『赤燕(三)』
ゆるりと突き出された
(————何⁉︎)
しかし、押し当てられた掌からは何の圧迫感も感じられず、燕児は構わず手刀を振り下ろした。
燕児の爪が拓飛の心臓に差し掛かった刹那、拓飛の眼が見開かれ、押し当てられた掌から怒濤の如く真氣が流れ込んでくる。
乾いた炸裂音と共に燕児の身体が宙に舞い、そのまま湖にドボンと落水したが、湖面には水泡が浮かび上がるのみであった。
「おっしゃあっ! 『
拓飛は寝転んだ姿勢からトンボ返りして起き上がると、歓喜の声を上げた。
「なに言ってるのよ! 燕児さんが浮かび上がって来ないわ!
「任せとき!」
慌てて
斉の手によって引き揚げられた燕児は外傷は無いものの、その眼は固く閉じられ、意識不明の状態であった。
「燕児さん、水は吐き出したけど眼を覚まさないね……」
心配そうに凰華が呟くと、拓飛はバツが悪そうな顔をした。
「な、なんだよ……手加減はしたぜ」
拓飛が弁解すると、燕児の介抱をしていた船頭の老人が
「あんた、燕児さまに何という事をしてくれたんじゃ……!」
老人の眼は血走り、怒りの色に染まっている。まるで孫娘を傷つけられた祖父のように。
「お爺さんは朱雀派の方なんですか……?」
凰華が恐る恐る訊くと、老人はかぶりを振った。
「……違う。じゃが紅州は朱雀派の方たちによって、妖怪の魔の手から守られておる。特に燕児さまは月餅湖をよく見回って下さって、ワシらは安心して船を渡しておれるんじゃ。感謝してもしきれん」
老人の言葉に斉がウンウンと相槌を打つ。
「ホンマひどいやっちゃな。そない健気なおネエちゃんに手ぇあげるて、信じられへんわ」
「うるせえっ! ヤんなきゃ
苛立ちまじりに拓飛が怒鳴り声を上げるが、老人は背を向けると、たたんでいた帆を張り出した。
「……とにかく前金をもらったからには約束通り、あんたたちを向こう岸へ渡してやる。ただし————」
老人は一拍、
「いずれ朱雀派のお仲間が燕児さまを捜しに来られよう。その時にはワシは見たままを伝えるからな」
それきり老人は黙々と船を漕ぎ出し、いくら話しかけても全く反応しなくなってしまった。
眠っている燕児を船倉に横たえた凰華は溜め息をついた。
「ハァ、せっかく朱雀派の門人と会えたのに、これじゃ印象最悪で繋ぎを付けるどころじゃ無いわ。
「ハハッ、じゃあ次は玄武派の奴らに喧嘩売りに行くか!」
沈んだ空気を和ませようと拓飛が努めて明るく振る舞うが、凰華は信じられないほどの冷たい視線を向けた。
「そういうのいいから」
「……お、おう」
あまりの迫力に拓飛が口ごもると、凰華はプイッと顔を背けて船倉へと戻って行ってしまった。
「せや、拓飛! さっきのオマエの左腕、何やねんアレ!」
「…………」
無言で拓飛が左腕に巻いた上着を外すと、人間のものに戻っている。
「あれえ? さっきは確かに虎みたいになってたはずやのに……⁉︎」
「こういう身体なんだよ。話すと長えけどな」
「オマエがワイとの闘いの時に左腕を使わへんかったんは、これが理由やったんやな?」
「……そんなんじゃねえよ。とにかく、おめえも面白がって俺に付いて来やがったらロクな事にならねえぞ」
そう言うと拓飛は床に横になり斉に背を向けた。程なくして寝息が聞こえて来る。
斉は夜空を見上げると、ボソリと呟いた。
「……ロクな事にならへんか……」
翌朝、朝日をまぶたの裏に感じた拓飛が眼を覚ますと、月餅湖の対岸が間近に迫っているのが見えた。
「おはよ」
声に振り向くと、凰華が立っている。どうやら一眠りして機嫌は直ったようだ。
「おう。……朱雀派の女はどうだ?」
「まだ眠ったままよ」
