第一章

『人虎(一)』

 ————晴天の朝、とある田舎町の道場の広場に十数名の子供が規則正しく整列している。


「それじゃ中段突き百回! 始め!」

凰華オウカ姉ちゃん、百回は多いよ!」

「今は師範代と呼びなさい。そんな弱音を吐いてると強くなれないわよ。はい、いーち!」


 号令を掛けたのは十七、八歳の娘。陽に焼けた肌に荒れた指先、幾重にも修繕跡が見られる着物を着ており、一見どこにでもいそうな田舎の町娘に見える。


 だが少女には不思議な魅力があった。絶世の美女という訳ではないが、その大きな瞳と澄んだ声、愛らしい笑顔に老若男女問わず多くの者が惹きつけられた。


 少女の姓は『セキ』、名は『凰華オウカ』。石道場の一人娘である。外見とは裏腹に拳法の腕前はかなりのもので、道場の師範代も務めており、並の男では相手にならないほどだ。


「こんな朝っぱらから精が出るねえ」

「何の用よ、松二ショウジ。門下生以外は立入禁止なんだけど」


 裏門からあくびをしながら入ってきた男に、振り向きもせずに冷たく答える凰華。


「元・門下生だろ。堅いこと言うなって」


 言いながら凰華の肩に手を回そうとするが、その手は空を掴んだ。


「何度も言ってるでしょ。あんたとは付き合えないって。それに父さんも自分より強い男じゃないと娘は嫁にはやらんって言ってたわよ」

「う……せ、石先生は?」

「朝から町長さんの寄り合いに行ってるわ」


 父親よりも恐れている元師匠が不在と聞いて松二は胸を撫で下ろした。


「男は腕っぷしが強けりゃいいってモンじゃねえんだよ。いいか、男ってのはな……」

「そうね、あたしは別に自分より強くなくてもいいけど、物事を簡単に投げ出す男は嫌い。修行がキツいからって道場を辞めるような奴はね」

「いや、それには理由が……」

「ほう、どんな理由があったのか是非俺に教えてくれんか、松二よ」


 耳元から野太い声を聞き、全身に冷や汗が浮かび上がった。


「せ、石先生!」


 振り返ると厳つい体躯の髭面の男が目の前に立っている。ここまで接近されているのに全く気が付かず心臓が鳴り止まない。


「さあ、どうした松二」

「い、いえ、私は急用がありますので、これで失礼します!」


 脱兎の如く走り去る松二を目で追うこともなく、凰華は父に話しかける。


「お帰りなさい、父さん。何の話し合いだったの?」

「うむ、子供らの練習が終わってから話そう」


 いつも豪放磊落な父親が浮かない顔をしている。良い話ではなかったと凰華は直感した。



「————人虎?」

「うむ」


 夕食の後、茶をすすりながら石桐仁セキトウジンは語り始めた。


「人虎とはその名の通り虎の妖怪だ。一匹一匹はさほど強い妖怪ではないが、人間に化けて人語を解すものもいる。町中に紛れられると非常に厄介なのだ」

「その妖怪が現れたの?」

「うむ、数日前隣町に数匹潜んでいたところを通りすがりの『仙士せんし』が退治したらしいのだが、一匹だけ逃げ延びたそうだ。逃げた方向からこの町にたどり着く可能性が高いため……」

「この町唯一の仙士にお鉢が回って来たってわけね」


父の話の終わりを待たず凰華が興奮気味に答える。


「元・仙士だがな」


 仙士とは『氣の力=内功』を用い妖怪退治を生業とする者の総称である。どこにも属さずに報酬と引き換えに行う者もいれば、皇帝に認可を受けた門派に属し、任務として遂行する者もいる。


「ねえ、父さん。そろそろあたしにも内功を教えてよ。そうすれば戦力が二人になるわ」

「駄目だ、いつも言っているだろう。内功は強力な力だ。使い方を誤れば大変なことになる。軽々しく教えることは出来ん」

「もう、じゃあどうしたら教えてくれるのよ」


 口を尖らせる娘をなだめるように桐仁は言った。


「その話はまた今度な。俺はこれから町へ巡回に出てくるから、戸締まりを頼むぞ」

「はーい。気をつけてね、父さん」


 笑顔で父親を見送りながら凰華はつぶやいた。


「さーてと」



 人気の無い裏通りを走る一つの影。凰華である。


 子供の頃、父親が妖怪退治をやっていたという話を聞いてから、日増しに仙士への憧れは募っていくばかり。桐仁は拳法の技は指南してくれるが内功だけは頑として教えてくれない。


(あたし一人で人虎を退治できたら、きっと父さんも内功を教えてくれるわ)


 そこらの暗がりに妖怪が潜んでいるかも知れないというのに凰華の表情は強ばるどころか興奮で上気していた。

 その時、前方の闇の中を白い何かが横切り角の先へ消えて行った。


(――人虎!?)


