『不倶戴天(二)』
再び眠ろうと思った
その時、部屋の外から香ばしい肉の匂いが漂って来ると、部屋の扉が開き
「……拓飛なら、もう食べられるかなって思って持ってきたけど……食べる?」
凰華は怒っているような、いないような微妙な表情で盆を寄越してきた。拓飛は返事もなく盆を引ったくると、無我夢中で料理を貪り始める。
「ほら病み上がりなんだから、ゆっくり食べなさいよ。お茶もあるから」
「…………」
拓飛は、げっ歯類のように口いっぱいに料理を含むと、無言でお茶を喉に流し込んだ。口の中が空になると、拓飛はボソリと呟いた。
「……怒ってねえのかよ……?」
「もちろん怒ってるわ。でも怪我人には優しくしないといけないって、父さんに言われてたからね」
凰華は眼を合わせずに素っ気なく答える。
「さっきは……その、悪かったよ。なんかムシャクシャしちまってよ……」
珍しく拓飛が謝ると、顔は変わらず背けていたものの凰華の眼が優しくなった。先ほどは売り言葉に買い言葉で言い争いをしてしまったが、内心は悪い気はしていなかったのである。
「……
凰華が不意に独り言のように呟いた。
「——でも、あたしはなんか違う気がするんだ。上手く言えないけど……」
続く言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
しかし拓飛にその真意が分かろうはずもなく、言葉通りに受け取ると、腹がふくれた事もあり、途端に機嫌が良くなった。
「まだ足りないなら、もっと持ってこようか?」
「そうだな。じゃあ、なんかテキトーに頼むわ」
「任せて。たっぷり焦げ目がついた焼き餅を持ってきてあげるわ」
凰華はイタズラっぽく笑みを残して、部屋から出て行った。拓飛はその背中を見送ると、軽く舌打ちをした。
「チッ、……それもいいかもな」
ほどなくして凰華が戻ると、拓飛が寝台に横になっているのが眼に入った。近づいてみると拓飛は、何の不安も恐れもない赤児のような無垢な表情で寝息を立てている。
「……ふふ、凶暴な虎も眠っていると、まるで猫みたいね」
拓飛はそのまま、また三日間眠り続けた————。
————同じ頃、東の地、
龍悟が先頭で大門をくぐると、かたわらに痩身の若者が立っているのが見えた。
「
「ああ、つい先ほどな」
龍悟が話しかけると、痩身の若者——
「すまなかったな。本来であれば筆頭の俺が引率するところだったんだが、お前には手間を掛けさせた」
「いえ、それより白虎派の
熊将の名を聞くと、怜震の表情が引き締まった。
「……そうか。……お前、脇腹をどうした?」
怜震は龍悟の顔色と微妙な重心の変化から、負傷箇所を正確に言い当てた。
「相手は蘇熊将か?」
「……いえ」
「まさか、お前に手傷を負わせるほどの手練れが、蘇の他にいると言うのか?」
「…………」
「まあいい。土産話は後でゆっくりと聞こう。師父がお呼びだ」
この言葉に、慶の顔が強張った。
「龍悟……」
「……行こう、慶」
龍悟と慶は敖光洞の最奥の間に足を運んだ。
「弟子——黄龍悟、弟子——李慶、遠征より只今戻りました!」
龍悟が呼ばわると、大扉の中から氣の通った低い声が響いてきた。
「……入れ」
『はっ』
二人が広間に足を踏み入れると、皇帝を思わせる玉座に壮年の男が鎮座しているのが見えた。二人は男の眼前へ進むと跪いて叩頭する。
男は今にも動き出しそうな五本爪の黄龍が刺繍された錦の袍を羽織り、頬杖を突いている。男の龍のような鋭い眼光に見据えられると、全てを見透かされるようで、慶は眼を逸らさずにはいられなかった。
「……龍悟。貴様、敗れたそうだな」
黄掌門が静かに口を開くと、龍悟の全身が粟立った。
「————いえ師父、龍悟は負けてはおりません。引き分けでございます!」
「控えよ、慶。ワシは龍悟に訊いている」
龍悟は覚悟を決めたように泰然と答えた。
「その通りでございます。私は敗れ、青龍派の名に傷を付けてしまいました。いかなる処罰も甘んじてお受け致します」
「…………」
永遠とも思える長い静寂の後、黄掌門が沈黙を破った。
「南東の地にて数十の妖怪が現れたと報告が入った。即刻、貴様一人で鎮圧に向かえ」
「お待ちください、師父! 龍悟は氣を消耗し、怪我を負っております。私が同道する事をお許しください!」
慶が顔を上げて嘆願するが、黄掌門の首が縦に振られる事は無かった。
「ならん。ワシは何と申した?」
「……師父! どうして、そのように龍悟に厳しくされるのです⁉︎ 龍悟は貴方さまの————」
慶はなおも引き下がらなかったが、龍悟が制止した。
「よせ、慶。黄龍悟その任、謹んでお受け致します」
再び叩頭すると、龍悟が立ち上がり背を向けた。
「待て。貴様の対手はただの人間とは違うとの事だが、誠か?」
「…………」
龍悟は何も答えない。
「慶、答えよ」
「……は。その者、白髪赤眼の風貌で左腕に白虎の腕を宿し、名は
「龍悟、何故その者に手を下さなかった……⁉︎」
「力及ばず私は敗れました。敗者がどうして手を下すなど出来ましょう……?」
龍悟の返答に黄掌門の眼光が鋭さを増し、周囲に凄まじい威圧感が立ち込める。黄掌門は椅子から立ち上がると、朗々と呼び掛けた。
『青龍派の門人たちよ、しかと聴け! これより白虎派に
その声は雄渾な真氣に増幅され、まるで龍吟のように敖光洞の隅から隅へ響き渡った。
掌門の間から辞去した龍悟を、慶が追いかけ声を掛ける。
「————龍悟!」
「……慶、なぜ奴の名を師父に告げたんだ?」
龍悟は足を止めたものの、背を向けたまま問いかけた。
「何を言っているの? 師父に訊かれれば答えない訳にはいかないでしょう。それに妖怪を滅すのは
「……まあいいさ。奴が僕以外の者に斬られるはずが無い。奴が妖怪であろうとなかろうとも関係ない。奴を斬るのは僕だ……!」
「……随分と彼らにご執心なようね?」
「…………」
これには何も答えず、龍悟は再び歩みを進める。
「待ちなさい、せめて怪我の処置をしっかりと————」
「闘いは常に万全な状態であるとは限らない。この状態だからこそ見えるものもあるはずだ」
物腰は柔らかいが、龍悟は頑固な側面があった。一度決めた事は必ずやり遂げる。こうなっては
「……どうして、師父は実の息子を死地に追いやるような真似をなさるの……!」
この言葉に龍悟は振り返ると、静かに口を開いた。
「……慶、僕はあの男を父と思った事など無い。あの男は僕にとって超えるべき師父で————」
続く言葉を龍悟は自らに言い聞かせるかのように言い放つ。
「————倒すべき敵だ……‼︎」
慶は龍悟の後ろ姿を見送る事しか出来なかった。
———— 第十四章に続く ————
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