第二十一章
『指南(一)』
————同時刻、蒼州のとある山中————。
樹々が生い茂り、人が足を踏み入れる事のない荒山の奥深くに、轟々と唸り声を上げる白龍の如き瀑布があった。
その滝壺の中心に立つ一人の男。
白龍の口から吐き出される水流は止めど無く押し寄せ、常人ではとても立っていられないほどであったが、男は胸まで激流に浸かりながらも、その芯は一切の揺るぎ無く、まるで脚に根が生えたかのように屹立していた。
不意に男が腕を振るうと、水流に切り込みが生じ
月明かりに照らされた男の顔は彫刻のように青白く、そして美しい————。
男は青龍派の俊傑、
龍悟は全身に氣を巡らし、鬼気迫る形相で両腕を振るい続ける。それは武術の修練というより、心の中に掛かった
以前の己ならば剣を振るうのに何の迷いも躊躇いも無かった。しかし、今は寝ても覚めても一組の男女の姿が脳裏から離れず、どれだけ剣を振るおうとも、何の進歩も感じられない。
焦燥が心を支配した途端、手中の剣はスウっと消え、周囲には水のぶつかり合う音のみが響いていた。
「……ハハ、何をやっているんだ、僕は……!」
龍悟が自嘲するような薄笑いを浮かべたその時、
「おうおう、若えのに大したモンだなニイちゃん。この激流の中に立ち続けるのは生半可な内功じゃねえ」
耳をつん裂くような轟音の中、不思議と良く通る低い声が、背後から聞こえてきた。
龍悟が振り返ると、滝壺の縁に中年の大男がだらしなく頬杖を突いて横たわっている姿が見えた。
「……ご先輩。いくら年長と言えど、他人の修練を黙って見るとは些か礼を失するのではありませんか?」
「悪い悪い、噂に名高い
「このような夜半に物見遊山ですか。随分と酔狂な事ですね……」
龍悟はあくまでも冷静に答えたが、その心中には少なからぬ動揺が生じていた。
(何者だ、この男……? いくら修練に集中していたとは言え、この僕に全く気配を感じさせないとは……)
龍悟は一足飛びで男の側まで降り立つと、
「私は青龍派の弟子、黄龍悟と申します。御尊名をお聞かせ願えますか?」
包拳礼は取ったものの、男を見下ろしたまま名乗りを上げた。
「なぁーに、俺のことはオジサマとでも呼んでくれりゃいい」
男は龍悟に顔を向けることなく軽口を叩く。
「だが、いけねえな。ニイちゃんにオジサマなんて呼ばれた日にゃ、そっちの
この言葉に龍悟の眼輪筋がピクリと動いた。
「……ご先輩、よろしければ一手ご教授願いたいのですが……?」
「構わねえよ? いつでも
龍悟は男の正気を疑った。何しろ男は、背後で剣を構えられていると言うのに依然として動こうとしないのである。
(狂人の類か……。こんな男に構う事はない)
龍悟は剣を収めると、
「いえ、やはり止めておきます。わざわざ怪我をする事はありません」
「なんでえ、昨今の青龍派の門人と来たら寝転がってる男にもブルッちまうのかい?」
龍悟としては、男の頭がおかしいと見て見逃してやるつもりだったが、ここまで舐められては青龍派の沽券にも関わる。再び手中に剣を出現させた。
「……後悔はしませんね……?」
「勿体ぶってねえで早くやれ、ガキが」
龍悟の眼がカッと見開き、神速の剣が振り下ろされた。
————しかし、剣は地面に突き刺さり、先ほどまで確かにそこにあった男の姿は影も形もなかった。
「おいおい、どこ狙ってんだあ?」
龍悟が振り返ると、数丈先に男が先ほどの姿勢のまま、ニヤニヤしているのが見えた。
龍悟は驚愕すると共に、眼の前の男が言動はともかく、腕の方は尋常ではないと理解した。
「先ほどの無礼はお詫び致します。どうかお立ちになってくださいませんか?」
片膝を突いて龍悟が礼を返すと、男はゆっくりと立ち上がり、
「やれやれ、そこまで言われちゃ立ち上がらねえワケにはいかねえな」
龍悟は改めて、男の姿をその双眸に収めた。
常人よりも頭三つ分は優にある
さらに、何気なく立っているように見えて、その立ち姿にはピンッと一本の線が通っており、深い内功が備わっている事が窺い知れた。
龍悟は深く息を吸うと、丹田から立ち上る真氣を全身に巡らせる。
「ご先輩、それでは改めてご指南いただきます」
「おう、殺す気で来ていいぞ」
無言で頷くと、龍悟は双剣を手に男に迫った。
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