第29話 遺品
ユリアンとの面会は、レナの体調を気遣って、オリヴィアの自宅で行われることになった。
赤毛の男性が、見舞いの菓子を持って、レナの元を訪れた。
レナとユリアンは机を挟んで向かい合った。オリヴィアはお茶を淹れに行った。
「あの時は……手伝ってくれてありがとう」
レナは言った。
「いいえ。僕はマヤを守ることができませんでした……」
ユリアンは俯いて、それから鞄の中をゴソゴソと漁った。
「これを」
「?」
彼が机の上に置いて差し出したのは、白い琥珀でできたスズランのブローチ。
「マヤはあの日これをつけていました。これは僕がマヤと旅行に行ったときにおそろいで買ったものです。あなたに会ったら渡そうと思っていました。僕は意識不明の重体でマヤの葬式に出ることも叶いませんでしたが、目覚めた時に仲間にこれを渡されたんです」
レナは首を振った。
「それならこれはあなたのものよ。私にはとても受け取れない」
「僕にはもうこれがありますから」
ユリアンは自分のジャケットの襟を指さした。そこには確かに、目の前のものとそっくりな彫刻のブローチが光っていた。
「僕はそれをあなたに受け取ってほしいんです。マヤの家に帰してあげてください。あなたがいるところが、マヤのおうちなんですから」
「……」
レナはユリアンとブローチを交互に見て、逡巡していたが、ユリアンの視線に促されて、とうとうそれを手に取った。
「ありがとう」
ハンカチに包んで大事に仕舞い込む。
ユリアンはにこっと笑った。
「それで、これからレナさんはどうされるんですか」
「……『聯帯』に協力するわ」
オリヴィアからコーヒーを受け取って、レナは言った。
「これはオリヴィアにも言おうと思っていたの。聞いてもらえるかしら」
「ええ、もちろん」
オリヴィアは椅子に座った。
「私は」
レナは思い切って言った。
「パルラント政府の秘密の一部を握っている。この情報をパルラント国民と西側諸国に流したいの。そうしたら革命の勢いは一層増すと思う」
オリヴィアとユリアンは目を見開いた。
「いいのですか?」
ユリアンは躊躇いがちに尋ねた。
「そんなことをしたらレナさんの身に危険が……」
「マヤのことで我が身を惜しいと思ったことは無いわ」
レナは迷いなく断言した。
オリヴィアはしばらく考え込んでいたが、不意に言った。
「だったらウルバノヴィチさんが適任なんじゃないかしら!」
「……そうかもね」
ユリアンは目尻を下げた。
「ウルバノヴィチさん?」
「私とマヤとで会いに行ったことがあるんです」
オリヴィアが説明する。
「『学術研究会』のメンバーで、今では『聯帯』の広報係を担当してらっしゃるのよ」
「僕の伝手で連絡を取ってさしあげます」
翌年の明け、レナはヴィトゥラ川沿いの邸宅を訪れた。
「やあやあ、待っていたよ」
中年の男性が顔を出した。
「お初にお目にかかります。レナ・ステンシルと申します。その節は妹がお世話になりました」
「なんのなんの。さあさあお上がり」
応接間に案内される。
「改めまして、私の名前はヴィエリミール・ウルバノヴィチだ。君の妹さんがうちに来たのも年の初めの頃だったなあ。確かそう……ええと……ちょうど七年前になるね」
「そうですか」
レナは俯いた。マヤはついこの前まで生きていたと思っていたのに、彼女が生きて笑っていた時間は、どんどんと過去のものになってゆくのだなと思った。
「なかなか優秀な学生さんでね。あの時は盗聴器があったから、妹さんはうまくカムフラージュをしてくれていたんだ」
「そんなことが……」
「さて、早速だが取材を始めようかね」
ウルバノヴィチさんはメモ帳を手に取った。
「悪に加担していた者の口は往々にして非常に固い。君の証言はとても貴重なものになるだろう」
「はい」
「だが、この取材内容が公開されれば、君は世間から罪人として扱われるだけではなく、君の存在を恐れた保安局からも標的にされるだろう」
「覚悟の上です」
「ふむ。ではまず、君がそのような覚悟をするに至った経緯から、お聞きしようかね」
レナは、これまでのことを話した。
