第八章
『焔馬(一)』
清徳鎮を出てからというもの拓飛は辟易としていた。いつもは自分の後ろについて来る凰華が、鼻歌まじりで先導しているのである。普段から明るい凰華だが、今は通常時より二割増しといった所だ。ついに拓飛は我慢できずに口を開いた。
「……おい、いい加減その歌、やめてくんねえか?」
「え? どうして?」
凰華は踊るようにクルリと振り返ると、笑顔で返事をした。
「ウゼーんだよ。清徳鎮を出てからずっとじゃねえか」
「だってあたし、拓飛とお爺さんが仲直りしてくれて、すっごく嬉しいの」
「それがおめえになんの関係があんだよ。大体仲直りなんかしてねえ。ジジイとは一時手打ちしてるだけだ」
「また、そんなこと言って。素直じゃないんだから」
凰華は微笑むと、また鼻歌を歌いながら歩き出した。
「あっ!」
突然、何かを思い出したように凰華が声を上げた。
「いきなりうっせーな。今度はなんだよ?」
「そう言えば拓飛の家におっきな厩舎があったよね?」
「厩舎?」
全く脈絡の無い話を持ち出され、拓飛は展開について行けない。
「あたしね、あれを見て馬が欲しいなって」
「なんで突然、馬なんだよ?」
「だって馬がいれば荷物も持ってもらえるし、何より
凰華は興奮気味に馬の利点を力説した。
「おめえ馬に乗れんのか?」
「うん、乗れるよ。子供の頃に父さんに習ったんだ」
「ふーん。悪いけど俺は乗れねえ」
「えっ、そうなの? でもあたしが教えてあげるから大丈夫よ!」
「いや、そうじゃねえ。俺が乗ると馬がビビっちまって、まともに走ってくれねえんだ」
凰華は一瞬なんの事か分からなかったが、すぐにピンッと思い当たった。
「それって……拓飛の左腕を怖がってるって事?」
「多分な。乗れるとしたら馬車がギリだ」
なんと声を掛けたらよいか凰華が迷っていると、背後から馬の
「びっくりしたあ。なんだろ、あんなに急いで……」
凰華が驚いていると、再び背後から馬が駆けて来て二人のそばを通り過ぎて行った。
奇妙な事にその後、一刻ごとに何人もの人間が馬に乗って二人を追い抜いて行く。
馬上の人間は年齢も風体も様々で、武芸者風の男もいれば、豪奢な身なりの旦那もおり、みな一様に同じ方向に向かって行った。その先には見渡す限り緑の地平線が広がるだけで、何が彼らを惹きつけるのだろうか?
「なんなんだろ、あの人たち。あっちの方向に何かあるのかな……?」
「面白え。行ってみようぜ!」
拓飛はニッと笑うと、凰華の後ろ襟を掴んで跳躍した。
「ちょっ……、やめてよ! 猫じゃないんだから————」
拓飛は一足飛びで数十丈も跳躍して、凄まじい速さで彼らが消えて行った先に向かって行く。凰華はまるでフワフワと空を飛んでいるような心地になり、怒りは霧散してしまった。
四半刻は走った頃、視線の先に黒山の人だかりが見えて来た。数百人はいるだろうか、周りには数十の天幕も張られている。拓飛は凰華をゆっくりと地面に下ろすと呆れたように呟いた。
「なんだ、こりゃ? こんな原っぱに何があるってんだ?」
「あたし、訊いてみる」
凰華は近くの商人風の男に話しかけた。
「ああ、ここは
彩族とは白州の草原地帯に暮らす少数民族で、
「何を売ってる市なんですか?」
「馬だよ。彩族の育てた馬は従順だし、持久力もあって人気なんだ。わざわざ
徐々に人垣が散っていき周りを見れば、遠くに柵があり、その中に数百頭の馬が走ったり、草を
「聞いた? 拓飛! 馬市だって! 渡りに船ってこの事じゃない?」
「馬だけじゃなく、他にも色々売ってるみてえだな」
拓飛の言葉通り、天幕の前には絨毯が敷かれ、薬や装飾品などが置かれていた。売り子だと思われる彩族の男が、たどたどしい言葉で凰華に声を掛けて来た。
「そこのお嬢サン。キレイな石、安くするよ! 見て行って!」
「宝石? でも、あたしに似合うかな……」
凰華は何かを期待するような眼を拓飛に向けた。
「んなモン買ってどうすんだよ。馬が欲しいんじゃねえのか?」
「…………」
しかし、この朴念仁に女心の何たるかは理解が及ばないようだった。
「旦那、コレなんかいいよ! お嫁サンにかなり似合うよ!」
「嫁じゃねえ!」
「奥さんじゃないです!」
赤くなった拓飛と凰華は息を合わせたように否定すると、怒って行ってしまった。これは彩族の男の売り文句で十中八九、客に商品を買わせる事ができたのだが、男には何が二人の気に障ったのか分からない。
二人は人波に揉まれるように馬のいる柵の方へ辿り着いた。見れば試し乗りをする者、彩族と値段交渉する者、馬の健康状態を確かめる者などでごった返している。
凰華は牧草を拾うと、声を掛けながら近くの馬にヒラヒラと振って見せた。牧草に気付いた馬は小走りで凰華に近づいて来たが、凰華の隣りに立つ拓飛の気配を察知すると、急に馬首を返して走り去ってしまった。
「な? 馬ってのは敏感だからな。あんなんじゃ乗れっこねえだろ」
「うーん、どうにかならないかしら……」
「どうしようもねえな。食いモンだけ調達して先に進……ん?」
拓飛は何かに気付いたように遠くを見つめた。凰華がその視線を追うと、一頭だけポツンと群れを離れて
その馬は雪のような真っ白い毛並みに、燃え盛る炎のような赤い
「おい、おっさん。あの白馬は?」
拓飛は近くにいた彩族に尋ねる。
「あの馬、ワタシたちが大きくした馬じゃない。いつの間にか混じってワタシたちの馬のエサを食べてた。かなり立派だから売ろうとして市に連れて来た」
どうやら、いつの間にか彩族の集落に紛れ込んで来た野生の馬のようだ。
その時、一人の大男が大股で白馬に近づいて行くのが見えた。男がひらりと白馬にまたがると、白馬は大きくいななき、凄まじい速さで駆け出した。
男は振り落とされぬように必死にしがみつくが、突如白馬が前脚を上げて直立になると、男は堪えきれずに頭からドスンと地面に叩きつけられてしまった。
打ち所が悪かったのか、数回痙攣すると動かなくなった。だが白馬は男には一瞥もくれず、何事も無かったかのように草を食み出した。
凰華は驚いて口を手で覆った。
「急にどうしちゃったの⁉︎」
「あの馬、かなり気が強い。だから誰も乗せない。ワタシの仲間も誰も乗れない」
古来より駿馬は自分が認めた者しか、その背には乗せないと言われている。拓飛は俄然興味が湧いてきた。
「誰も乗れねえだと……?」
拓飛は嬉しそうに上着を脱ぐと、首を鳴らした。
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