『帰郷(三)』

 娘と聞いて凰華オウカは霊廟の位牌を思い出した。


「娘さんって、もしかして玲蘭レイランさんですか? ……拓飛タクヒは自分が殺したと言ってましたけど、何かの間違いですよね?」

「……そう言っておったか。娘は十九年前の今日、命を懸けて、あやつを産み落としたんじゃ」


 この言葉に凰華は絶句した。今日は拓飛の母親の命日だったのだ。忍び込んででも、今日という日に母の霊を弔いたかったのだ。


「それじゃ今日は拓飛の誕生日じゃないですか、そんなの拓飛が可哀想です……。自分の誕生日を、お母さんを殺した日として記憶してるなんて……!」


 凰華は大粒の涙を流しながら言葉を繋いだ。


「拓飛は必死にこの世に生を受けようとしただけでしょう。玲蘭さんだってきっと恨んでなんかいないはずです。なのにどうして……?」

「……最初はワシもそう思っておった。娘の忘れ形見を大切に育てようと。しかし、あやつは生まれつき髪が生えそろい、牙が生え、眼が開かれておった。あの赤眼でワシを覗き込み、牙を見せて笑った顔が、今でも脳裏に焼き付いておる……!」


 凌翁は当時の記憶を思い出し、額には脂汗を浮かべていた。


「それだけではない。あやつは生まれて一月後には立ち上がり、三月後には意味のある言葉をしゃべり出した。そして、あの左腕じゃ。ワシはあやつが恐ろしい。頭では分かっておっても、どうしても自分の孫だと思えんのじゃ……!」


 凰華は凌翁の話を聞き、拓飛がどうして他者に対してあれほど攻撃性が強いのか分かった気がした。

 生まれた時から母を殺した負い目を背負い、実の祖父からも疎まれて育ったのだ。誰からも愛情を受ける事なく、この広い屋敷でどれほどの孤独を感じて生きていたのだろう。


 そして、凰華にはもう一つの疑問が生まれた。拓飛の父親とはどんな人物なのかと言うことである。

 常人とは違う髪と眼の色、そして虎の腕———それらは父親に起因するものではないのか?


「あやつの父親は誰かと考えておるのじゃろう……?」


 凰華の心を見透かしたかのように凌翁が尋ねた。


「……はい」

「それについては詳しくは話せん。あやつにも教えておらんでな。だが、あやつの父親は普通の人間じゃ。これは間違いない」


 拓飛の父親については何か事情があるのだろう。凰華はそれ以上追求する事は憚られた。


「では、拓飛の左腕はいつからああなってしまったんですか? 生まれつきではなかったんですよね?」

「……それも言えん。十年前という事しかな」


 凌翁の顔には苦衷の色が見える。凰華はその苦しい胸の内を察して、それ以上は何も訊く事ができなかった。


 

 拓飛は凌翁の部屋を出た後、怒りに任せて足早に歩き出した。


 拓飛は幼い頃から祖父が自分を見る眼が大嫌いだった。憎悪、恐怖、憐憫、様々な感情が入り混じった眼だ。あの眼で見られると、ふつふつと反骨心が湧き上がり思ってもいない事までブチまけてしまうのだ。


 ふと気づくと、十年前まで自分が使っていた部屋の前で足が止まっていた。


 扉に触れると鍵は掛かっておらず、思わず中に入ると、家具などの配置は十年前そのままで、誰も使ってはいないようだった。壁には祖父と喧嘩した腹いせに殴り付けた傷も残っていた。

 何の気なしにその傷を撫でると、十年間誰も使ってはいないはずなのに、ちりや埃が全く無い事に拓飛は気付いた。床や家具の下も全てである。見れば寝台の敷き布は真新しくシワも全く無い。

 自分がいつ帰って来てもいいように、祖父が毎日使用人に掃除を申し付けているのだろうか?


