『赤燕(二)』

 帆柱を蹴った燕児エンジは凄まじい勢いで拓飛タクヒへと襲い掛かった。


(————速えっ!)


 迎撃しようと構えていた拓飛だったが、予想以上の速度であったため反応が遅れ、赤い突風が通り過ぎるのを感じた時には、その首筋から血しぶきが舞っていた。


「拓飛!」


 凰華オウカが叫ぶが、拓飛は大丈夫だと言わんばかりに手で制すると、上空をキッと見やった。


 燕児は弧を描くように上昇気流に乗ると、拓飛の頭上を旋回し始める。


(あっぶねえ、もうちょい反応が遅れてたら喉笛掻っ切られてるとこだぜ)


 拓飛が首筋の穴道を突いて止血すると、再び燕児が上空から襲いかかる。この二撃目は拓飛の左眼付近に傷を付けた。


「こら難儀な相手やなあ。ごっつい速度の上に、正確に急所を狙ってきよる。加えて上空からの攻撃や。ナンボ拓飛でも手を焼くでえ」


 高みの見物とばかりに腕組みをしながらニヤついていたセイが口を開いた。


「どういう事よ? 斉?」

「細かい事は知らんけどやな、武術っちゅうのは基本的に向かい合った相手を想定してるやろ? 要するに上空からの攻撃には慣れてへんねや。山君さんくんと言われる虎も、空飛ぶ燕には手も足も出えへんか」


 斉の指摘通り、燕児が急降下する度、拓飛の身体から血しぶきが舞った。


 しかし拓飛は気がくじけるどころか、身体に傷が増えるごとに、その表情は凶悪さが増していく。


(……大体掴めて来たぜ。本物の鳥みてえに風に乗ってるだけで、宙にとどまる事は出来ねえらしい。あのピタッとした服は、空気抵抗をギリギリまで抑えるためってとこか)


 考えを巡らせている間に燕児が目前に迫って来るが、数度の攻撃で眼が慣れた拓飛は完璧な頃合いで返しの突きを放った。


(悪いが、俺は男女平等派なんでな!)


 拓飛の右拳が燕児の顔面に命中する————しかし、その拳にいつもの手応えは無く、まるで宙に舞う紙を打つような微かな手触りだけが残った。


(————何っ⁉︎)


 燕児は拓飛の拳を支点に空中でトンボを切ると、驚きで突き出されたまま残った拓飛の右腕に乗った。


「……凄いな、お前。この短時間で私に触れた者は、お前が初めてだ」


 燕児は感心したように言ったが、不思議な事に乗られた右腕にはほとんど重さを感じない。まるで本物の燕が留まっているようなものである。


「なんだこりゃ、気色悪い!」


 慌てて拓飛が右腕を払うと燕児は跳躍し、再び空中を旋回し始める。


「これが朱雀派の軽功『軽氣功』だ。心を軽やかに保つ事で、その身をひとひらの羽の如く為し風に舞う」


 上空から燕児の声が軽やかな燕のさえずりのように響いてくる。これにはさすがの拓飛も舌を巻いた。


「ひゃあーっ! 身体を軽うするなんて、なんちゅう技や! 朱雀派っちゅうのはホンマ恐ろしいなぁ!」

「あ、あんなの反則じゃない! 自分は安全な所から攻撃して、おまけに相手の攻撃は通じないなんて!」

「言いたいんは分かるけどやな、『相手には効かせず、届かせず』武術の理想形とちゃうか?」

「う……」


 斉の言葉に凰華は反論できなくなった。先程の格言は父も何かの折に言っていた事である。この男は軽薄そうに見えて、実に真理を突いた事を発する。秘伝書から独学で内功を覚えたというのは伊達ではなさそうだ。


(……さあて、拓飛ぃ。どないすんねん? このまんまおっぬようやったら、ワイは付いて行く男を変えるでぇ……?)


 斉の細眼から発する鋭い眼光が拓飛を捉えると、視線の先の虎は眼を見開き、嬉しそうに牙を剥き出している。この表情を認めると、斉もニヤリと白い歯を見せた。


 拓飛はフーッと息を吐くと、何を思ったのか床に大の字に寝転んだ。


 この光景に船上の全員が眼を丸くする。


「……なんのつもりだ。降参という事か……?」

「ヘッ、まさかだろ。月を見ろってうるせえヤツがいるから、拝んでやろうと思ってよ」

「……いいだろう。次の一手で終わらせてやる……!」


 燕児は冷たく言い放つと高度を上げ出した。言葉通り最後の一撃を放つつもりのようだ。


「な、何をしてるのよ拓飛!」

「————ハッハッハッハッハ! ホンマおもろいやっちゃで!」


 心配する凰華とは対照的に斉は大口を開けて爆笑する。


「何が可笑しいのよ、斉!」

「分からへんか? 常に見上げとるから攻撃がしづらい上に、相手に急所を晒した状態やねん。ああやって寝転んでしもうたら、上空の相手にも真っ正面から向かい合えるやろ」

「な、なるほど……なのかな……?」


 凰華は釈然としない様子だったが、斉にはその正体が分かっていた。


(これで相手が見やすうなったかも知れへんけど、自分の攻撃が効かへんのは変わりないで? お前がどないするか、お手並拝見とさせてもらおか)


 当の拓飛は生死を懸けた闘いの最中だというのに、本当に夜空に浮かぶ三日月みかづきを眺めていた。


(……こうして見ると、確かに月見ってのも悪かねえモンだな)


 その間に月の光を背に浴びた燕児の影が、次第に次第に大きく迫って来る。


(あの時は、もっと力が抜けてたなあ。そう、まるで水ん中を漂ってるみてえに……)


 心を無にして水の揺らぎに身を任せると、眼は半眼に、口は半開きになり、拓飛の身体から一切の力みが消え去った。まるで全身が水と同化したかのようである。


 気づけば、重力を味方に付けた燕児の手刀が凄まじいはやさで心臓を抉りに掛かるのが見えた。


 拓飛は微笑みと共にゆっくりと右掌を上空に突き上げた。

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