『桃源郷(二)』

 宮殿の中に足を踏み入れると、内部はまるで迷路の様になっていて、無数に扉があった。どこから入って行けばいいか凰華オウカが戸惑っていると、西王母セイオウボの声が聞こえてきて、案内を始めた。


 声の通りに凰華は進んでいく。廊下の角を幾度も曲がり、数え切れないほど扉を開けた後、ようやく一際大きな扉の前で足を止めた。


「ようここまで参ったのう。さあ、入って来るがよい」


 西王母の声が耳元からではなく、部屋の中から聞こえてきた。この中に白虎派の掌門がいるのだ。凰華は固唾を飲んで扉を開いた。


 部屋の中にはこうが焚き染められ、奥には貴人が控えていそうな御簾みすが掛かっていた。その中には女性らしき影が一つ見える。恐る恐る凰華は問いかけた。


「せ、西王母さまですか……?」

「いかにもわらわが白虎派掌門、西王母じゃ」


 この声は間違いなく、先ほどまで耳に直接響いていた西王母の声である。凰華はずっと脳裏に浮かんでいた質問を口にした。


「西王母さま、どうして遠く離れた場所へ声を届けたり、様子が分かったりされたのでしょうか……?」

「アレは『千里響音せんりきょうおん』という技じゃ。あとは『千里眼せんりがん』に『順風耳じゅんぷうじ』じゃな。無論まこと千里先までという訳にはゆかぬが、数里ほどなら造作もない」


 西王母が答えると、御簾が捲り上がり、その素顔が露わになった。


 歳は三十代くらいだろうか、その女性は出で立ちから仕草まで、まるで美しい仙女が絵の中から出て来たかのようである。あまりの妖艶さに同性の凰華でさえも見惚れてしまうほどであった。


「時に姑娘クーニャン、そなたは何と申す?」


 ボーッと見惚れていた凰華だったが、この言葉に我に返ると、慌てて叩頭こうとうした。


「申し訳ありません! 人に名を尋ねる前に私が先に名乗るべきでした! 私は石凰華セキオウカと申します!」

「よいよい。顔を上げよ。石……凰華と申すか。……ふむ」


 西王母は手にした扇子を口元に当てた。


「まこと雅な名じゃが、いささか姓とうておらぬな……?」


 西王母が笑みを浮かべて言うと、幾分か凰華の緊張も和らいだ。


「はい、よく言われます。父は無骨者でしたから、おそらく深く考えず字面の良いものを選んだのでしょう」

「左様か。じゃが妾も負けておらぬぞ? 妾の姓はオウ、名は月娥ゲツガと言う。どうじゃ?」


 凰華は白虎派の掌門が、自分のような小娘に本名を教えてくれた事が嬉しい。


「はい! 西王母さまにピッタリのお美しいお名前だと思います!」

「ホホ、嬉しい事を言うてくれる」


 西王母が笑くぼを浮かべると、凰華は再び叩頭した。


「さっきは拓飛タクヒをかばっていただいて、ありがとうございました!」

「礼には及ばぬ。青龍派の者に我が派の領域で好き勝手されるのも業腹じゃ。何より、その拓飛とやらに興味がある」

「拓飛に、興味……?」

「それは当人を起こしてからにしようかのう」


 西王母が扇子を拓飛に向けて一振りすると、拓飛の身体から桃色の霧が吹き出て霧散した。


「う、うう……あ……?」

「拓飛!」


 拓飛はゆっくりと身体を起こすと、頭をブルブルと振りながら口を開いた。


「凰華……、ここはどこだ……? なんか記憶が飛んじまって……」

「えっと、ここは……」


 凰華はなんと説明して良いものかと考えた。西王母に眠らされたと正直に言えば、拓飛はまたしても怒り狂って暴れ出すかも知れない。


 凰華が言い淀んでいると突然、拓飛が何かを思い出したように、凰華に詰問した。


「凰華! あのスカシ野郎はどこだ! どこに行きやがった⁉︎」

「え? スカシ野郎って、あの龍悟リュウゴって人のこと?」

「他に誰がいやがる! あの野郎、ぶっ殺してやる‼︎」

「まあ、落ち着くがよい。焦らずとも彼奴きゃつらはじきにここへ参るわ」


 西王母が口を挟むと、拓飛は向き直り、とんでもないことを言い放った。


「マジか、バアさん! いつだ! 野郎はいつ来やがる⁉︎」


 この言葉に西王母と凰華の表情が凍りついた。


「な、何言ってるの拓飛! こちらは白虎派の掌門の西王母さまよ! 確かに喋り方はアレだけど、どう見ても三……二十代でしょ! ほら、西王母さまに謝って‼︎」

「白虎派の掌門だあ?」


 凰華は西王母の怒りを少しでも鎮めようと、敢えてサバを読んだ。


「小僧……、妾が婆さん、じゃと……?」

「ああ、だってアンタ見た目通りの歳じゃねえだろ?」


 拓飛がキョトンとした顔で返事をすると、西王母は扇子を顔の前で広げた。


「ホッホッホ! よくぞ気づいたの! 初見で見破ったのは、そなたで二人目じゃ!」


 婆さん呼ばわりされて怒り狂うかと思われた西王母が呵呵大笑して、凰華は唖然とした。


「西王母さま、本当……なんですか……?」

「いかにも。そなたが想像しておるよりも多少は長く生きておる。凰華や、そなたも内功の鍛錬を積めば、永遠にその若さを保つ事が出来るやも知れぬぞ?」


 内功が至高の境地に達すれば、老いを止め、若返る事ができると耳にした事はあるが、まさか本当だと言うのだろうか。


「んな事はどうでもいいんだよ! それより、あのスカシ野郎は何モンなんだ?」

「うむ、その前に————熊将ユウショウ!」

「はっ!」


 西王母が呼ばわると、柱の陰から立派な髭をたくわえた筋骨隆々の大男が現れた。


「拓飛とやら。彼奴らの事が知りたくば、その男と立ち合い、打ち負かしてみせよ」


 拓飛は熊将と呼ばれた男をまじまじと眺めると、いつもの悪い笑顔になった。


「……面白え。ちょうどはらわたが煮えくり返ってたんだよ。このオッサンにゃ悪いけど八つ当たりさせてもらうぜ」

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