『桃源郷(七)』
白虎派の女弟子に寝室に案内され、
仕方なく、眠気を促すために散歩でもしようと思い、部屋を出て中庭に足を運んだ。
宮殿から外に出ると、いつの間にか夜になっており、火照った身体に夜風が心地よい。
周囲の風景を観ながら散策していると、前方の林の中からビュッという風切り音が絶え間なく聞こえてきた。以前にもこのような事があったと思いながらも、林に足を踏み入れると、月光を浴びて輝く光の剣を振るう男が眼に映った。
————男は青龍派の
凰華は以前の
凰華は急いで眼を逸らそうとしたが、龍悟の振るう剣は鋭く、疾く、そして美しい。頭ではいけないと思ってはいたが、眼は龍悟の動きを捉えて離さない。
その時、龍悟の剣がピタリと止まり、こちらを振り返った。
「————誰だ! 白虎派の門人は、他派の鍛錬を盗み見るのか……⁉︎」
無表情ながらも、龍悟の語気には強い不快感が込められていた。凰華は木陰から姿を現すと、急いで跪いて叩頭した。
「すみません! 決して技を盗み見るつもりではなくて、あまりにあなたの技が綺麗で素晴らしくて、見とれてしまいました!」
凰華の姿を認めた龍悟の眼が穏やかになった。
「
龍悟に促され凰華は立ち上がったが、申し訳なさから顔を上げる事ができない。
「貴女もこちらで鍛錬を?」
「……いえ、明日の試合の事を考えていたら眠れなくなってしまって……」
凰華は返事をしていて自分が情けなくなった。本当に強い者は他人が休んでいる間にもこうして己を鍛え上げているのだ。拓飛も暇があれば、いつも鍛錬をしている。
「まさか、貴女も明日の試合に出るのですか?」
少し驚いたように龍悟が問うてくる。
「はい、成り行きでそんな事に」
「しかし、貴女は正式な白虎派の弟子ではないでしょう?」
なんと答えていいか分からず凰華が顔を上げると、心配そうな表情の龍悟と眼が合った。
————この瞬間、今まで感じた事のない感情が凰華の全身を支配した。
初めて会った時の龍悟は冷たい石像のようで、微笑みながら拓飛と
しかし、今は凰華の胸中には温かいものが溢れ、龍悟に対する恐れは霧散した。その理由は凰華自身にも分からない。
「石姑娘……?」
龍悟に呼びかけられ、凰華はハッとした。
「えっと、黄さん……」
「よければ僕の事は龍悟と呼んでくれませんか? あまり姓で呼ばれるのが好きではなくてね」
「えっと……、それじゃあ、あたしの事も凰華でいいですよ」
凰華が微笑むと、龍悟も嬉しそうに笑顔を見せた。
「凰華……さん、少し座って話しませんか?」
二人は林を抜けると、手頃な岩に腰掛けて話しを始めた。
凰華は明日闘う相手の
「慶は僕の姉弟子なんだ。手の内は明かせないが、青龍派の中でも指折りの使い手だ。失礼だけど、君は内功を学んで日が浅いだろう。明日はやはり棄権した方がいい」
「ありがとう。でも、やっぱりあたしも武術家の端くれだから、敵わない相手だとしても自分の腕を試してみたいの。……少し怖いけど」
「……そうか。それは失礼した。だけど無理はせずに、敵わないと感じれば降参する事も肝要だよ。上には上がいるものだからね」
「はい。そうします」
少しの間、沈黙が流れる。凰華は恐る恐る口を開いた。
「あの、龍悟くんも明日の試合に出るんだよね?」
「勿論。青龍派の威信とは別に、僕はあの妖虎を斬らなければならない」
急激に龍悟の眼が冷たさを帯び、隣に座る凰華は身震いした。
「どうして、どうしてそんなに妖怪を憎むの? 拓飛は事情があって、左腕以外は普通の人間なんです! 殺すなんてやめて!」
凰華は立ち上がると、龍悟に懇願した。
「それは出来ない」
龍悟も立ち上がり、言葉を続けた。
「……僕の母は妖怪に命を奪われた。あの時に誓ったんだ。この世から妖怪を根絶やしにするまで剣を振るい続けると……!」
空を見上げる龍悟の
「凰華さん」
龍悟は顔を凰華に向けると口を開いた。
「君がどういう事情で、あの妖虎と行動を共にしているかは分からないが、よければ青龍派に入門しないか……?」
「え……?」
「さっきも言ったが、君は白虎派の弟子ではないんだろう? 申し訳ないが、青龍派は白虎派に比べ多士済々だ。君のためにもなると思うが、どうかな」
突然の申し出で凰華は混乱したが、たちまち脳裏に意地悪で目つきと口の悪い男の顔が思い浮かんだ。
「……あたしが青龍派に入れば、拓飛の事を見逃してくれる……?」
この言葉は龍悟の心に矢のように突き刺さった。母への誓いとは別の、暗く濁った感情が拓飛に向けられた。
龍悟は無言で首を振ると、凰華に背を向けて歩き出した。
「……おやすみ。明日はやはり君が練武場に来ない事を願うよ」
一人残された凰華には、先ほどまで心地よかった夜風が急に冷たく感じられた。
———— 第十二章に続く ————
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