 記憶の中の祖父は矍鑠かくしゃくとしており白髪もまばらだったが、十年振りに再会してみれば、自分のように髪が真っ白になっており、杖が無ければ歩けなくなっていた。

 自分が大きくなったからかも知れないが、祖父の身体はあんなにも小さいものだったかと思うと拓飛は複雑な心境になった。


「誰だ! ここで何をしている!」


 その時、部屋の入り口から男の声が聞こえて来た。物思いにふけっていたため気配を感じなかったようだ。拓飛が振り返ると、盆を下げた中年の男と目が合った。


「……孝舟コウシュウ……」

「た、拓飛……ぼっちゃん……!」

「おい、もうガキじゃねえんだ。ぼっちゃんはやめろ」


 拓飛が近づくと、孝舟と呼ばれた男は怯えるように後ずさり、盆の上に乗っていた急須を床に落としてしまった。


「ああっ、申し訳ございません! 拓飛様のお部屋でこのような!」

「いや……悪い。ビビらせるつもりはなかった」


 誰に対しても傍若無人な拓飛であるが、この孝舟という男には幾分か遠慮が見られた。


「……戻られたとは聞いておりましたが、こちらにおいででしたか……。いや、ご立派になられて……」


 孝舟は割れた急須を片付け、拓飛に話しかけるが、その声は震えていた。


「ああ、おめえはどうだ? まだ番頭をやってんのか?」


 この男、孫孝舟ソンコウシュウは、拓飛が生まれる前から凌家に仕えており、使用人たちをまとめる存在であった。


「旦那様がお身体を悪くされてからは、今は私が商いを取り仕切っております。旦那様が倒れられたと報告がありましたので、切り上げて参った次第でございます。薬湯をお持ちしようと思っていたのですが、こぼしてしまいましたな。淹れ直して来ませんと。はは、は……」


 引きつった顔で孝舟は乾いた笑い声を上げた。


「安心しろ。用が済んだら出ていく。長居する気はねえよ」

「用……ですか?」

「あいつに……小蛍ショウケイに挨拶をさせてくれねえか?」


 孝舟の瞳が一瞬淀んだように見えたが、すぐにぎこちない笑顔に戻った。


「ええ、構いませんとも。娘も拓飛様が戻られて喜びましょう」

「悪いな……」


 部屋を出た拓飛は先程から何か違和感を感じていたが、その正体は分からず、そのまま歩き出した。


 

 拓飛は屋敷の外に出ると中庭を抜けて、大きな池のそばを通り掛かった。その中心には小さな亭がある。ここは昔、祖父と喧嘩したり嫌な事があった時に駆け込んだ憩いの場所だった。

 懐かしくなって亭の中に入ると、十年前のあの時のままに小さな卓と椅子が置いてあった。ここで卓に伏せっていると、必ずあの軽やかな声が聞こえて来たものだ。


「拓飛ぼっちゃま!」

「——小蛍!」


 拓飛が跳ね起きると、池のほとりに一人の女が立っているのが見える。月明かりに照らされたその顔は、凰華である。


「拓飛って、すっごいお金持ちだったんだね」

「金持ってんのはクソジジイだ。俺じゃねえ」

「あたしも座ってもいい?」

「好きにしろ」


 凰華は拓飛の向かい側に腰掛けた。少しの沈黙の後、拓飛が口を開く。


「何でこの場所が分かったんだよ?」

「お爺さんに聞いたの。きっとここだって」 

「……クソジジイはどうした?」

「疲れちゃったのか、また眠ってしまわれたわ」

「何の話をしてたんだよ?」

「うん、色々ね……拓飛のお母さんの事とか」

「チッ! あのクソジジイ、余計な事をベラベラと……」


 拓飛が悪態をつくと、凰華は懐から紅い髪飾りを取り出した。


「拓飛、これあげる」


 凰華はそう言うと、髪飾りを二つに分け、片方を拓飛に差し出した。見ると何か鳥が彫刻されているようだが、拓飛は意味が分からない。


「これ鳳凰の髪飾りなんだけど、二つに分かれるの。知ってる? 鳳凰って雄と雌があるのよ。雄がほうで雌がおうって言うの。だから鳳の方を拓飛にあげる」

「何で俺にこれをくれんだ?」

「今日は拓飛の誕生日でしょ? この髪飾りはあたしの一番大切な物なの」

「……妙な気を回すのはやめろ……!」


 拓飛は凰華を睨みつけるが、凰華は眼を逸らさずに真っ直ぐに見つめ返してくる。


「ううん、そうじゃない。あたし、拓飛には自分の誕生日を喜んで欲しいの。お母さんを亡くした日としてじゃなくて、祝福されてこの世に生まれた日だって思って欲しい」


 その双眸は一点の曇りも無く輝いていた。拓飛はこの眼が苦手である。この眼で真っ直ぐに見つめられると、何故か気持ちが穏やかになり、言い返す事が出来なくなってしまうのだ。


「これね、あたしのお母さんの形見なんだ。でも、あたしが赤ちゃんの時に亡くなったらしくて、顔も覚えてないんだけどね」

「……そんなモン受けとれねえよ」

「お願い。きっとあたしのお母さんが、拓飛の事も守ってくれるわ」


 拓飛は逡巡した後、これを手に取ると、


「ま、カネに困ったら飯代くれえにはなるか」

「売ったりしたら絶対許さないからね!」

「冗談だよ」


 凰華は拓飛が髪飾りを懐に収めたのを見ると、ニッコリ笑って突然話題を変えた。


「所で、ショウケイって女の人の名前だよね? どんなひとなの?」


 拓飛は予想外の質問に意表を突かれてゴホゴホと咳き込んでしまった。


「……聞こえてたのかよ」

「うん」


 拓飛は複雑な表情で立ち上がり、


「今から小蛍に会いに行く。ついて来たけりゃ勝手にしろ」


 ぶっきら棒に言うと、スタスタと歩き出した。

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