妹の命を守るために父親を売り、保安局に入ったこと。悪事に手を染めながらも守ろうとした妹が、死んでしまったこと。自分は妹が出来なかった分まで民主化に貢献する意志を固めたこと。
「ほうほう」
ウルバノヴィチさんは興味深そうに頷いている。
「では次に、君と妹さんの関係についてもう少し掘り下げてお聞きしよう。妹さんはどんな人だったかな?」
「あの、保安局のことは」
「もちろん取材するよ。でもそれは最後にとっておこう。今は妹さんの物語も必要なんだ。彼女は革命の英雄だからね」
「……分かりました」
可愛い妹でした、とレナは言った。
優しい良い子でした。頭もよくて、他人に親切で、正義感が強くて、家族を大事にしていました。
四つも歳が離れていましたから、特に喧嘩をすることもなく……私が守らなくてはと思っていました。
目的のために一直線に突進してしまうような危なっかしいところもありました——
それからひとしきりウルバノヴィチさんからの質問に答えた。どれだけ喋っても、あの子の尊さを表し切れる気がしなかった。
その後ついに、保安局の実情についての取材が始まった。
レナは緊張しながら、知りうる限りの情報を提供した。
政府にとって邪魔な人間の不当逮捕。刑務所で行われる拷問。収容所での強制労働の実態。
「かくいう私は、薬物による拷問に加担していました。また、西側の諜報員の処刑も行いました」
「……君自身が、かね?」
「はい。私は他人を拷問し、時には殺しました。この手で」
「……そうか」
ウルバノヴィチは真剣な顔をした。
「これは君にとってはつらい質問になるかもしれない。都合が悪かったら答えなくても構わないから、出来る範囲で教えてくれ」
「承知しました」
「では、ゴホン。人を傷つけたことについて、どう思っていますか?」
「……申し訳ないことをしました」
レナは沈痛な声で言った。
「後悔はありません。私には仕事をやる以外には選択肢はありませんでした。それに私は妹のためならどんな残酷なことだって耐えられました。でも傷ついた人には……そんなこと関係無いですよね。失ったものは戻らないのですから」
失礼、と言ってレナは頓服の精神安定剤を飲んだ。
「大丈夫かね?」
「ええ。取材を続けてください」
後日、革命の殉教者マヤ・ステンシルについての記事と、保安局の実態を暴露した記事が、「聯帯」が監修している週刊誌に掲載された。
この記事はパルラントじゅうで凄まじい反響を呼んだ。
国民の怒りは爆発した。
残虐非道のパルラント共産党一党独裁体制を許すまじ、という気運の高まりがいよいよ熱気を帯びてきた。
この情報を目にした西側諸国からの非難もまた大きかった。パルラントは国際上でも厄介な立場に立たされてしまった。
「あなたの記事は革命を後押ししたわね!」
オリヴィアは明るく言って、レナを労わった。
「ごめんなさい。私を匿っているとあなたにも迷惑がかかるわね」
「そんなこと今更気にしやしないわよ。仲間なんだから」
レナは胸に迫るものを感じた。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
その時、電話のベルが鳴った。オリヴィアが「はーい」と言って応対に出る。
「はい、オリヴィアは私ですが。……ハアン!?」
オリヴィアは受話器を取り落とさんばかりに驚いた。
「ええ、ええ、少々お待ちください」
オリヴィアは物凄い勢いでレナを振り返った。
「レナ!」
「な、何かしら」
「『聯帯』議長のレフ・ヴァレンサさんが、レナに会いたいんですって!」
レナは硬直してしまった。
「レナ、どうする? この話、受ける?」
レナは黙ったままだったが、オリヴィアはこれを是と受け取った。
「よろしくお願いしますっ!」
「あ……オリヴィア? 私まだ何も……」
「はい、はい。分かりました! レナ、ヴァレンサさんが呼んでくださるかもって!」
レナには未だに、何が起こっているのか、信じられないような気持だった。足元がフワフワと覚束ない感じがした。
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