 急いで追いかけ角の先へ目をやるが、妖怪どころか野良猫の姿すら見えない。キョロキョロと辺りを見回すと、この辺りは廃屋ばかりで真っ暗である。


(まさか幽霊……!)


 青ざめながら、妖怪はともかく実体の無い幽霊に拳は当たるのだろうかなどと考えていると、かすかに人の笑い声が聞こえてきた。

 耳をすませば、声は一人ではなく複数人のようだ。複数で談笑しあう幽霊など聞いたことがない。相手が人間だと思うと俄然勇気が湧いてきて、凰華は声を頼りに歩き出した。


 入り組んだ路地を進んでいくと明かりが灯る廃屋が見えた。荒れた窓からそっと中を覗くと、十数人のガラの悪い男たちがサイコロを振ったり、札遊びに興じている。どうやらここはゴロツキたちの賭場のようだ。


 ふと、その中によく知った顔が見えた。


 ───松二だ。


 道場を辞めてからガラの悪い連中とつるんでいるとは聞いていたが、賭場にまで出入りしているとは。踏み込んで連れ戻そうとした矢先、轟音と共に入り口の扉が破裂した。一同の視線が一斉に入り口に注がれる。


 ————そこには一頭の虎が立っていた。


「お楽しみのところ邪魔するぜ」


 現れたのは十七、八歳の青年だった。だがその髪は生え際から毛先まで真っ白く、鋭い眼光は赤みを帯び、笑みを浮かべたその口元からは獣のような牙が見える。


(まさか、この男が人虎なの?)


 松二を連れ戻そうとしていた凰華だったが、今は縫い留められたように、この白髪の青年から目が離せない。


「なんだ、てめえは!」


 入り口の近くに立っていたゴロツキが青年に向かって拳を放つ。青年は右腕で拳を払い、そのまま右肘を相手の脇の下に叩き込んだ。ゴロツキは白目を剥いて倒れ込んでピクリとも動かない。


 仲間がやられたのを見てゴロツキたちは各々刀を抜いた。しかし青年は刃物など目に入っていないかのようにズカズカと部屋の中央へ歩き始めた。


 四人の男が目配せをして一斉に飛びかかる。誰もがズブリという刃が肉に食い込む音を想像していたが、予想に反し聞こえてきたのは、ギィンッという金属音の後にゴトンゴトンと何かが床に落ちた音。


 落ちたのは青年の首───ではなく四本の刀身である。続いて四人の男達が順に床に叩きつけられ気絶した。


「こ……硬氣功だ!」


 ゴロツキの一人が驚愕の声を上げた。


 『硬氣功』とは内功の基本技の一つで、体内に氣を巡らし、その反発力で外力を防ぐ防御技である。


 凰華は子供の頃、旅の武芸者が見世物で木刀を受けるのを見たことがあるが、いくらなまくら刀とはいえ同時に四つの真剣を折ってしまうとは。自分と同じ年頃の青年がここまで見事に内功を修めていることが信じられない。


 青年は拳を収めると一同を端から順に睨めつける。至近距離で虎に睨まれた子鹿のように誰も動けない。その赤眼が一番奥の大柄な男の前で止まった。


「よう。やっと見つけたぜ」


 全員の視線が声を掛けられた大柄な男に集まる。男は表情を変えず口を開いた。


「……てめえ、拓飛タクヒとか言ったな。なんで俺の居場所が分かった?」

「鼻が利くんでな」


 本気とも冗談ともつかない表情で拓飛と呼ばれた青年は答える。


「単独で動いてるってこたぁ皇下門派こうかもんぱのモンじゃねえな。いくらで雇われた?」

「カネじゃねえよ。てめえには訊きてえことがあるだけだ。俺が知りてえことを知ってりゃ見逃してやる。ついて来い」

「……ついて来いだと? 嫌なこった」


 突如、男の全身からザワザワと縞模様の体毛が急速に生えだし、爪と牙が鋭く伸びる。


「ひいィィィィっ! よ、妖怪ィィィっ!」


 松二の叫び声が室内に響き渡ると同時にゴロツキたちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。男が突然、人身虎頭の妖怪に姿を変えたのだ!


