『猪豚蛇(四)』

 凰華オウカが振り返ると、数丈先の藪の中から一頭の猪らしき生物が姿を現した。だがその大きさは通常の猪の数倍はあり、毛並みは毒々しい緑色をしている。さらに額から大きな角が前方に向かって伸びており、これに貫かれようものなら間違いなく命は無いだろう。


(コイツが猪に似た妖怪!?)


 凰華が構えを取ると同時に妖怪が猛烈な速さで突進してきた。間一髪、凰華が体を入れ替えて躱すと、妖怪はそのまま下り坂を転がり落ちると思われたが、なんと返しの付いた銛のような形状の尻尾を地面に突き刺し、その巨体を止めてしまった。


 ゆっくりと振り返る妖怪と眼が合った凰華はゾッとした。その眼は爬虫類のような縦長の瞳孔をしていたのである。猪のような風貌に、無機質な爬虫類の瞳が取り合わせられると、得も言われぬ不気味さを醸し出していた。


拓飛タクヒ……)


 凰華は拓飛の姿を探すが、その姿はどこにも見当たらない。すでに山を降りてしまったのだろうか。


 その時、妖怪の後ろ脚が地面を蹴り、再び凰華に向かって突進した。


(ふーん、あれがこの山の妖怪か。確かに話は通じなさそうだな)


 大木の枝に座り、頭上から凰華と妖怪の様子を窺っているのは拓飛である。


 妖怪の二撃目の突進をなんとか躱した凰華だったが、その体捌きを見る限り、平地ならともかく足場の悪い山道で何度も躱すのは難しそうだ。


(このままビビって逃げ出してくれるなら、それでよし。俺を呼んで助けを求めてくるんなら、二度と着いてこねえように約束させた後、俺が妖怪をブチのめして終わりってワケだ)


 第三撃、第四撃の妖怪の突進を凰華は躱したが、息が上がり、樹を背にしてなんとか立っていた。


(おめえが悪いんだぜ。俺に着いてくるってことは、命がいくつ合っても足りねえってことだ)


 だが、凰華は逃げ出すでもなく、かといって助けを呼ぶ様子も無い。拓飛はイライラしてきた。


(何やってんだよ。早く逃げ出すか、俺を呼ぶか、なんとかしやがれ!)


 妖怪は獲物の動きが鈍っていると見て、しっかりと力を溜めて渾身の突進を繰り出した。凰華は妖怪が迫っても躱す素振りを見せない。拓飛は迷っている内に動くのが遅れてしまった。

 雷が落ちたような轟音と共に樹齢数百年かと思われる大木がメキメキと音を立てて倒れる。しかし、そこに凰華の姿は無かった。


「ハアアアアアアァッ!」


 掛け声と共に数発の打撃音がどこからか聞こえてきた。直後、妖怪の腹の下からゴロゴロと転がりながら凰華が姿を現す。


「ハア、ハア、獣はお腹が弱点って聞くけど、やっぱり氣が籠もってないと妖怪には通じないみたいね」


 凰華は妖怪の鼻先が迫った瞬間、妖怪の腹の下に滑り込んで突きを五発叩き込んだのだが、妖怪には全く効いている様子は無い。


「……やっばい、なんかすっごい怒ってらっしゃる」


 妖怪がゆっくりと旋回し、凰華の姿を正面に捉える。鼻息が凄まじく、先程の攻撃はかえって怒りを増幅させてしまっただけのようだった。

 妖怪が再び突進を繰り出す。凰華は構えを取るが、もはや躱す体力は残っていなかった。今度こそ万事休すかと思われたが、またもや上空から白い流星が降ってきて、眼前に迫った妖怪を押しつぶしてしまった。


「拓飛!」


 目の前には拓飛が妖怪の上にのしかかり、ものすごい形相をしている。


「おめえ、何考えてんだ!」

「え?」

「内功が使えねえと妖怪は倒せねえって知ってんだろ!」

「う、うん」

「だったら何で逃げるか、俺に助けを求めねえんだ!?」

「え……あ! 拓飛!」


 怒る拓飛の後ろで、妖怪がゆっくりと立ち上がり口を大きく開け出した。


「てめえはすっ込んでろ!」


 拓飛は振り向きもせず、裏拳を妖怪に叩き込む。妖怪は数丈先に吹っ飛び、いくらか痙攣した後、動かなくなった。


「す、凄い……! あんな軽く振ったのに」

「おい! 訊いてんだぞ! さっさと答えやがれ!」

「あ、うん。きっと拓飛はあたしを試してるんだと思ったの。あたしが逃げたり、助けを求めたら、拓飛に見限られると思って」


 これを聞いた拓飛は開いた口が塞がらなかった。この女はおめでたくも、勝手に自分が試されていると思っていたらしい。途端にさっきまでの自分の企みが、ひどく下卑た考えだったと感じられ、拓飛は少し後ろめたい気持ちになった。


「……馬鹿かおめえは。それでてめえが死んじまったら元も子もねえだろ」

「うーん、でもあの妖怪を退治しないと茶屋のおじさんや旅人が困るだろうし、それにきっと拓飛なら文句は言いながら助けてくれるかなって」


 言いながら苦笑いを浮かべる凰華の表情に嘘は無い。拓飛はため息をつくと、無言で背を向け山を降りだした。


「こんな山にもう用はねえ。行くぞ」

「え? 行くって、着いて行っていいの?」

「俺にはもう、おめえを諦めさせる手が浮かばねえ。好きにしろ。ただし覚悟しとけよ? 俺に着いてくるってことは毎回こんな感じだからな」

「うん!」


 凰華は満面の笑みを浮かべ、拓飛の後を追い掛けた。


                                              (第三章に続く)

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