「……そうか。おめえにゃ悪いけど、あの燕児って女からは朱雀派と繋ぎを付けらんねえだろうな」
「うん……。仕方ないよね。拓飛の言う通り、手を出さないとこっちがやられてたんだし。それより朱雀派の人たちに拓飛が狙われないか心配だわ」
「めんどくせえ事になっちまったが、今は考えてもしょうがねえ。ところで————」
拓飛が周囲を見渡すと、斉の姿が見えない。
「斉の野郎はどこに行きやがったんだ?」
「ちょっと前に、陸が見えると軽功でひとっ飛びして行っちゃったわ」
「……賢明だな。遊び半分で俺に付いて来るモンじゃねえ」
「拓飛……」
拓飛は遠い空を見つめながら言うと、凰華はなんと声を掛けようかと言い淀んだ。
「着いたぞ。さあ、早く馬を降ろして何処へなりとでも行ってくれ」
船頭の老人が不機嫌そうに口を開く。
「お爺さん、燕児さんをお願いしてもいいですか……?」
「ふん、言われんでもそうするわい。ほれ行った、行った」
老人は背を向けてシッシとばかりに手を振った。どうやら相当に嫌われてしまったようだ。凰華は老人の背に一礼を返した。
「とりあえず、人がいるところに行くのね?」
「ああ、それもいくつか条件がある」
「条件って?」
「それはな————」
拓飛が口を開くと、遠くの茂みからガサガサと斉が姿を現した。
「おおい、ワイを置いてくて薄情やないか!」
「斉! 行っちゃったんじゃなかったの⁉︎」
「そないなワケないやろ! ちいとババをしてただけや!」
キョトンとした凰華は拓飛の方へ顔を向けた。
「ババって何?」
「クソだ」
「……最低……!」
斉が二人のそばへと歩み寄ると、拓飛が確認するように言った。
「ロクな事にならねえって言ったよな?」
「いざとなったら尻尾巻いてトンズラするさかい、安心してええで」
「……ケッ、好きにしやがれ」
言葉とは裏腹に拓飛は、少し嬉しそうに口の端を持ち上げた。つられて斉もニッと笑顔を見せる。
「ほな、どっかでワイも馬を手に入れんとアカンな」
「ダメよ、普通の馬じゃ焔星を怖がって近寄ろうとしないのよ」
「何や、ソレ?」
「焔星には妖怪の血が混じってるのよ」
「ほーん、妖怪との合いの子かいな……」
斉はそう言うと焔星に近づき、マジマジと顔を眺める。
「ホンマや、凶悪で生意気そうな面構えが拓飛にソックリやな!」
斉の言葉が通じたのか、焔星は急に馬首を返すと尻尾で斉の顔面を叩き、眼が眩んだところに後ろ脚を突き出した。
辛うじて足蹴の追撃をトンボ返りで躱した斉は、そのままの勢いで桃花の背にまたがった。
「おお怖! ほな、ワイはこっちの別嬪はんに乗っけてもらうわ」
桃花は別嬪さんと言われて悪い気はしないのか、暴れ出す事はない。
「ダメダメ、桃花はあたしが西王母さまに借りているのよ」
「せやったら、ワイの膝の上に乗っといたらええがな。振り落とされんように後ろから優ぁしく支えたるさかい」
「絶対、イヤ」
見事に振られたというのに、斉はニヤニヤとしている。
「ほな、そっちの凶暴なヤツに拓飛と二人で乗るしかないなぁ?」
「ああ?」
拓飛が訊き返すと、斉はニヤついたまま続ける。
「そらそやろ、お馬さんが二頭で人間さまが三人。子供でも分かる計算や」
「ざけんなコラ、てめえが走りゃ済む話だろうが」
「イヤや、イヤや! ワイはこの
斉は早速桃花を操り、街道を駆け出した。拓飛と凰華が顔を見合わせる。
「あたしは、別にいいけど……」
「……街ん中じゃ、やんねえからな」
二人は一緒に焔星にまたがると、先を行く斉と桃花を追いかけた。
———— 第十八章に続く ————
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