(あいつが父さんの言ってた人虎!)


 人虎は逃げ遅れたゴロツキの一人をむんずと掴むと拓飛に向かって投げ飛ばした。凄まじい速さでゴロツキが宙を舞うが、拓飛は蝿でも払うように無造作に弾き飛ばす。だが人虎はゴロツキを投げると同時に、凰華が立っている窓に向かって走り出していた。


「キャッ!」


 凰華が驚いて窓から身を避けた瞬間、人虎が窓から身を乗り出す。すれ違い様に人虎は凰華の姿を認めると耳まで裂けた口の端を歪め、そのまま夜の闇の中へ消えて行った。


 「チッ。相変わらず逃げ足だけは速え野郎だ」


 拓飛が悪態をつきながら入り口から出てくる。その際、凰華と眼が合うが興味がなさそうに顔をそらすと、人虎が逃げた方へ向かって歩き出した。凰華は人虎を追いかけるか松二を追いかけるか一瞬迷ったが、この青年に対する興味が勝った。


「ちょっと待ってよ。あなたがあの人虎を追ってた仙士なの? あいつに訊きたいことって何? あたしと同じくらいに見えるけど、どこで内功を覚えたの?」

「……うるせえ女だな。おめえに教える義理はねえよ。さっさと家に帰りな」


 面倒くさそうに顔だけ振り返ると、そっけなく答える。だが凰華は拓飛の前に回り込むと抱拳礼を取る。


「ごめんなさい。いきなり不躾だったわね。あたしの名前は石凰華。石道場の一人娘よ。あなたは拓飛と呼ばれてたけど、姓はなんて言うのか教えてくれない?」


 これを聞いて拓飛は呆気にとられた。年頃の娘が初対面の男に躊躇なく自分の名を告げるとは。


「……姓はねえ。ただの拓飛だ」


 質問に答えるつもりはなかったのだが、仕方なく答える。


「そう。じゃあ、さっきの質問だけど隣町で人虎を倒した仙士ってあなたで合ってる?」

「そうって、おまえそれだけかよ? 俺が嘘言ってるかも知れねえとは思わねえのか?」


 凰華はキョトンとした顔で口を開く。


「嘘をつくつもりなら適当な姓を名乗るでしょう? だったら本当に姓が無いか、言いたくないかのどちらかよね。相手が言いたくないことまで無理に聞き出すつもりは無いわ」


 拓飛は新種の生き物を見つけたかのように目の前の少女をまじまじと見た。その表情に侮蔑の色は見られない。今まで出会った人間に姓が無いと答えると、嘘をつくなとムッとするか、姓すら与えられない下層出身と思い蔑まれるかのどちらかだったのだ。もっとも蔑んだ相手が男だった場合は全員半殺しにしてきたのだが。


「凰華。その男から離れるんだ!」


 その時、凰華の後ろから野太い声が聞こえた。


「父さん!」


 振り返ると、桐仁が真剣な面持ちで立っていた。


「早くしろ! 俺の後ろに来るんだ」


 言いながら桐仁は凰華の肩を掴み、自分の背中に引き寄せ拓飛の前に立ちはだかる。


「聞いて父さん。この人は───」

「分かっている。さっき遠目に人虎が逃げていくのが見えた。だが、この男も普通の人間だとは思えん」


 桐仁は斜に構えて、拓飛を見据えた。


「ハッ。いいねえ、おっさん。あんたみてえのが分かりやすくていいぜ」


 拓飛も構えを取った。


 「ちょっと待って! 二人とも───」


 慌てて凰華が間に入ろうとするが、止める間もなく二人は打ち合い始める。

 最初は二人を止めようとした凰華だったが、そこは武術家の端くれである。手練れ同士の勝負など滅多に見られるものではない。夢中になって二人の動きを眼で追った。


 桐仁の技はいつもの稽古で見慣れたものだったが、技の鋭さ、力強さがまるで違う。どうやら自分に稽古をつける時は相当に手加減をしてくれていたようだ。

 手技に足技を織り交ぜる桐仁と比べて拓飛は蹴り技は使わず、その脚は震脚や歩法にのみ用いるらしい。どっしりと大地を踏みしめ放たれる拳や肘の勢いは凄まじく、受け止めた桐仁の身体が後ろに弾き飛ばされるほどだ。


「待て!」


 追い打ちをかけようとする拓飛を、桐仁は右手を突き出し制する。


「なんだ、おっさん。降参か?」

「貴様、やはりただの人間ではないな? どうやら内功の心得があるようだが、その左腕からは人間のものとは異なる氣を感じるぞ」


 闘いの最中も常に不敵な笑みを浮かべていた拓飛だったが、これを聞いて真顔になった。


(左腕? そういえばゴロツキを打ちのめした時も、今の闘いも左手は捌きや受けだけで、攻撃には全く使っていなかったけど……)


「あんたに答える義理はねえな」

「そうか。ではその左腕、使わざるを得んようにしてやろう」

「この左手を使っちまったら、あんた死んじまうぜ」


 その表情は真顔のままで、軽口を叩いている雰囲気ではない。


「こんな若造に利き手を温存されるとは俺も舐められたものだな」

「武術に利き手もクソもねえが、箸を使うのは右だぜ」


 桐仁の怒るまいことか。息を大きく吸い込み氣を運用し始める。


「おいおい。おっさん、内功なんか使って大丈夫かよ? んな身体で───」

「黙れ!」


 桐仁が怒りの声を上げた。


「おー怖え怖え。どうなっても知らねえぞ」


 応えるように拓飛も氣を全身に巡らす。先程までは双方内功を使わずに闘っていたが、氣を込めた一撃を喰らえば怪我では済まないだろう。


「ダメーっ!」


 拓飛と桐仁が踏み込んだ瞬間、凰華は両手を広げて二人の間に割って入った。幸い拓飛と桐仁は打ち出した拳を途中で止め、事なきを得たが、一歩間違えば左右から内功を喰らい死んでしまうところだった。

 この時、凰華の伸ばした両手は拓飛と桐仁の胸に当たっていたが、拓飛は驚いた表情を浮かべると、ひとっ飛びで二階建ての家を飛び越えて行ってしまった。


「凄い……。あれが軽功……!」


 凰華は啞然とした表情で拓飛が消えて行った方を見ていたが、背後でうめき声が聞こえ振り返ると桐仁が胸を押さえて片膝を付いていた。


「父さん! どうしたの!? まさかあたしの掌底で!?」


 駆け寄る凰華を手で制して桐仁は立ち上がった。


「内功の使えんお前の攻撃で痛めたのではない。あの若造にもらった所が少し響いただけだ。大したことはない。心配するな」


 安堵した凰華だったが、気にかかるのは恐ろしい人虎よりも、あの拓飛という青年のことである。


「父さん。あの拓飛って人、何者なのかな?」

「門派までは分からん。だが粗野な言動とは裏腹にあの技は間違いなく正派のものだ。ゴロツキが体得出来るものではない」

「うん。あたし他の門派のことはよく分かんないけど、型が綺麗で正統派って感じだった。しかもあたしと同じくらいの歳なのに内功まで操ってたよ? 簡単に教えてもらえるものじゃないんでしょ?」

「そうだ。いくら才能があって腕が立とうと、人品優れた者でなければ内功は授けられん。それが正派なら尚更だ」


 考え込む二人だったが、不意に桐仁が口を開いた。


「それよりも凰華。俺は家にいろと行ったはずだが、何故ここにいる?」

「え……」


 凰華は恐る恐る父親の顔を覗き見た。昔、桐仁が大事にしていた壺を割ってしまった時と同じ表情をしている。これは本気で怒っている顔だ。


「あっ! そんなことより賭場で倒れてる人たちを介抱しなきゃ。父さんも手伝って!」

「そうだな。役所にも届けねばならん。説教は帰ってからにしよう」


 凰華は聞こえない振りをして賭場に入っていった。

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