、龍悟は手を振った。
「そこまでしなくていいよ。当然の事をしたまでさ」
「ううん、本当に感謝してもしきれないくらいよ。あたし、やっぱり落馬していたの?」
「ああ。助け起こしてみれば、凰華さんだったからビックリしたよ」
凰華はなんとなく気恥ずかしいような気がして、少し顔を赤くした。
「でも、こんな偶然があるのね。助けてくれたのが知り合いだったなんて……」
「うん、その……変に思わないで欲しいんだけど、昨夜突然、凰華さんが近くにいるような気がしたんだ。虫の知らせってヤツかな」
「そうなんだ、変になんて思わないわ。龍悟くんが通り掛かってくれなきゃ、どうなっていたか……」
不意に、凰華は何かを思い出したかのように神妙な面持ちになった。
「……あの、あたしが乗っていた馬は……?」
「……脚が折れて苦しんでいたから、申し訳ないが僕の判断で送ってあげたよ」
「————そう……。ごめんなさい、嫌な事をさせてしまって……」
きっと龍悟の腕なら少しも苦しむ事なく眠れただろう。その心遣いに感謝しつつも、自分の無茶に付き合わせて、一つの命が散ってしまった事実に凰華は涙を流した。
「……色々訊きたい事はあるけれど、今は何か口にした方がいい」
そう言うと、龍悟は持っていた野兎を差し出した。
皮を剥がれ木の串に刺された兎の肉が焚き火の熱で炙られ、香ばしい匂いが屋内に立ち込める。
「焼けたよ、さあ食べて」
「……ありがとう……」
おずおずと受け取った凰華は、少し躊躇しつつも肉にかぶりついた。その瞬間、脂したたる肉汁とほのかな塩分が口中に広がり、身体中に力が蘇ってくるようだ。
何しろ三日ぶりの食事である。一口で空腹がおさまるはずもなく、瞬く間に串を丸裸にする。
「身体がビックリするから、ゆっくり食べた方がいいよ」
龍悟が優しく声を掛けるが、凰華はそれには答えず、一気に何本も平らげてしまった。
最後の串を手にした時、開けられていた口がゆっくり閉じられ、凰華は再び涙を流した。その様子を眼にした龍悟が穏やかに語りかける。
「どうしたんだい……?」
先ほどは馬の死を悲しんでいたというのに、今は己の空腹を満たすために別の生き物の命を食している。しかし、衰弱した身体は貪欲に食物を吸収する事をやめない。その命令に抗う事が出来ずに、凰華は再び肉を口に運んだ。
数日ぶりに食物と水分を摂った凰華は、まだ多少だるさは残るものの、立ち上がって歩けるほどには回復した。
凰華の青白かった顔色に赤みが戻った事を見た龍悟は微笑み、
「それじゃあ、良ければ事情を説明してくれないかな? どうして蒼州にたった一人で?」
「えっと…………」
凰華は答えに窮した。まさか馬鹿正直に『おたくの掌門を止めに行く』と言う訳にはいかない。嘘を言ったり黙秘する事は簡単だが、それは恩人に対してする事ではない。
どうしたものかと考え込んでいると、龍悟が先に口を開いた。
「……まさか、単身で青龍派に乗り込むつもりじゃないだろうね?」
「————!」
凰華の心臓が早鐘の如く鳴り出した。その表情を見た龍悟が呆れたように笑う。
「冗談のつもりだったんだけど、まさか当たってしまうとはね……」
「えっと、その……、あの……」
分かりやすく凰華がしどろもどろになった。
「……
龍悟は、凰華の脳内を全て見透かしているかのように言い当てた。ここまで見事に言い当てられてしまっては、もうゴマかす事は出来ない。凰華は力なくうなずいた。
「……実は紅州で、青龍派の門人に拓飛が襲撃されたの。貴派の掌門の命令だって……」
凰華は告げ口になってはいけないと思い、
「もう隠す必要も無いから言うが、その
「————そんな……!」
凰華は愕然とした。拓飛がいくら強いといっても四六時中、青龍派に付け狙われては命の保証は無い。
龍悟は、青ざめた凰華の表情を見て溜め息をついた。
「……呆れたね。まさか本当に一人で、なんとか出来ると思っていたのかい?」
「…………龍悟くん、頼みがあるの……」
凰華は何か決意したかのように、真っ直ぐに龍悟の眼を見る。
「手伝ってくれたら、あたし龍悟くんの言う事をなんでも聞くわ……!」
「————‼︎」
この言葉に龍悟の端正な顔が大きく歪んだ。
「きみは、それほどまでに彼を…………」
凰華は龍悟が自分に好意を持っている事は薄々感じていた。こんなやり方はとてもずるくて卑怯な事だとは分かっていたが、愛する男のためになり振り構わず、この条件を持ちかけたのである。
龍悟の心に再びあのドス黒い感情が押し寄せたが、痛む胸を押さえて深呼吸すると、どうにかつかえていたモノが散っていった。
「……いいよ。どこまで出来るか分からないが、きみを掌門の元まで案内しよう」
「————本当⁉︎」
「ただ、僕の言う事を聞くなんて事はしなくていい」
「そんな……、それじゃ、いくらなんでも龍悟くんにあんまりだわ……」
凰華は申し訳なさそうな表情を浮かべるが、龍悟は淡々と返した。
「別に気にしなくていいさ。元々、僕もこの
「龍悟くん……!」
「勘違いしないでほしい。僕は純粋に武術家として、彼に勝ちたい。それだけだ」
自らに言い聞かせるように、龍悟は静かに言い切った。
凰華も武術家の端くれである。好敵手に己の研鑽をぶつけ、勝利したいという気持ちは理解できる。それに青龍派の全門人に狙われる事に比べれば、拓飛の身の危険は少ないと思われた。
凰華は再び、ひざまずいて叩頭した。
「……ごめんなさい、貴方の申し出に甘えさせてください……!」
「…………」
龍悟は無言で足を引いて、凰華の礼を外した。
「それじゃあ、今日は休んで明朝、僕の馬で出発しよう」
「ううん、すぐに行きましょう」
「駄目だ、今日はしっかり休むんだ」
珍しく龍悟が語気を強めた。龍悟が自分の身体を心配してくれているのが分かるので、凰華はそれ以上何も言わずに従った。
翌朝、凰華が眼を覚ますと、雨が上がり、太陽が顔を覗かせているのが見えた。絶好の出発日和である。
「よし、行こうか」
「はい……!」
凰華は龍悟と共に、青龍派の総本山『
———— 第二十五章に続く ————
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます