第30話 英雄
クダンスコもまた古い街並みの残る美しい港町である。一時は自由都市として独立していた経緯もあり、この町の住民はパルラントの中でも殊更に自立心が強い。
色とりどりの古風な建物が立ち並ぶ町の一角で、レナはコーヒーとケーキをご馳走になっていた。
「君とは話がしてみたかったんですよ」
ヴァレンサは、噂に聞く血気盛んな暴れん坊という印象からはかけ離れた、穏やかな物腰の男性だった。
「恐縮です」
「俺は忙しかったから会えなかったけど、妹さんの活動は俺の耳にも入ってました」
「ありがとうございます」
「まさかお姉さんが元保安局員とは思わなかったけどね」
「はい」
「さて、さっさと本題に入りましょう」
ヴァレンサは椅子に座り直した。
「ステンシルさん、『聯帯』に正式に加入してください。そして俺と一緒に指導的な立場を担ってもらえませんか」
レナは首を傾げた。
「何故私に?」
「革命には偶像があった方が良い。あのマヤ・ステンシルの姉ならば申し分ないです」
「ああ……」
レナは目線を落とした。そして頭を下げた。
「お断りします」
ヴァレンサは拍子抜けしたような顔をした。
「こりゃまた、随分と早い決断ですね」
「そのお誘いを受けるべきは妹でした。私には身に余ります。あの子は英雄ですが、私は罪人です」
「そんなことは……」
「私たちの求める民主化が実現すれば、私は法に従って処罰されるでしょう」
レナは抑揚のない声で言った。
「私は国民の期待を背負うには罪を重ね過ぎた。相応しくありません」
ヴァレンサは肩を竦めた。
「まあ、断られる気はしてました」
「そうなんですか? わざわざお時間を割いてくださったのに」
「言ったでしょう。俺はあなたと話がしてみたかったんです」
ヴァレンサはケーキを頬張った。
「保安局員になって悪事に手を染める人間がどんな人物なのか、会ってみたかった。ところがあなたは俺が思っていたような人間とは違いました。こう言っては何ですが、ごく普通の……善良な女性で」
レナは苦笑した。
「人は見かけによらないということです」
「いいえ。あなたのような方が人を傷つけなければならなかったというのは、悲劇ですよ」
「悲劇?」
「はい。あなたのような良心的な人間に、罪を強いるようなこんな社会は……やはり間違っている」
「そうでしょうか」
「あなたはもっと自分を大事にした方が良い」
ヴァレンサは笑いかけた。
「あなたは確かに加害者でもあるが、被害者でもあるんです」
「……聞かなかったことにします」
レナは目を逸らした。
「どうあがいても、私は加害者です。罪人は罪人なりに、できることをするまでです」
そうですか、とヴァレンサは言った。
その後もレナが革命の表舞台に出ることはなかった。とはいえ、レナとマヤの物語が地下出版を通じて国民に知れ渡ってしまった以上、レナは完全に無関係を貫くことはできなかったので、その立場を利用してマヤという一人の娘の存在の周知に貢献した。マヤは、あの戒厳令の日の犠牲者の代表として、また革命の象徴として、ますます知名度を上げていった、ヴァレンサと並んで民主化運動の英雄と称されるようになるまで、そう時はかからなかった。
その後、民主化革命は順調に進んでいった。
政府は「聯帯」による要求に押されに押され、否応なしに改革を実行することになっていった。
市場経済の導入。政府による一元的な人事政策の否定。法治国家としての制度の見直し。保安局および民警機動隊の解体。
それでも、「聯帯」が勢いを衰えさせることはなかった。相次ぐストライキやデモに政府は頭を痛めていた。
殊に、マヤたち戒厳令の犠牲者の命日に実施されたヴァソヴィオでの大規模ストは大規模なものだった。この時の「聯帯」派の記者たちによるレナへのインタビューは、ストライキをこれでもかというほど煽り立てた。この日のストは国内経済に深刻な打撃を与えた。
これを受けて、政府は「聯帯」と対等な話し合いの場を設けるに至った。一九八九年二月のことだった。
その会議は、政府に対して「聯帯」が下から抗議を言い立てるという、これまでの構図ではないという点が、特徴だった。ヤーゼルら政府の代表者と、ヴァレンサら「聯帯」の代表者たちは、同じ大きな円卓を囲んで隣同士に座って会議を進めた。
会議の様子は逐一テレビで放送された。体力が回復してきたレナは、フロレック家の家事手伝いをしながら、暇を見てはテレビの前に座り込んで経過を注視した。
この「円卓会議」は二か月に及んだ。そこで決まったことは民主化革命の決定打となった。
まずは、大統領制の導入。それから、自由選挙の実施。さらには、パルラント共産党第一書記の指導的立場の否定。これら三つは、共産党一党独裁を政府が完全に放棄したことを意味していた。
さらには、言論の自由が完全に保証された。検閲は撤廃され、報道は自由化された。「聯帯」の活動は以前よりはるかに大手を振って行われるようになった。
このような状況下で実施された自由選挙では、「聯帯」派の候補が圧勝した。パルラント共産党は惨敗ののち退陣に追い込まれた。暫定的に大統領を任ぜられていたヤーゼルも退き、ヴァレンサが新しい大統領として任命された。
「キャーッ!」
テレビの前で、オリヴィアはレナの手を取って飛び上がった。
「やったわ、ついにやったわ!!」
「ええ、そうね」
レナも喜色を隠し切れない様子だった。
事態はこれだけにとどまらなかった。パルラントの民主化という衝撃を受けて、東側諸国全体が動き始めたのだ。
中でもマージャ人民共和国は、民主派との会議の末、西側諸国との国境に設置されていた鉄条網を撤去した。「鋼のカーテン」に風穴が空き、東側諸国の人々はマージャを通じて西側諸国へと移動できるようになった。
多くの東ジェルマ人が、西ジェルマへの亡命を希望した。しかし東ジェルマからマージャを経由して西ジェルマへ抜けるためには、チェスコスロヴィオを突っ切って行かなければならない。この状況を受けて、チェスコスロヴィオもまた鉄条網を撤廃し、東ジェルマ人の輸送に協力することを決めた。チェスコスロヴィオ社会主義共和国は、この後民主化を進めるに当たって、チェスコ共和国とスロヴィオ共和国の二国に分かれる選択をした。
東ジェルマ人は西ジェルマに大挙して押し寄せた。とうとう東ジェルマの首都ベルリーノに設置されていた壁も市民の手によって打ち壊された。
この一部始終に対して、ソヴェティアは何の介入も行なわなかった。
「鋼のカーテン」は消滅し、西側諸国と東側諸国という区分も意味をなさなくなった。
「すごいわね。歴史が変わったわ」
オリヴィアはユリアンを招待して家でお茶を飲んでいた。
「マヤが世界中を動かしたんだわ。ね、レナ」
「そうかしら」
「そうだと言っても過言ではありませんよ」
ユリアンは頷いた。
「マヤの死は無駄じゃなかった。あの日、恐れずに立ち向かった僕たちは、共産圏に打ち勝ったんだ」
「私はね」
レナは少し寂しそうだった。
「共産圏なんてどうでもよかったの。あの子が生きてさえいてくれれば」
「レナさん……」
「状況を変えようとするのは愚かだわ。だから与えられた状況の中で、どうやってあの子を守るか、そればかり考えていたの」
レナは遠い目をした。
「でも……私がどうしても守りたかったものをなげうって、あの子は夢を叶えるために、走っていってしまった。私はそれを止めることができなかった。私の夢は叶わなかったわ」
オリヴィアとユリアンは顔を見合わせた。
「今でも思うの。あの子が死ななければいけなかったなんて、そんなはずはないと。あの子がうちで大人しくしていてくれていたら……。でも、『もしも』のことなんて、考えても仕方がないわね」
レナはコーヒーを一口飲んだ。
「今は、あの子が夢を叶えたことを、喜んであげましょう。マヤは本当に凄い子よ。私の誇りだわ」
「そうね」
「そうですね」
オリヴィアとユリアンは穏やかに笑った。レナも、固い表情筋を少し緩めた。
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