『天地開闢(二)』

 再び長い沈黙が場を支配していたが、突如、西王母セイオウボが扇子を広げると、


「————とまあ、言い伝えから想像するにこんな所じゃろうな。信ずるも信じぬもそなたたち次第という訳じゃ。ホッホッホ!」


 重い空気を払うように高笑いを上げた。しかし凰華オウカは神妙な面持ちで西王母の肩を掴むと、詰問するように声を上げた。


「西王母さま! どうすれば拓飛タクヒは妖怪にならずに済みますか⁉︎」

「ほう、わらわの話を信ずるのかえ?」

「教えてください!」


 凰華の表情かおはどこまでも真剣である。西王母は扇子で凰華の手を軽く払うと、一拍置いて口を開いた。


「……そうじゃのう、善行を行い徳を積めば、あるいは邪仙の遺伝子も大人しゅうなるやもしれぬな」

「ケッ、なーにが善行だ! じゃあ何か? てめえらの仲間になって人助けでもしろってか? くだらねえ!」


 拓飛は吐き捨てるように言うと、大股で部屋から出て行ってしまった。


「拓飛!」

「放っておくが良い、あやつも混乱しておるのじゃろう。それより凰華や……」


 


 怒りに任せて西王母の間を飛び出した拓飛は中庭に出ると、雑念を振り払うように套路を始めた。


 鍛錬というものは無心で行わなければならないが、いくら頭を空っぽにしようとしても、次から次へと雑念が湧いて出て来る。考えまいとすればするほど妄執の深みへと足を踏み入れてしまうのだ。


「くそッ!」


 苛立ちまじりに拳を桃の樹に叩きつけるが、樹はほんの少し振動しただけで、ひとひらの花びらも散らない。氣が拳に全く乗っていないのである。


「……ははっ、ダッセえ……」


 拓飛は自嘲するように笑みを浮かべると、大の字に寝転んだ。


 眼を閉じ、深呼吸をして気を落ち着けると、ほどなくして周囲には桃の花の香りが漂い、小川のせせらぎや鳥たちの美しいさえずりが流れているのが分かった。

 先ほどまではこんな事にまで気付かないほど心が荒れていたのだ。心と意が合わなければ、氣が上手く練れないのも道理である。


 陽は高く、暖かい陽射しが拓飛の身体を包み込む。そのまま拓飛は深い眠りに落ちていった————。


 


 ————どのくらい経っただろうか、拓飛はまぶたの上に何かが触れた気がして眼を開けると、それは桃の花びらであった。


「起きたの……?」


 その時、右手から柔らかな声が聞こえてきた。そちらへ顔を向けると、凰華が傍らに座っているのが見えた。その影は背後に大きく伸びており、随分時間が経っているようだった。


「俺……どのくれえ寝てた……?」

「二刻くらいかな。あたしが見つけた時にはもう眠ってたけど」

「そうか……」

「ねえ、桃源郷ここって巨大な龍穴なんだって。西王母さまがおっしゃっていたわ」

「ふーん。ま、そんな気はしてたけどな……はは」


 突然、拓飛が小さな笑い声を上げた。


「どうしたの?」

「いや、交流試合に出た白虎派の奴ら、ここで修行してんのに随分お粗末な腕前だと思ってよ」

「それは仕方ないと思う。体や技は鍛えられても、心は持って産まれた素養が大きいって父さんも言っていたもの」

「なるほどな」


 拓飛は上半身を起こすと、不意に口を開いた。


「……ガクのおっさんを捜そうと思う」

「そう……」


 凰華はそれきり何も喋らない。


「西王母のバアさんの話を完全に信じるワケじゃねえが、これ以上ここにいても何にもならねえ。それより岳のおっさんに訊きてえ事ができた」

「あたしは西王母さまに白虎派に誘われちゃった」


 凰華の言葉に拓飛は少し表情を変えたが、すぐにいつもの皮肉な笑みを浮かべる。


「いいんじゃねえか? おめえ元々、皇下門派こうかもんぱに入りたかったんだろ? 無事に内功も覚えられて万々歳ってワケだ」

「でも、あたし拓飛の左腕を治すって約束を果たしてないわ」

「ありゃ別におめえが勝手に言っただけで、俺は何とも思っちゃいねえよ」

「拓飛は白虎派に入る気はないの……?」


 拓飛は立ち上がると、夕陽を見ながら呟いた。


「悪いが俺は群れるのも、型にはめられるのも嫌えだ。それに今、入っちまったら西王母のバアさんの目論見通りになっちまいそうだしよ。人を助けてえと思ったなら、自分てめえの考えでやる。誰かに強制されんのは御免だ」

「ふふ、拓飛ならそう言うと思った」


 凰華は拓飛に肩を並べるように立ち上がった。


「あたし白虎派に入るわ……」

「……そうか。そんじゃあ、ここで————」

「でも拓飛に付いて行く」

「————あ?」


 拓飛は驚いて訊き返す。


「あたしの約束は一方的に言ったものかも知れないけど、それじゃあ拓飛の言う事を一つ聞くって約束はどうなるの?」


 凰華が突然例の話を持ち出すと、拓飛は顔を背けて口ごもった。


「あ、ありゃあ別に……言わねえで済むなら、それに越した事はねえし……と、とにかく別に気にしなくていい……」

「あら? 拓飛は自分が言い出した約束すら果たせない軟弱な男だったの?」


 凰華は勝ち誇ったような笑みを拓飛に向けた。むしろ約束を果たすのは自分の方なのだが。


 しかし、拓飛は歯が痛むかのように眉根を寄せると、ようやく言葉を絞り出した。


「……上等だ……! そこまで言うなら、この治療法があるかも分からねえ腕を治してもらおうじゃねえか……!」

「うん、そうする」


 凰華はまるで近所にお使いを頼まれたように軽くうなずいた。この先の道のりがどれほど過酷なものか理解していないかのように。


「けどよ、あのバアさんが白虎派には入るが、出て行くって事を承知すっか?」

「大丈夫よ、もう言ったもの。『あたしを白虎派に入れたいなら、それが条件です』って」

「————何⁉︎」


 拓飛は眼を見開くと、呵々大笑した。


「ハッハッハッハッハ! おめえ、あのバアさんにそんな啖呵切ったのかよ⁉︎ やるじゃねえか‼︎」

「ふふふ、でしょ?」


 拓飛の笑い声は、遠く離れた西王母の耳にも届き、つられて笑みが溢れた。


「……妾に条件を突き付ける者がおるとはのう。まこと愉快な奴らよ」


  ———— 第十五章に続く ————

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